2006年5月4日木曜日

岸本葉子 「家もいいけど旅も好き」(講談社文庫)

最近、めったに見かけなくなった、岸本葉子さんの「旅エッセイ」である。行き先は、国内が主だが要所要所で海外がはさんである。
構成は、「なつかしい旅」「からだで知る旅」「くつろぎの旅」の三部構成。

まず、「なつかしい旅」では、「石垣島」「下諏訪温泉」「伊勢志摩」「軽井沢」「台湾」を訪れる。いずれも、今とは違ってしまった昔の残る地を訪ねる旅である。
例えば、「石垣島」では筆者の叔父(父親の弟)を数十年ぶりに訪ねる旅であるし、「軽井沢」は日本の別荘第1号の復元されたものを訪ねるものである。こうした、「昔」「古」の姿は、台湾を訪ね、台北の街で、


路地をさらに入っていけば、大通りの喧しさが嘘のような、ひっそりとした家並みだ。どこの家からか、蝿のうなるような、低いラジオの音が聞こえる。 
家の前に出した椅子で、涼む老人。同じように涼むとなりの人と、腰かけたまま世間話だ。その家の嫁とおぼしき女性が、木陰で赤ん坊をあやしている。小学校に上がる前ぐらいの女の子が、母親をまねて妹を抱きあげようとし、つぶれてしまい、ふたりして笑いくずれる。 
どうかするとその中に、瓦屋根の日本の家が残っていたりする。懐かしい、と感じてはいけない。台湾を戦前の五十年間日本が支配したという、歴史の証しにほかならないのだから。 
けれども、軒下に立っていると、胸の中の記憶の揺りかごで、何かがそっと呼び覚まされる。ひと昔もふた昔も前、私が子どもだった頃、家族とはご近所とは、こんなものだった。 
なぜだろう。台湾も日本と同じかそれ以上に急な経済成長をしてきたのに、日本人が失ったものが、こうした通り角などに、残っている。そのたびに私は、足をとめる。 
はじめてなのに、ほっとする。その感じは、日本時代の名残のためではないはずだ。 


というあたりで、昔の姿が、はっきりしてくる。

「からだで知る旅」は、「愛媛/内子」「東京/高尾山」「都心から自宅」など。
内子では「タケノコ掘り」をしたり、高尾山では登山、そして地震の時の帰宅難民を想定しての都心から自宅までのウォーキング。いずれも「身体」で思い知る旅である。


「くつろぎの旅」は「ヴェトナム/ハノイ、ホーチミン」「パームスプリングス」「鎌倉」「平泉」など。

ヴェトナムでは、口のくつろぎ。牛肉入の「フォー・ボー」、鶏肉入りの「フォー・ガー」からタニシを具にして、トマトを入れた真っ赤なスープをかけて食べる「ブン・オック」。ヴェトナムには行ったことがなく、下川裕治さんの旅本などで知る以外ないのだが、一度は食してみたい麺料理だ。


そのほか、「パームスプリング」では、スパリゾートでのマッサージなどなど。どうもプロの手によるマッサージは、かなり「極楽」のようだ。しかも、筆者の訪れたスパでのモットーは「パンパーリング」。意味は「あなたは特別なんです、というふうにケアすること」、口悪く言えば「やたらチヤホヤすること」らしい。頭の上から爪先までのケアで、とろとろになっている筆者の姿が見えるようである。


そして、この文庫本用に収録された『ひと月の「わが家」〜広尾入院生活』で最後を締める。
単行本が出版された後、入院し、手術も受けているらしい。最近は筆者の「ガン」のエッセイも目立始めるから、そうした病気だろうか?
病院という日常ではないところへの「旅」で終わるところが、このエッセイとただ者ではないところだろうか。


単行本が出版された後、入院し、手術も受けているらしい。最近は筆者の「ガン」のエッセイも目立始めるから、そうした病気だろうか?
病院という日常ではないところへの「旅」で終わるところが、このエッセイとただ者ではないところだろうか。

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