2007年12月23日日曜日

CFW入れました

あまり、おおっぴらに書くことでもないのだが、PSPにCFW入れました。
3.51までファームウエアをあげてしまっていたので、パンドラバッテリーを利用。
(パンドラはヤフオクで手に入れました。)
CFWのファームウエアバージョンはCFW3.71M33-4をいれて、ついでに1.50addonも入れて、各種エミュレータ等をDL。
いろんなことができるもんですねー。もっと早くいれればよかったと思うことしきりであります。
SONYさんも、もっと自由な利用を認めるようになれば、DSの牙城を崩すのも夢ではないと思うんですが、どうですかねー。(もっとも旧製品へのサポートにはあまり熱心でないくせに、メーカー御推奨の使い方を強いてくるのは熱心なメーカーだから期待薄なんだけど)

2007年12月18日火曜日

韓国旅行の携行モバイルをzaurusに

今回の韓国は、携帯するモバイルはzaurus一本に絞った。
(もっとも、Clie NX70は除きます。これは、自分にとってモバイル機器というより手帳感覚なので)
で、携行する鞄も、ずいぶん軽くなって、これでいいよなーと思っていたら、残念なことに、今回泊まったホテルは、格式はそれなりなのだが、古いせいか、部屋にLAN設備がなし。
まあ、死ぬほど不便というわけではないのだが、やはり、ブロードバンド環境になれていると、なんか落ち着かないものですねー。
今度は海外のホテルもLANの有無を確かめないといけないですよねー、と実感したのでありました。

2007年12月17日月曜日

チョンゲチョン(清渓川)

ソウルのイルミネーションは、ド派手で、スゴイ、という話を聞いていたが、噂に違わず、ハデハデであった。
はではでではあるが、ソウルのキリッとした乾いた寒気の中では、しっくりくる。
あちこちにイルミネーションはあるのだが、これは、都市再開発や水辺の再生の話では必ず出てくる、高速道路を埋め立てた後の、チョンゲチョン(清渓川)


こんなのもある。

もうひとつ

2007年12月2日日曜日

Mucky com閉鎖

最近、Clie NX70のカスタマイズに凝っていて、久々にMucky.comにアクセスしたら、なんとリンク切れをしていた。
Palmソフトのインストールにお世話になりっぱなしのサイトであっただけに残念。
こうやってPalm系サイトは少なくなっていくんでしょうねー。
でも、私は、壊れるまでNX70使い続けるぞー!!
(そろそろ、予備機をヤフオクでゲットするかなー)

2007年11月28日水曜日

Clieで大ファイルを使う

Clie NX70のユーザーエリアは11Mしかないので、容量の大きなファイルやアプリケーションをインストールしているとすぐいっぱいになってしまう。
そこで、このMSMountを使うと、メモリースティックにおいたアプリケーションや読み込み専用のDBを、まるで本体にインストールしたような状態で使うことができる。
インストールはこちら
http://www.geocities.com/nagamatu/index-j.htm
でMSMountをインストールしたら、メモリースティックに/PALM/PROGRAMS/MsMountというフォルダをつくり、そこにアプチリやらDBをコピー。
「環境設定」の「MSMount」から「Enable」を選択すれば、フォルダ内のアプリがマウントされて本体にインストールしたのと同じ状態で使用できる

2007年11月27日火曜日

Clie用のJpegビューワ

Clie用のJpegビューワ
Clie付属のClieビューワより起動が早いのと、読み込むファイルの場所を選ばないのがメリット
CFUtility108でアクセス可能にしたCFスロットにCFメモリ(わたしはお安く、A-DATAの2Gを利用)に、スキャンした書類や何やらをjpeg化して放りこんでおけば、かなりの分量が持ち運べるので、PC代わりにも使用できる。
ダウンロードはこちら
http://www.g-ishihara.com/sw_js.htm

ClieにCFUtility 108をインストール

今更ながら、clie NX70の強化をする。
まず、CFスロットが折角あるので、これを使えるようならないか、あちこちサーチ。
怪しげではあるが「CFUtility 108 」のドライバをインストールすれば出来るらしい。
ただし、リンクが切れていたり、有料版のところが多いので、無料版を手に入れようと思ったら、yahooのUK版で、NX60 CFUtilityを検索してサイトを探すと運が良ければ、http://members.lycos.co.uk/boba73/cfutilityが見つかる。
見つかったら、CFUtiklity108をダウンロードして解凍。
すると、exeファイルが出てくるので、ウィルス感染の不安を抱えながら実行。
インストールプログラムが展開するので、この中で、モデム関連のもの以外を全部インストールするように選択。
あとは、通常のプログラムのインストールと同じように、クリエにインストールすればOK
成功すると、CFもMSとして認識して、まるでMSが二つあるように動作する。
私の場合、A-dataの2GのCFを差し込んで無事認識。
ClieViewerはそのままで認識して、CFの画像も見ることができた。
Audioplayerとかは素のままでは、CFのデータを読み込むのは無理みたい。
なんとかならないかなーと思って上記のサイトにあるCFメモリが使えるようになるらしいAudioPlayerとかMoviePlay(Dual MSに対応する云々と書いてある)とかを使おうとおもったのだが、私の環境ではインストールするとシステムに不具合が出て、断念。
ClieCAmeraだけは入れて、CFの認識をするようにしたのが、どうやらズーム機能が無効化されるらしいが、clieのカメラはほとんど使わないので、これでよいことにする。
まあ、これでCFメモリが使えるようになったので、Clieの活用範囲も広がったというわけである。

2007年11月26日月曜日

Clie NX70を使い倒す

まだClie NX70かよ、と言われそうだが、携帯性とかPCとの親和性とか関係で、いまだに手放せない。
最近は、CFメモリが読めるCFUtilityをダウンロードして、CFメモリのテキストデータを読み込めるCrsMemoとか、JPEGが読めるJpegShow!!とか、PDFが読めるPalmPDFとかをインストールしたので、PDAではなくて、ちょっとしたPC状態のように使っている。
カメラ機能は30万画素なので、ちょっとしたメモ用の撮影にしか使えないが、その他は無理なく使用できている。このごろは、W-ZeroやX01HTがスマートフォンの主流なのだろうが、私の財布の状況のほうが厳しくて、なかなか乗り換えられないのと、Palm機に慣れ親しんでいて、WindowsMobileに食指が伸びないということもあるのだが、電話はほとんど使わず、インターネットは固定のPCからがほとんどという状態なので(いざとなれば、無線LANはNX70でも使えるし、別途携帯しているzaurusであれば、有線・無線LAN、AirA’ともアクセスできるので、ひどい不便をかこつこともない。
というわけで、皆さんもどうですか。オークションなら1万数千円程度で手に字はいるケースが多いので、結構お手頃かと思います。

2007年11月25日日曜日

windowsXP機の復活

XP機のマザーボードがいかれてしまって、連休はこのマシンのマザーボード入れ替えとOSやアプリの再インストールにかかりきりになってしまった。
もともとは、11/18に使っていたら、不意に画面がブラックアウトして、CPUファンは回るのだが、あとは全く反応しない状態になってしまった。それからCPUを入れ替えたり、グラボを換えたり、いろいろしたのだが、全くダメ。で、原因はマザーボードだから入れ替えようとネットショップを探すのだが、Socket478で、おまけにDDRメモリが使えるものといったら、なかなかないんですよねー、これが。
ようやくFriendsというショップでBIOSTARのボードを見つけて、届いたのが、11/23の昼。
さあ、休みを使って組み立ててくださいよ、といわんばかりのシチュエーションに見事にハマッテしまいました。
おかげ、この連休は、ほとんど外出せず、組み立てに専念。充実してるんだか、してないんだかわからないお休みでありました。

2007年11月14日水曜日

Debianのシャットダウン

DEbianのターミナルでシャットダウンするには、ルートで
# shutdown -h now
とすれば、自動的に電源OFFになる

2007年11月10日土曜日

CLIE再び

最近、CLIEをまた復活させていて、PDFのビューワとかJPEGのビューワをインストールして使っている。
zaurusやW-ZEROもいいのだが、やはりレスポンスと、PIM系のソフトの使い勝手はPalmに一日の長があるように感じる。もっとも、最近は、Officeの更新をやめてしまい、PIM系は英語版PalmDeskTopの日本語化バージョン(Vistaなもんで、これでないとClieは使えないのよね)、wordやexelはopenofficeといった作業環境なので、MicroSoftからすれば、あまり歓迎されているお客ではないので、かなり、これはWindows-Mobileになじめない人の偏見かもしれない。
で、すっかり通常のお供はClie(しかもNX70というロートル機)なのだが、あれこれチューニングしたおかげで、いつもはPSPで読んでいた、scansnapでスキャニングした文庫本なんかも、CrslmgViewといったソフトを使えばCLIEで読めるし、読み込みの遅いのを我慢すればPalmpdfでPDFファイルも読めることを発見したところである。
で、あらためてClieというPDAの良さを感じたところなのだが、SonyさんもPS3や新型PSPで失敗つづきなんだから、昔の名機の復活を考えても良いんじゃないですかねー。(あるいは、CLIEのソースコードをどーんとオープンして、人柱たちに自走させちゃうとか。もっとも、古いマシンのサポートは薄くて、しかも改造にとんでもなく拒否反応のあるメーカーだから、今のままじゃ期待できないだろうけど)
あるいは、スマートフォンで出遅れているdocomoあたりがPalmと手を組んでTreoやpalmPhoneとか使えるようにするとかないのかなー、といった儚い望みを抱いているのである。

2007年9月30日日曜日

synergyの起動

ディスプレイとキーボードを共有するsynergyをLinuxでクライアントとして有効にするには、ターミナル画面で
$ synergyc -f (IPアドレスまたはホスト名)
と入力すればOK

2007年8月25日土曜日

今年のキス釣り

1年に1~2回程度しか行かないので、夏休みの日記ネタと思われてもしかたないのだが、こともキス釣りにやって参りました。
場所は例年どおり飛行場裏。釣れるスポットかどうかは知らないが、足場が安定していて、車を近くに駐車できるのが一番である。
これは息子の勇姿。昨年より様にはなってきている(と、思う)

空も青い。


で、今年の釣果は、これ。キス4匹と、蟹2匹。ちなみに、キスは息子、蟹は私の釣果である。トホホ・・・。

2007年8月4日土曜日

多島斗志之「白楼夢ー海峡植民地にて」(創元社推理文庫)

こんな手練れがいたとはしりませんでした、と言うのが第一印象である。
物語の舞台は、大正9年、第一次大戦後のシンガポール。華僑の有力一族の呂家の娘、白蘭が殺害されている現場に主人公 林田がでくわすところから始まるのだが、のっけからぐんぐん読まされて、最後まで引きずられていくこと間違いなしである。


展開としては、犯人に間違われた主人公の逃亡行とそれと並行して、彼がシンガポールに来て、日本人の顔役になっていくいきさつや廃娼(売春宿の廃止と娼婦のシンガポールからの追放運動)、呂一族の若き統率者である呂鳳生との再会と、弟の虎生とのトラブル、そして現地のイギリス人社会の人間模様、華人社会の勢力争いなどがオムニパス的に語られて、主人公がシンガポールから逃亡する最終章へと流れていくのが大きな流れ。


最後のほうで、白蘭の本当の父親や、華人社会の秩序を維持するための、なんとも冷静(冷酷というべきか)な決断が明らかにされて、それがまあ、白蘭殺しの真相なのだが、こうした個人的な怨嗟に基づかない組織的な理由(きわめて民族的でもあるし、太平洋戦争の隠された遠因という意味で、きわめて政治的でもある)に基づく殺人っていうのも、時代的にはありえたのだろうな、国家の利益を巡ったやりとりというものに慣れていない戦後生まれの私としては、無理矢理納得せざるをえないところはあるのだが、読み物としては、良くできているのは間違いない。

こうした犯人捜しとは別にこの本で楽しめるのは、既に日本では失われてしまった「植民地」というものがもつなんとはない倦怠感と、南アジアという立地のもつねっとりとした暑さだろう。とりわけ、一環して流れる植民地のもつ出口のなさそうな閉塞感と疲れのようなものは、もはやリアルの世界ではなかなか経験できないものだ。

そして、それと関連してイギリスの(あるいは欧米列強の)植民地支配の一コマとして語られる


そこで働く技師たちは、総督府の事務官からは一段低く見られている。ーなぜなら、技師は<プロフェッショナル>の<専門職>だからである。
 プロフェッショナルの専門職はアマチュアの総合職から見下される。それが英国の社会だ。
 プロフェッショナルは報酬が目当てで仕事をする。金のためにあくせく働く。ーパブリックスクールを出た<良家の子弟>には、それは軽蔑に値する行為なのだ。
 アマチュアは、報酬などの依存することなく名誉ある公務にたずさわる。生活を支える収入は。かれらの所有する土地がたっぷり生み出してくれる。
 専門職。これも、指導的立場の人間がつくべき仕事ではない。ー専門職は、深い穴を掘り進むために周囲が見えない。総合職は浅い穴からつねに顔を出しているために大局が見える。





かれらが訊く<出身校>とは、当然パブリック・スクールのことであり、大学のことなどどうでもいいのだ


といったあたりは、当時の(あるいは現在の)イギリス支配的な理念として、善悪の判断とは別に、そうしたものがあったのだ、と認識しておかなければならない話ではあり、また、日本にも根強くあるゼネラリスト志向の話としても聞いておくべきであるし、

呂鳳生の弟の虎生と日本人の娼婦との恋愛とその後のその女が自殺した場面の、


「女は日本人だ。しかも女郎だぞ。そんな女を一族に入れたら、幇(パン)の中での呂家の威信は失墜する。今呂家の力が弱まれば。潮州幇そのものの力が揺らぐ。」


といったあたりは、民族の争いと民族内の争いといった、当時の植民地における裏面を読み取るべきだろう。


ちょっとネタバレにはなるが、最後の章で明らかになってくる、シンガポールをはじめとする南方をめぐる欧米列強(とりわけイギリス)と日本のせめぎ合い、謀略比べは、第2次世界大戦につながる話として虚実明らかではないが、あっと驚かされるのも、また楽しい。


殺人事件の単純な謎解きものと思って読むとあれれと肩透かしをくらわされるが、第1次世界大戦と第2次世界大戦の間のシンガポールを舞台にした時代推理ものとして読むと楽しめること請け合いの一冊である。。

2007年7月16日月曜日

徳本 栄一郎「英国機密ファイルの昭和天皇」(新潮社)

組み上げてきたものが時代の流れの中でがらがらと崩れていく「戦前編」と崩れてしまったものを一からピースを集め、組み上げていく「戦後編」とでもいうのだろうか、日英関係の「喪失」と「誕生」と戦前・戦後に英国に関わりながら生きてきた人々の「希望と挫折の記録」を印象づける一冊である。
 
アウトライン的には、「戦前編」は、日中戦争、太平洋戦争へと向かっていく日本の動きをなんとか回避しようとする日本の皇室とそれを支える和平派と英国の親日派の動きを、1924年の秩父宮の英国留学の裏で動く日英の思惑から1941年のチャーチルによる対日宣戦布告までを、そして「戦後編」は1945年のマッカーサー元帥の日本到着から1954年の吉田茂の講和後の英国訪問までを、皇室の廃絶危機、天皇の退位計画、果ては、ローマ教皇まで乗り出した、天皇のカトリック改宗の企てを軸にしながら、英国の公文書館に残されている機密ファイルから洩れ出すデータを、英国の関係者へのインタビューなどを交えながら叙述していくルポである。
 
しかし、単純な日英の皇室をめぐる戦前・戦後史ではなく、平和と日本の自立を目指す皇室、とりわけ昭和天皇の思いと、それを国家的な戦略として利用はするのだが、一方で立憲君主制国家の仲間として、あるいは、日本の行く末を心配する明治以来の友好国としての英国の、冷徹な国家戦略だけでは割り切れない関係性を表現した上質な歴史書といってよい仕上りになっている。
 
しかし、まあ、読み終わって、なんと多くの人達が日英という両国家を軸にしながら、さまざまな思いを、あるいは野望を遂げようとして係わり、夢破れていったことか、という思いにかられる。
 

それは、「戦前編」では、オックスフォード留学を契機に逝去まで親英派であった秩父宮や、戦争回避のため昭和天皇と側近の意を呈して日本政府や軍部の動きに逆らいながら和平工作をすめながらチャーチルのために挫折し、「札付のへま男」と称され外交官時代の吉田茂であり、戦争開始は米国の思惑とそれを阻止しなかった英国政府だと糾弾し、閑職に追われた、クレーギー駐英大使の姿であるし、「戦後編」では、日本の占領政策を通じ象徴天皇制の実現と、GHQ製の憲法と統治体制を作り上げたマッカーサーであり、「親ナチスの教皇」といわれ日本へのカトリックの普及を夢見た教皇ピウス12世であり、戦後の日本の通商政策と外交の黒幕といわれた白洲次郎でもある。
こうした、彼らの個人的な思いに、英国の、冷徹でありながら、立憲君主国の先達としてのなんとはない暖かみを示す外交戦略を織りまぜながら展開されていったのが、1924年から1954年までの日本の歴史の一面でもあるのだろう。
 
個人的な感覚でいえば、この本のような「裏面史」というのは、すでに結論の見えている「歴史の事実」というものを前提にしながら、表からは見えないもの、外にでない思いを書き出す作業という印象をもっていて、どうかすると単なる暴露本に堕してしまう危険性を孕んでいるように思うのだが、幸いなことに、この書は、「英国機密ファイル」という一種怪しげなタイトルでありながら、爽やかな読後感を残してくれる。
 
それは、エピローグで、現在の駐日大使であるフライ大使の「現在、外交の世界では「価値観」が大事にされています。前世紀の初めは、バランス・オブ・パワーが強調されましたが、今は価値観の共有です。それを共有しているからこそ日英関係の基盤は強いのだと思いますよ」という言葉を体現していたともいえる、秩父宮、白洲次郎、そして昭和天皇の、英国への親愛感と信頼が表出しているからかもしれない。

2007年7月15日日曜日

下川裕治「新・バンコク体験」(双葉文庫)

旅行記や滞在記というのは、ちょっと旅行のガイド本とは違う、少し昔を書いた歴史書といった愉しみかたをすべきものではないかと思っている。というのも、旅行ガイド誌などに掲載されてから時間を経過してから、単行本や文庫本にまとめられた形になったとき、その国ではすでに昔のできごとになってしまっているし、こちら側としても日本の状況も変わってしまっているからだ。
 
そういった意味で、1998年頃に初出された本書は、20世紀の最後のタイ、バンコクの一シーンを切り取ったものとして楽しむべきだろう。
この1998年当時、タイは通貨危機の最中にあったから、書中にもでてくるバイクタクシーの衰亡の話や、バンコクから渋滞が消えた話、そしてバンコクっ子がワインをありがたがるのをやめて、再びタイ・ウィスキーに回帰しはじめた話などは、再度、経済成長を開始し、アジアの工業国としての立場を確立している現代のタイでは、すでに過去の話となっているかもしれない。ただ、その「当時」をタイではなく日本ではあるが、共有していた人間として、その時代を再度ふりかえって妙になつかしくなるのは間違いない。
 

章立ては
 
「道端のバンコク」
「バスの迷宮」
「タイ料理の進化論」
「南国の時間」
 
の4章
 
今の「タイ」であるかどうかはわからないが、我々のイメージの中にある南国の「タイ」にぴったりした旅のエピソードを提供してくれるのは間違ない。
 
それは
 
タイのタクシーはメーター制が主流になっているが、ひとたびスコールとなると、昔の交渉制の料金体系に変わっていく
 
とか
 
タイの野菜は、厳しい陽射しと肥料ももらえない状態でないと、あの辛味はでない
 
といったエピソード群であり、タイに浸って長い筆者によって紡がれる安心して読める「タイ」である。

2007年7月14日土曜日

井沢元彦「逆説の日本史 11 戦国乱世編」(小学館)

この巻は、豊臣秀吉が天下をとってから、朝鮮への外征の失敗までがテーマ。
のっけから、秀吉の指は6本あったといった、ちょっと眉唾したくなるようなところから始まる。この話は前田家文書からといった引用はあり、その真贋を確かめようもないので、その説の是非は問わないとしても、秀吉(藤吉郎時代)の姓であったとされる「木下」の疑わしさや羽柴という姓の由来への疑問など、「逆説」の名にふさわしく、この巻も定説へのチャレンジで始まっている。
 
本当は清洲会議の結果、信長の孫の三法師を手中に収めることになった柴田勝家や織田信孝の方が天下取り(というより信孝の立場からすれば天下の維持かな)には有利だった
 
とか
 
賤ヶ岳の戦で柴田勝家が負けたのは、実は前田利家が原因
 
とか
 
織田家が崩壊して、秀吉の天下取りに成功した最後の決め手になったのは、池田恒興(勝入)を秀吉が味方に引き入れた(筆者は金で転ばせたといっている)のがキー
 
とか、あいかわらず、ふむふむと読んでしまうとこは多いのだが、
 
この巻でうーむとうならさせるのは、
 
戦国時代末期〜安土・桃山〜江戸初期というのは織田信長〜豊臣秀吉〜徳川家康とセットでとらえるべきで、その最終的な仕上げが「宗教勢力(寺)の非武装化」だったといった話のひろがる「第4章 豊臣の平和編」
 
 
文禄の役の本当の目的は中国(明)の征服にあって、その遠因は、カトリック勢力の東アジア侵攻に対抗してのもので、当初、共同して進めようとしていた(外征用の船の提供を受けようとしていた)キリシタン側から拒絶にあったから伴天連追放令がだされたといった話のでてくる「第5章 太閤の外征編」
 
だろう。
 
 

まあ、真説・異説あるいは賛否両論あると思うが、筆者の掌上に転がって楽しむのも一興の一冊ではなかろうか。

2007年6月26日火曜日

インターネットとナショナリティ

梅田望夫さんのブログの「海外に住んでも母国語中心に生きること」の中の
「ウェブ進化とグローバリゼーションの結果、海外に住んでいても「情報についてはネット」「食材などのリアルな物についてはグローバル物流」のこの十年の異常なまでの発展によって、「海外に住む」ことの敷居がおそろしく低くなっていることを感じた。海外にいても、望めば一日のうちのかなりの時間を母国語で過ごしながら生きていくことが容易になったのだ。これは日本に住むアメリカ人、インドに住むフランス人・・・皆、同じではないかと思う。」
という一節を読んで、ちょっと考え込む。
私自身は、長期の海外滞在経験は残念ながらなく、せいぜい1週間から10日間程度の海外出張しかないので、なんとも心許ないのだが、初めて海外出張をした10数年前に比べ、母国語に囲まれて過ごす状況が増えてきているような実感はある。
海外出張の折に、1台の携帯電話を数人で回し利用していた時代から、パソコンさえ持っていけば、多くの国で数千円の支払いで、日本語環境と日本在住の人と日本語同士の会話が手に入る時代に、Webはあっという間につれてきてくれていて、この現象は、このブログのコメント欄でいくつか述べられているように、ビジネスあるいは海外に生活することとして、日本語環境に取り囲まれて暮らすことの当否ではなく、「現象」としてまず捉えるべきだろうと思う。
で、こうした現象が日常茶飯になるということは、グローバル化の意味すら変えてしまうということで、外国語を学ぶ、習得するということを主眼としていたものが、どう変わっていくのか興味深くもある。
さらに一頃はやった、構造主義的あるいは言語論的にいえば、日本語環境のままでほとんど生活するということは、日本語という枠(文脈)の中での思考形態あるいは思考の癖というものから抜け出せないということで、どこに住もうと「日本語」あるいは「日本スタイル」というナショナリティのもとで生活するという、グローバル化の対極の話でもあり、グローバル化あるいは国際化というものを、言葉の違う他者理解、又は他者の暮らす文化・思考形態への理解・許容ということで捉えれば、グローバル化というものは、他者の言葉あるいは言語への理解力のレベルで左右されるといってもよく、日本語に常時取り囲まれている状態が、外国にいても継続されるということが、グローバル化(あるいは、そうありたいという意欲)にも限界が出てくるんだろうなー、と思う。
まあ、ひらたく言えば、同じテレビを見ている同士では、流行も、考えることも、思い出も一緒なことが多いといったことかもしれなくて、それはそれなりに、外来語を使って暮らすストレスが面倒な人にとっては、なかなかに楽チンなことではあるのだが、本来オープン系であるインターネットが、ナショナリティを強化する方向に進むってのも、なんか皮肉な話でもある。
でも、こういった話って、フランス人は、たとえ英語ができてもフランス語しか喋らない、とか、アメリカのテキサス州の人は世界中で英語が通じると思っているっていうような話と、根底としては同じなのかな・・・

2007年6月25日月曜日

沖縄ナンデモ調査隊「沖縄のナ・ン・ダ」(双葉文庫)

沖縄に生まれ育ったライターや沖縄に移り住んだライターで結成している「沖縄ナンデモ調査隊」による、とりあえず、沖縄のナンデモ本。
 
収録されている内容は
 
・沖縄でなぜ低収入で暮らせるか
・なぜ沖縄の定食は大盛りなのか
 
といった話題から
 
・沖縄人はなぜ歩かないのか(近所でもなぜ車を使うのか)
 
 
・沖縄の飲み屋にはなぜ子供がいるのか
 
はたまた
 
・妖怪キジムナーは存在するか
・沖縄の墓はなぜあんなに大きいか
・マブイ(魂)を落とす?
 
などなど。
 
「オキナワ」のあれやこれやに触れてみたい人に、とりあえずおススメしよう。
ダラダラと「沖縄」を読むのも、また楽しい。

ただし、新刊本では手に入らない可能性が高いので、古本をチェックしてね。

2007年6月24日日曜日

魚フライとメイタガレイの煮付け

魚フライは、ハマチ、タイ、サバ、アジの混合。
端物の取り合わせをを手に入れて、次から次へとフライにしたので、フライの中身は口にするまでわからない。
痛風とメタボが心配な私は、ウスターソースをダボダボかけて食す。
娘と息子は、タルタルソースで。
メイタカレイは、大阪では高級魚、関東では並の魚らしい。
瀬戸内海では冬が旬の魚らしいが、山陰の方でも漁獲があがっていて、最近はこちらでもよく見かける。刺身にしてもよいらしいのだが、今日は煮付けにする。比較的淡白で癖はないので、子供向きでもある。

野村 進「千年、働いてきました」(角川oneテーマ21)

日本の老舗企業のルポ。
 
あらためて、日本が手仕事の国、職人の国、製造業の国であることを知る一冊である。
筆者が書中で「商人のアジア」と「職人のアジア」という言葉を使っていて、中国や韓国、東南アジア諸国が「商人のアジア」に属する一方で、日本はアジアで唯一といってもよい「職人のアジア」だといっているあたり、なんとなく感覚で共感するところが多い。
 
かの地を旅して思う、なんとはなしのキツさというか厳しさは、こうしたあたりにも起因しているのかもしれないなーと思ってしまう。
 
本書で、取り上げられている老舗はアトピー性皮膚炎の治療薬を開発した「造り酒屋」であったり、コピーのトナーを製造する「木ロウ製造業」であったり、トレハロースを開発した水飴屋さんであったり、もともとの生業も、新たに進出した分野もさまざまなのだが、共通するのは、老舗ならではの業界通の知識を生かした上での、新展開ということだろう。
 
で、こうした老舗企業が元気よく活動している、それも複数といったところが、日本の中小企業の元気さ(業績の元気さというよりは、気概としての元気さ)を表しているように思う。
一方で、こうした老舗の製造業の活躍に思わず共感してしまう自身の感情を考えると、日本人の遺伝子の中に組み込まれた「製造業」の大きさというものも感じてしまい、日本の産業構造が「製造業」を中心に語られるのも無理ないかもしれないと思う。
 

自分の意識の中の「職人」志向に思わず気づかされてしまった一冊でありました。

2007年6月23日土曜日

ポークソテーとゆでじゃが

ポークソテーは、肉にしっかり味をつけたのでソースはなしでも良。
ステーキソースをかけてもいいのだが、そうするとちょっと味が濃すぎるかな


で、本日のメインっぽくなってしまったのが、このゆでじゃが。
新じゃがを塩茹でして、皮を向いて、マヨネーズをつけていただく。
さすが、新じゃがは美味いねー。ほくほくしてますよ。
これは、同じ職場のMさんからの頂き物。このほかにも、タマネギをたくさんもらいました。
Mさんありがとうございました。大変美味でした。

2007年6月20日水曜日

塩シャケとサバの酢〆

シャケは残念ながら塩がきいていない。塩ジャケは、やっぱり塩を白くみえるぐらいじゃなきゃ、と思うのは、年とった証拠か?
健康ブームとかで、甘塩の鮭がほとんどなのだが、ちょっとこの風潮は不満である。
サバは、脂がしっかりのっていて、胡瓜にも酢にも負けていない。
噛みしめると、じゅわっと脂を感じる。
やっぱり青魚はこうじゃなきゃね。

2007年6月17日日曜日

あなごと野菜炒め、ナスの煮物

あなごは、焼いたものを醤油で煮る。脂はうなぎほどないが、上品な味である。
野菜炒めは、メニューに困ったときの定番。鶏ガラダシのときが多いのだが、今日は焼肉のタエをちょっと足して、深めの味にする。
ナスはずどん切にして煮物にする、ちょっと味が濃い目だったので、大根おろしをのせて味を和らげよう。


庭のビワ

我が家の庭に植わっているビワが例年になく、実をつけている。
年によって実のなり方にひどくムラがあって、昨年はほとんどならなかったのが、どういう訳か今年はたくさん実をつけている。
うちだけでなく、近所のビワの木もそうだから、なにか天候の関係もあるのかもしれない。
もっとも、施肥をしっかりやって栽培しているわけではないので、全体に小粒でほとんどがビワ酒用にあるぐらいのものだ。
それでも、中から大きめのものを選び出して皮をむいて、氷の上に乗せる。
我が家で勝手に命名している「冷やしビワ」の出来上がりである。
ひどく渋かったり、酸っぱかったりする爆弾もいくつか仕掛けられているのだが、まあまあ食せるほどの甘さなのであった。

2007年6月16日土曜日

焼肉レタス包みと鯵の干物とカツオのタタキ

庭に植えているサニーレタスが大きくなったので、焼肉のレタス包みにする。
なんのことはない、市販タレをつけてやいた焼肉をレタスに巻いて食べるもの。



コチジャンとかニンニク味噌、生ニンニクを一緒にまいて食べると一味違うのだが、ニンニク系は、カツオのタタキに使うので自重する。

鯵の干物は1尾を半分に切った頭の方。
ちょっと塩が甘いので(うちはいつものことだ・・・)醤油を少し垂らして、味をひきしめる。あとマーボ豆腐少々。これは、熱い白飯の上にかけて食そう。



そして、本日のメインは、「カツオのタタキ」
カツオときゅうりの薄切りの間に生ニンニクをはさむ。
ニンニクの辛さが、カツオの生臭さを中和して、すこぶる美味である。
ただし、部屋中ニンニク臭くなるから、その点は家人の了解をする必要あり。





2007年6月15日金曜日

鰻の蒲焼と野菜スープとマグロのカマ

今日はちょっと脂強め。
鰻の蒲焼は、飯の上に載せてもよいのだが、そのまま食す。
中国、台湾の鰻の稚魚の数が減って、日本の食卓から鰻が消えるかも、といった話を聞いたことがあったが、その後どうなったのだろう。
野菜スープのたまねぎは小さなものを丸ごと入れる。このたまねぎは自家製である。
庭の端っこに植えていたものだ。



マグロのカマは塩をふってオーブンで焼く。
今日は刺身は「なし]
あらのところだけ手に入れる。
意外に身はあるようで、ないもので、骨の間などをほじくって肉を取り出す。
アラのところだけあって、ちょっと生臭いので、におい消しも兼ねて醤油を少し垂らしたほうがよいかな。


2007年6月12日火曜日

マグロの刺身

ひさびさに地物のマグロが手に入った。
もっともトロといった部分は、高級なお店にいっているので、まわりのところとか中落ちのところとか、いろんな種類が入っているのが、この刺身の盛り合わせのよさ。
色もいろいろなら味もいろいろである。
全種類を少しづつ集めて、醤油につけ、海苔を敷いた丼飯の上に載せて食す。
自家製マグロヅケ丼が、なんといってもベストであるな。


2007年6月9日土曜日

一口カツとうずら玉子と大根の煮物

ひさびさの一口トンカツ。ここは、いつものようにウスターソースをたっぷりかけて。
煮物は大根に味が染みているかどうかがポイント。
ところで、鳥の卵で、市販されているのは鶏とウズラが大半なのだが、ウズラの採卵場ってどこにあるんだ?ってなことをググッてみる。
Wikipediaによると、国内では愛知県豊橋市が大産地で、生産量の7割を生産しているとある。
西日本の方ではあまり養鶉業なんてことを聞かないのは、そのせいかもしれない。
飼育用に改良されたのも日本で、江戸時代には鳴き声を楽しむために飼育されていたとの記録もあるそう。
意外に身近な鳥だったのですね。


2007年6月6日水曜日

仲村清司「ドタバタ移住夫婦の沖縄なんくる日和」(幻冬社文庫)

沖縄に魅かれて沖縄移住までしてしまった仲村清司氏とその奥さんの沖縄移住記。
下川裕治氏との共著でも出ていたが、自称「強度の恐妻家」で、この本でも、通称「ガメラ妻」のパワーの凄さは、いたるところででてくる。
なにせ、ベンチャー会社を立ち上げたばかりの旦那さんに、その会社を畳まさせて、沖縄移住をさせてしまった御仁なのである。ただ、旦那さんも売れなかった時代は、かなり面倒をみてもらった感じもあって、どっちもどっち的な感じが漂うのであるが。
 
それはさておき、沖縄移住記なのだが、移住記というよりどちらかといえば生活記という感じ。それは、移住してきて10年という年月がさせているのもあるだろうし、沖縄で、ツアーコンダクターとかインストラクターやホテル経営といった職業ではなく、物書きとそれに付随する会社経営という、どちらといえば定着系の仕事であるせいもあるのだろう。「沖縄」の移住記というと、ピカピカした沖縄ばかりが語られることが多いだが、うらぶれた沖縄を含めた、「オキナワ」の暮らしが垣間見えるところが、この本の良いところだろう。
 
個人的な好みをいえば、沖縄のチャンプルの誕生話とか、通常の店の3〜6倍の量があって、もちかえりが通例であった超大盛り食堂「かっちゃん食堂」の伝説とか、やはり大盛り系の食べ物の話題が一番。
 
やはり旅本の圧巻は、「喰い物」だな。
 
 
<2014.9.14追記>
最近の著述をみると、奥さんとは離婚されたようですね。とても元気で仲の良さそうな印象を受けていましたが。

中古でしか、この本も手に入らないようですし、この件、そっとしておいたほうが良いのかもしれない・・

MT4.0が7月にリリース

Movable Typeの新バージョン4.0が7月にリリースされるみたいですね。
3.0のときは、それなりにトピックになったけど、最近いろんなブログサービスが提供されているせいかあまり話題にならないですねー。
MTの新バージョンはリリース当初はかなり不具合がでることが多いので(3.0への切り替えのときは結構苦労しましたぜ)、リリースされても、ちょっと様子をみて、1回目の修正バージョンがでたあたりに切り替えようかなーと思うところであります。

2007年6月3日日曜日

サーロインステーキと冷奴

運動会も終わったので、気張ってサーロインステーキである。
けして、我が息子がリレーに優勝したとか、そういうわけでなく、まあ、なんというか祭御馳走の類である。


肉の脂と冷奴の食い合わせはどうかしらないが、暑いときは肉ばっかりだとちょっとつらいよね。


運動会

毎年恒例の小学校の運動会である。
うちのあたりは、各町内会と合同でやる、この時期の運動会だけで秋はない。
小学生のリレーとかだけでなく、町内会対抗のリレーや二人三脚とか、結構出場させられる(まあ、リレーにはでないけどね)ことも多い。
こういった行事は出るまでは面倒でかなわないのだが、いざ出ると妙に白熱してしまうのはなぜだろうか。
観客の方も、妙に熱くなってしまうのが、不思議ではある。
もっとも、私の子供のころは、運動会の勝敗をめぐって大人が本気で取っ組み合いの喧嘩していたから、それに比べると大人なしくなったほうかな。


2007年5月29日火曜日

あごの卵の煮つけとブリの煮つけ

本日はかなり和風。
てんぷら風に見えるのもしいたけなので、獣肉系は今日はなし。
「あご」っていうのは、トビウオのことで、ここらあたりの方言。
そのトビウオの卵のところを取り出して、煮つけたものがこの時期の名物。
食べないと飢餓感におそわれるほどではないが、なにかしら寂しいのが、地域の名物(料理)というやつだろう。
そういったのが、あちこちの料理本やTVの料理番組に取り上げられ始めると、仲のよかった幼なじみが、都会にでて垢抜けてしまうようで、ちょっと寂しくなるのは、我ながら狭量とも思うのだが、なんともしようがない。
まあ、出世前の一時(いっとき)の地元料理を味わうとしましょう。


2007年5月27日日曜日

私の中の「セイゾウ」偏重

NBOnlineの5月17日の宋文州さんの傍目八目のコラム「長男「セイゾウ」がそのお下がりを弟たちに着せる 」にしばらく考えさせられた。
「この「セイゾウ」的な雇用慣習が人々の雇用心理まで支配し、社会の人的資産の流動性を阻害し、新しい企業の誕生と発展の妨げになる」
といったあたりや、
「企業家精神の後退は企業家の問題ではなく、雇用形態に代表されているような長期にわたって「セイゾウ」という名の長男を優先した結果」
といったところ。
「このセイゾウ的発想が創造的なソフトウエア開発を阻害し、日本のソフトウエア産業を世界のそれから遅らせた遠因」
といった辺は、かなり激越な表現かとも思うのだが、自分の中の「セイゾウ」偏重は確かにあり、それは、安定とか磐石とかいった概念とも結びついていて、これは私だけの感覚というわけではないだろうと思う。
そう思う基は、地方政府の雇用対策や企業立地対策も、やはり「製造」を中心に進められているようなあたりであるし、最近の日豪のFTAをめぐる貿易論争における工業と農業の対立の議論で主張される「工業の足を引っ張る農業」論でもある。
私たちのような40歳代というか、高度成長時代に基礎教育を受けた世代というのは、「工業」や「製造業」が国の発展の根幹といった教育を受けてきたようなもので、われわれが、それなりに社会の中で発言権をもってきた時代の流れは、すなわち、人工物への信頼感と都市へ移動、定着をしていく流れとも符合していっている気がするし、それは一方で、第1次産業から離れていく軌跡でもあるし、田舎や地方が疲弊していく歴史でもあるような気がしている。
こうした思考のパターンは、私たちのような世代だけかと思っていたのだが、宋さんのコラムを読むと、どうもそうではなく、若い世代にもあるものらしく、宋さんが若人に「製造業の大切さ」を説かれた話も引用されている。
こうしてみると、「セイゾウ」偏重というのは、ひょっとしたら、現代日本人共通の性癖なのかもしれず、それが気になったせいなのか、野村進氏の「千年、働いてきましたー老舗企業大国ニッポン」を衝動買いしてしまった(衝動買いというほど高価な本ではないのだがね)。
この本を読みながら、「製造」というものへの考え方とか、あるいは定着と流動ということについて、あれこれ迷想にふけろうかな、と思っているところである。

2007年5月26日土曜日

下川裕治「5万4千円でアジア大横断」(新潮文庫)

ひさびさの骨太バックパッカー旅行記というべきだろう。
以前は「タイ」、最近は「沖縄」と、放浪系というよりは定着系の旅行記が多かった下川裕治氏が、東京からトルコまでの27日間の、なんと15車中泊のバス旅行である。
 
この旅行をしたとき、筆者は51歳らしいのだが、そこは長年の旅で鍛えられているだけあって"元気"である。アームチェア・トラベラーの私など、爪の垢を煎じて飲まないといけない。
 
しかし、まあ、この観光もない、食事といったら、およそ風情といったものの感じられないバスターミナルの冷えたコロッケ、サモサとかうどんといった、ただ、ひたすら、憑かれたようにバスを乗り継いでいく旅に爽快感を感じてしまうのはなぜだろう。
そこは、旅が豪華で贅沢であればあるほど、しっくりこなくなる貧乏性もあるのかもしれないが、やはり、「旅行記」というものの根幹が、各地の観光スポットのレポートや、名物料理のレシピではなくて、「移動する」ということ、あるいは距離的、時間的な移動の周囲に発生するさまざまなログないしはノイズであるということなのであろう。
あるいは、そこで指向されているのが、一定の方向を目指す目的性というものでなく、日々、移動し、存在することによって生ずるさまざまなものを、「記録」していく、ということであるからかもしれない。
 
ま、こんな小理屈は置いといて、"バスタブの湯の色が、中国では1週間で真っ黒になるが、インドではわずか1日の旅で真っ黒になる"とか"18年前は地獄の振動バスであったイランのバスが今では、非常に快適なバスの生まれ変わっている"とか、"インドには豪華長距離バスというものが存在しない、長距離の路線バスがあるだけだ"とか、この種の旅行記には必須である旅の一つ話の類もきっちりと載せられている。
 
ひさびさに貧乏旅行記が読みたいなー、というときにお薦め。

以前、読んだ貧乏旅行記のはしばしを思い出させてもくれる旅行記である。

5万4千円でアジア大横断 (新潮文庫)

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etch の読み方って?

インストールしたのはいいが、Debian etchのetchの読み方がわからない。
Debianのバージョンはトイ・ストーリーのキャラクターにちなんでつけられているらしいのだが、DVDをみてもどれやらわからないので、ぐぐってみる。
etch a sketch というアメリカのお絵書きおもちゃらしい。
"Happy Smile Toys"(http://www.okinawanstyle.com/happy/02_ts.htm)というHPに写真が載っていた。
ちなみに etch は 「エッチ」と読むらしい。

2007年5月20日日曜日

Debian etchにアドビリーダーをインストール

Debian etchのパッケージのPDFリーダーは、xpdfが入っていて、これはこれで使えるのだが、日本語のファイル名が化けてしまうのが難点。
そこで、定番のアドビリーダーを導入することにする。
パッケージリストにはないので、<a href="http://www.adobe.com/jp/products/acrobat/readstep2.html" target="_blank">アドビのHP</a>からLinux版をダウンロードする。
Vineとかならrpm版でいいのだが、Debianではrpmが使えないので、tar.gz版をDL。
2007.5.20現在ではAdobeReader_jpn-7.0.9-1.i386.tar.gzで、アドビリーダーのバージョンは7である。
これを任意のフォルダにDLして、そのデイレクトリに移動
# tar xvzf AdobeReader_jpn-7.0.9-1.i386.tar.gz
展開するとAdobeReaderというディレクトリができるので、今度はそこへ移動
# ./INSTALL
ごちゃごちゃとインストールが始まって、いろいろ聞いてくるが、日本語が文字化けしてしてなんとことやらわからないが、かまわずデフォルトで続行。
最後に1~3まで選べってな、ところになるが、ここは3を入力(何を聞かれているか文字化けして読めないので消去法。1と2は先行きせず、3のみ続行できたという次第)
なんとかインストールしたっぽいので、
# su -
でrootの通常のディレクトリに移動
# acroread
で実行して、ライセンス許諾の画面が立ち上がればOK。
一度、実行すると、あとはメニューにAdobeReaderの項目ができているので、御利用ください。

2007年5月19日土曜日

白身魚のフライ

今日は白身魚のフライ。
ただし、一種類の白身魚ではなく、キス、鯛、ヒラメなどなど、数種類の白身魚のはしっこの方を買って、あげた、白身魚のミックスフライなのである。
刺身にした残りのところなので、それぞれに形も大きさも違って、おまけに一つづつ味も違うという、ビックリ箱のようなもの。それなりに面白いけどね。


こちらは赤貝の煮付け。ビールのアテにはもってこいであります。

2007年5月18日金曜日

Debian Etchをインストール

4/8のリリースから様子を見ていたのだが、評判も良いようなので、茶の間ノートにDebian Ecthをインストールした。
もともと、茶の間PCにはVineLinux3.2をインストールしていたのだが、VineLinux4.1はおろか4.0も途中でハングしてインストールできない状態。(ThinkPad a21eという古物に属するものであるのだが)
音声再生が、どうにもできないのとあわせて、ちょっと不満が貯まっていたところなので、エイヤっとばかりにetchをクリーンインストール。
いれてみると、なんと、なんと
無線LANはデフォルトで認識してくれるし、トラックポイントも特別の設定なしでOK。
リムーバブルのNTFSのHDDもデフォルトで認識してくれるではありませんか。
音声の方は、本体内蔵のものはダメで、結局USBのSoundBLASTERを使うことになったのだが、これもデフォルトで認識してくれる。
FireFoxがIceweaselと名前が変わっていたり、Webminがaptでインストール出来なかったりと、そこここにちょっとした不満は残るのだが、デスクトップとしてかなり使えるバージョンであるように感ずるのでありました。

2007年5月12日土曜日

お祭り

今年も、近所の神社のお祭りである。
少し雨模様だったので、お参りをして、子供二人に金魚すくいをさせたら、たこ焼きを買って早々に退散。
うちの金魚は、もともと長女が金魚すくいでもらってきたのがもとで、数匹が10数年生きているのだが、さすがに少しづつ減ってきているので、補充の意味もこめて、今年は金魚すくい解禁である。


2007年5月9日水曜日

玄箱のdebian化とWebDAV

ファイルサーバにしていた玄箱を思い立ってdebian化
ついでに、WebDAVも導入して、Web上のファイルサーバも構築
今までのサーバーは家庭内での活用を考える予定
静かなサーバーってのはいいもんですね。
先人たちの努力に感謝であります。
kernel 2.6化とか、MTの導入はこれからなのであります。

2007年5月4日金曜日

秋吉台

でもって、次の日は定番のように秋吉台と秋芳洞
今は電気もついてるけど、最初に入った奴ってのは、凄いよね。ちょっと常人離れした神経してるよね。

ゴールデンウィークの人出でサファリパークとかは入れませんでした~
帰りは、豆子郎とかごくふつうのおみやげをチョイスいたしました。


2007年5月3日木曜日

海響館

今年の連休は家族で山口へ。
うちの家族は、どこか行くと水族館を探すのが通例になっているのだが、今回は下関の海響館。
ご当地のせいか、ふぐの多い水族館である。
これは、その中でも秀逸のはこふぐ。


新幹線の中で、携帯動画変換君で変換したトゥームレイダー2をPSPで見ていたら、後ろにいたアベックの注目を集めてしまったぞ、わはは・・・

2007年4月30日月曜日

玄箱debianでproftpdを使う

玄箱debianでFTPを使おうと思って、proftpdを起動するのだが使えない。
どうもdefaultでは使えないみたいなので、再インストールする。
まず、すでに入っているproftpdを削除
# aptitude purge proftpd
その後に、改めてインストール
# aptitude install proftpd
途中、設定を聞かれるところでは
 ・standalone
 ・maintanor version
でインストールする。
インストールできたら、sshでログインし、rootになりftpで接続
# ftp localhost
ユーザー名とパスワードを聞いてくるので、任意の名前を入力すればOK

DVD Shrink、DVD DecrypterとVista

DVDのバックアップなどを行う際の定番ソフトのDVD ShrinkとDVD DecypterをVistaにインストール。
DVD Shrinkは何も支障なくインストールできた。
DVD Decrypterはデフォルトで起動するとエラーがでるので、exeファイルのプロパティを開き、「管理者権限で実行する」のチェックボックスをonにすればいいみたい。

2007年4月17日火曜日

あら煮とのどぐろの刺身

いろんな魚のあらを時折もらうのだが、今日のは極めつけで、各種の魚の頭がいっぱいである。
頭が皿に上でごろごろしているのは、ちょっとグロテスクではあるが、各種各様の味がする。
一箸ごとに魚の味が変わるというのも、なんとも妙なおももちではある。


のどぐろは、たいがい煮付けで食べるので、刺身は初めて。
脂がすごくのっていて、トロを上品にしたような味かな。
(もっとも、大トロの極上など食べたことがないので、庶民ベースのトロに比較してなのですが)



蔵前仁一「旅で眠りたい」(新潮文庫)

おなじみの旅本作家 蔵前仁一さんの旅本。
今回は、アジアを通ってアフリカに行く予定の旅なのだが、収録されているのをみると
 
「長い旅へのあやふやな出発」
 
「台湾の退屈、香港の腰痛」
 
「タイの島でひと休み」
 
「インドは今日も暑かった」
 
「パキスタンの砂漠を越えて」
 
「不思議の国イラン」
 
「アジアの終着駅トルコ」
 
といったもので、おいおい、アフリカにいつ着くんだよ、といった塩梅である。
 
それもそのはず、日本を出るまでも、芦屋の知人のマンションで1週間過ごしたり、沖縄の波照間島の2食つき3500円の民宿(晩ごはんに冷奴の巨大鍋、刺身の特大盛り、サラダ大盛り、野菜の煮付け大量、ソーメンの土鍋、親子丼、さらには具だくさんのカレーうどん、知合いの漁師が届けてきたたくさんのとれとれの魚の焼き物が毎日でるような宿)で、飽食の毎日を過ごしたり、といった具合である。
 
さらに海外に出たら出たで、台湾では、高地の村まで足を伸ばしたり、タイのピピ島ではなんともやる気のないバンガローに1週間以上ダラダラと宿泊したり、沈没のメッカ インドでは、病気にかかったせいもあるがカルカッタに2週間、カトマンズに5週間といった感じで通算6ヶ月滞在といった具合。
今回は、いつもの旅に比べても、なおさらゆっくり、ダラダラと旅を続けている感じがする。
 
最近、旅本に顔を見せなくなったイランといったところや、人気が高くなっているトルコとかもきっちり収録されていて、まあ、アジアの旅総集編といったところか。でも、同じようなルートを辿った沢木耕太郎の「深夜特急」が、求道的で、どことなく悲壮な感じがしていたに対し、この人の旅は、のほほんとした感じで味があるんですよね。
 

結局は、アフリカへの旅は、この本には収録されなくてアフリカ間近のアジアでこの旅本は終わるのだが、時間のある昼下がりに、ダラダラと読んで楽しい旅本であります。

2007年4月15日日曜日

肉豆腐と鯖の味噌煮

豆腐の食べ方はいろいろあれど、肉豆腐っていうのは新顔に近いような気がするのだが、甘口の肉ダレは結構いけるものである。
TVでは、上戸 彩が宣伝してるよね。
鯖の味噌煮は、冬の定番に近く、そろそろ我が家では、エントリーも珍しくなるころ。
これからは塩鯖か焼き鯖の出場が増えるのかな。


2007年4月9日月曜日

夜桜の花見

職場で花見をする、なんてのはとんてご無沙汰だったのだが、今年は天候も良い上に、仲間もそろったのでひさびさに夜桜見物。
コンビニや近くの焼き鳥屋からテイクアウトを取りそろえて実施。



外で呑むと、屋内で呑むより酔いが早いのは気のせいだろうか


酔っぱらって調子が良くなるころに、頃合いに暗くなってくる。


2007年3月30日金曜日

海老頭の油炒め

うちのよく買う魚屋は、施設や保育園の給食にも材料を卸しているのだが、今日は、老人ホームに海老を卸した残りの頭の部分を大量に入手。
食べるといっても、そんなに食べるところはないのだが、油炒めにして、塩味をつけた。


これの頭のほうを毟って、足のほうを食べる、足先はもさもさするので、先のほうは残すのがこつ
海老の脳みそと足のカリカリした感じは、濃厚味の海老せんべいを食べている感じ。
結構、乙であります。


2007年3月27日火曜日

斉藤 孝「段取り力」(ちくま文庫)

「段取り力」っていうのは、いうまでもなく、筆者の造語。
一言でいえば何っていうのは、ちょっと難しくて、
 ・質の違いをきっちり見分ける
 ・大筋を外さない力と優先順位をつける力
 ・与えられたものの順番を入れ替えて、自分なりに組み替える力
といった表現で表されているのだが、要は感覚的に「段取りが良い」「段取りが悪い」といった感じであらわす以外ないものらしい。
ただ、的確な一言で表されなくても、物事をきちんと要領よく処理していく能力には間違いなくて、本書では
 ・トヨタのカイゼン
 ・建築家 安藤忠雄の例
 ・「プロジェクトホテル」の窪山哲男氏の話
など具体例をとって、さまざまな成功事例の中にある優れた「段取り力」を解剖していく。
で、後半部分からはその「段取り力」の磨き方というか鍛え方が紹介されていく。

どんなものかってネタばれしてしまうと、営業妨害なので書かない。本書を読んでください。さすが斉藤先生という感じで、サクサク読めて、ふーむ、と関心してしまう本である。

2007年3月26日月曜日

塩野七生「ローマ人の物語 26 賢帝の世紀 下」(新潮文庫)

芸術にも造詣が深くて、やる気もまんまんのハドリアヌス帝の後半生が書かれる。
この皇帝、首都ローマにいたよりも、外地で統治していた期間のほうが長かった皇帝らしいのだが、そういった形の統治自体が成立したこと自体が、ローマ帝国がすでにかなり成熟した国家であったことの証でもあるのだろう。
 
おまけに、「一貫していないことでは一貫していた」のではなく、自らに忠実に振舞うことでは「一貫していた」といった人物だったらしいから、さぞや周辺の家臣たちは振り回されただろうなー、と古の人ながら同情をしてしまう。
 
この皇帝のときに、離散(ディアスボラ)の始まりとなる、ユダヤ反乱が起きるのだが、どうもこれが、単純な民族反乱や、どこかの王が反旗を翻したっていうのとは違うらしく、そうしたあたりは、本書の
 
 
ギリシアやローマの人々とユダヤ人では、自由の概念でもちがっていた。
もしもあなたが、自由の中には選択の自由もあると考えるとしたら、それはあなたがギリシア・ローマ的な自由の概念をもっているということである。ユダヤ教徒の、そして近代までのキリスト教徒にとっての自由には、選択の自由は入っていない。まず何よりも、神の教えに沿った国家を建設することが、この人々にとっての自由なのである。この自由が認められない状態で、公職や兵役の免除を認められ、土曜や日曜の急速日もOK、だから自由は認めているのではないかと言われても、この人々の側に立てば、自由はない、となるのが当然なのだ。
 
 

というところにも象徴されていて、おまけに、自分に素直な「デキル」皇帝の時に起きたのだから、これは結構、大事(おおごと)になるよなー、と思ってしまう。
 
何はともあれ、このハドリアヌスも年を取って、本国ローマで病床についてしまうのだが、病になってから我が家に帰ってくるあたり、ひところのモーレツ企業戦士さながらである。
 
このハドリアヌスの没後、次の皇帝になるのが、アントニヌス・ピアス。この人の治世を本書によれば「秩序の支配する平穏」というらしく、先帝の強引さとは対照的に、穏やかではあるが、一本筋の通っている「旦那さん」の皇帝といったあたりか。
その辺は、本書で哲人皇帝マルクス・アウレリウスが、アントニヌス・ピウスを「わたしは彼を、太陽を愛するように、月を愛するように、いや人生を、愛しき人の息吹きを愛するように愛していたのだ。そして、わたしが彼に親愛の情を抱いていたように、彼もまたわたしに親愛の情を感じてくれていたと、常に確信していられたのであった」にも象徴されていて、たぶん、能力的にも優れていたのだろうし、統治者としての目配りも優れていたのだろうが、こんな感じで誉められる人は、少々のことがあっても、きっと見逃してもらえるよね、と羨ましく思ってしまう。
 
人格者に、ならんといかんですねー。私も見習おうということで、この巻を読了したのであった。

2007年3月25日日曜日

中谷美紀 「インド旅行記 東・西インド編」(幻冬社文庫)

北、南と続いた中谷美紀さんのインド旅行記もこれでインド完全制覇の「東・西インド編」である。
 
 
この旅、忙しい女優業の合間を縫って断続的に、2005年の8月から2006年の1月にかけての4回にわたった合計3月の旅である。
しかし、しかしですよ、3ケ月のインドの一人旅といえば、立派なバックパッカーのような旅ではないですか。うーむ、やるなー。
 
 
東インドの旅の主要な部分は、シッキムを出発点にした、カンチェンジェンガへのトレッキング。トレッキング中のできごともそれなりに面白いのだが、一番は、近くのナーランダやブッダガヤで珍しく宗教談義になっていくのが興味深い。高地っていうのは、人間を神秘に近しいものにしてしまうのかな。
 
 
東インドに続く西インドではゴア(この地名で昔のとあるTV番組を思い出してしまうのは、中年の証拠か)、ムンバイから始まる旅。
高地の空気を反映してか少し冷たい感じのした東インドの旅に比べ、熱を帯びてきているように思うのは、西インドが歴史も古い上にエローラの寺院やら人臭い観光地がたくさんあるせいか、それとも、ベジタリアンをちょっと緩和して、魚ならオッケーとした筆者の心のゆとりのせいだろうか。
 
北インドのちょっとどぎまぎしていたインドの旅も、さすがに4回目ともなり、インドのそこかしこをまわった後となると、どこかしら、筆者の筆致にも旅行作家っぽい風格が出始めている。
 
 
インドの旅の最後は、こんな言葉で締められている。
「いかなる形にせよ、この瞬間をただ生きているということが何にも勝る価値のあることなのだと、改めて気付かせてくれたインドを、大好きだとは言わないが、今は好きだと言いたい。」
 
 

3ヶ月の旅を終わり、控えめなインドフリークが誕生したように思うのは私だけかな。

2007年3月24日土曜日

中谷美紀 「インド旅行記2 南インド編」(幻冬社文庫)

北インドへの一人旅であった「インド旅行記」の続編である。
 
 
今度は南インドである。「インド」というところは、人により好嫌いがはっきり分かれる国だとは、さまざまな旅行記に書かれてあって、どうやら中谷美紀さんは、インド好きの方に分類されてきたようだ。
 
今回の旅は、バンガロール、チェンナイ(マドラス)、コーチン、マイソールなどなど、地図でみると、インドの逆三角形の大陸のとんがった方への旅。
 
 
こうした旅行記を読む楽しみの一つに旅行先の食べ物の話や地元の人とのやりとりを読むことがあって、地元で有名なベジタリアンレストランでの食事や「インド人の家庭の味」あたりのマドゥライのガイドの家庭で家庭料理を御馳走になるあたりやココナツミルクの匂いにやられて、だんだんと食が進まなくなり、イタリア料理やインド式タイ料理に逃避したりといった話は、インドにずぶずぶ浸かってしまって、「インドのものはなんでも一番」になろうとしない結構意地っ張りの女優さんらしく、妙な好感を抱いてしまう。
 

ガイドらしい働きをしないガイドとか、ヨガのクラスに関係していそうなのだが、怪しげな薬の臭いがぷんぷんする怪しい人物とか、インドにありがちで、やはりインドらしい、インド定番のキャストもきちんと登場してくるし、どちらかというとストイックにヨガの修行をできるところを探していたような北インドの旅と趣が変わって、どちらかというと「なじみのインド」らしい仕上りになっている旅行記である。

2007年3月12日月曜日

DebianでDiCEの設定

apche2でWebServerが動くようになったら、今度はDDNSを設定する。
Perlスクリプトを使ったりする方法もある(ieServer.netにはスクリプトの提供もされているので、これをクローンでまわす方法もある)のだが、Vine Linuxの場合は、DiCEを使ったので、DebianでもDiCEを使うことにする。
インストールの方法は、Vineと同じなので、VineのWebServerの項目を参照のこと。
違うのは、グローバルIPが変化した場合に自動で対応するDDNSの設定。
/etc/init.d/localのファイルを開く(又は新規作成)して
/usr/local/bin/DiCE/diced -d -l
を追記して、マシン起動時にDiCEが起動するようにしておくと良い(ようだ。)

2007年3月11日日曜日

韓国のネットとリアルの事情

趙章恩さんのKorea on the Web
「韓国では合コンや面接の前、その人のSNSやブログをチェックするのが当たり前のようになってい」て、「犯罪捜査の基本としてインターネットのモニタリングが行われる。特に重要なカギになるのはIP追跡で、容疑者の名義で会員登録されたウェブメール、オンラインゲームなどのIDを確認し、いつどこでアクセスしたのかIPアドレスを追跡し居場所を突き止めることが多い。」といった記事をみつけた。
ネット上の仮想世界が、いわばリアルの世界と重なり合うというか、ネットとリアルが融合する世界というのが、韓国では近づいてきているのかなー、という印象を受ける。
たしかに、ブログやSNSを、大多数の人が自己表現をするっていうのが常態になれば、今なら、聞き合わせとかで情報収集していたことが、ブログを調べることにとってかわることになるのだろうし、それぞれの人のメールとか、あるいはネットへのアクセスといったことは、その人の活動(ネット上という限られた部分なのだが、その部分がかなり大きくなっているのは事実だ)の軌跡を示しているから、それをつぶさに調べられると、どんなところと付き合っているかとか、どんなサイトを見たかとか、リアルの世界では隠し通せていたものが明らかにされるということで、結構、恥ずかしかったりして・・・
ネットとリアルが融合された先は、ネットが「仮想」でなくなるととともに、リアルの世界でも克明にログ(記録)をとられるっていうことなのかもしれないですね。

VNCの開始と終了

VNCは初期設定では、自動で起動しない。
開始するときはsshでログインして
#vncserver
とすると、ディスプレイ番号が aaa_server:1 のように表示される。
serverが動いている間、vncを有効のままにしておいてもよいのだが、使わない時は終了させておいた方がセキュリティ上はbettr。で、終了のときは、
#vncserver -kill :1 (:1はディスプレイ番号が"1"の場合)
とすれば良し。

VNCの画面の大きさを設定

VNCの標準のままでは、ちょっと画面が小さいのでデスクトップの大きさになるように設定を追加
rootでログインして
vi /etc/vnc.conf
末尾に
$geometry = "1024x768";
$depth = "24"
を追加して保存
=== ちょっと 修正 ===
画面の大きさを"1024x768"に設定すると、画面から少しはみだして、スクロールが必要になる。
"1024x704" がpcのデスクトップにちょうどいっぱいになる感じ。

Lan内のPCからWebminへアクセスする設定

Webminをインストールしただけでは、LAN内のWindows機(Linux機でもいいんだけどね。要するにLAN内のサーバー機以外のPC)からアクセスできない状態になっている。
アクセスできるようにするには、サーバー機のWebminから設定してもいいのだが、玄箱とかsshやtelnetでリモートログインする環境しかないときには、次のように設定ファイルを修正
rootでログインして
# vi /etc/webmin/miniserv.conf
このファイルの中程から終わりの方に
allow 127.0.0.1
といったところがあるので
allow 127.0.0.1 192.168.0.200
といったようにスペースで区切って、ログインさせたいPCのIPアドレスを記述して保存。
(ログインさせたいPCのIPアドレスは当然固定しておいてね)

2007年3月8日木曜日

プロシューマって何?

瀧口範子さんの「シリコンバレー通信」の3/8のコラムに『「自分でやる」ことのもう一つの意味』で、こんな記事をみつけた。

『第三の波』には「プロシューマー」ということばが出てくる。トフラー夫妻の造語で、モノを生産するプロデューサーと、そうしたモノを消費するコンシューマーが一体化して、消費者自身がモノを生み出すようになる。それが社会を変化させていくというのだ。
 トフラーによると、プロシューマーの行為には、たとえばATM機を使って自分でお金を引き出すことや、デジタルカメラを使って写真を撮ることなどが含まれる。
(中略)
無数の人々が無数のことを自分でやるようになるにつれ、貨幣経済の外側の活動がどんどん増え、貨幣経済と拮抗するようになる。近未来の人々は、そのふたつの経済を組み合わせて生きていくというのだ。

で、貨幣経済の外側の活動というのは

ある人は、実験的なことが好きだから自分でやる。あるいは趣味だから自分でやりたい。趣味の模型づくりがインターネットで売れたというのは、この類だ。あるいは、社会に対して責任を感じてやる人もいる。今ボランティアが増えているのも、その徴候だと彼らは見ている。トフラー自身は、学生向けに無料で講義をして、その代償に学生たちが家のペンキ塗りをしてくれたこと

といったことらしく、卑近な言葉で言えば、なんだ、近所や知り合い同士の助け合いみたいなものか、とも思ってしまい、近所の年寄りのPCを見てあげたり、蛍光灯の交換をしてあげて、お礼に芋の煮っころがしを頂くといったものかと一人合点する。
宵越しの金は持たねー、困った時はお互い様さってな、江戸っ子の下町的世界が、インターネットの発達で実現するかもねってなことかな。

2007年3月4日日曜日

Core 2 duoでもう1台

DDRとDDR2が排他利用できてAGPも使えるという、なんともいい加減なM/BでCore 2 Duoを使って1台組み立て。
OSはVista Homeをチョイス。
M/BのHPをみるとVistaはサポートしていないので使うなと書いてあるが、インストールしたら動くのでまあ、いいじゃない的に使う。火を噴くわけでもなく、特段の支障なし。
これを基盤に少しづつグレードをあげましょうかねー。


2007年3月1日木曜日

SambaとWebDAVの設定

ThinkPad-LinuxノートからはWebDAVフォルダの読み込み、書き込みが不自由なので、HTTPベースとLANベースのファイル共有を一緒にするために、WebDAVで設定した共有フォルダをSambaの共有フォルダに設定する。
設定はWebminからなので、「新規の共有フォルダを作成する」で設定して、共有を許可するユーザーを設定すればよいのだが、躓いたのは、パスワードの設定。
普通なら、SambaユーザとUnixユーザの同期をすれば、パスワードも同期されるはずなのだが、どういうわけか共有フォルダにアクセスしようとするとパスワード認証のところで蹴られる。
どうもWebminのSambaの設定をみるとパスワードの格納場所が違っているっぽくて、うちのDebianの場合/etc/samba/smbpasswdっていうようなファイルが存在しない。
しょうがないので、アクセスを許可するユーザーのUnuxパスワードを再入力。
(こんなこと、オレオレサーバでも滅多にやらないことだよな、と自己反省)
ついでにrootからのアクセスが禁止されているので、それも解除(ThinkPad-Linuxノートから、共有フォルダをmountするときに、root権限でないとできないので、自分の場合、rootからのアクセスは必須なのだ)
これで共有フォルダへのアクセスはOK
あと、WebからWindowsマシンのhttpsを使って、ファイルをアップロードすると、更新をかけると文字化けしないのだが、Lan内のWindowsマシンからhttpsでアップロードすると、更新をかけると文字化けする。
ところが、Samba経由でアップロードすると文字化けしないことを発見。
Linuxノートからアクセスしても文字化けせず、「WebからでもLAN内からでも日本語ファイルの使えるファイル保管庫」が完成したのであります。

2007年2月28日水曜日

エクスプローラの「送る」メニューに送り先を追加する

一回設定すると、よく忘れるのでメモ
まず、エクスプローラを開いて「プロファイル・フォルダ」を見つける。
開いたときに、「スタートメニュー 」の色が反転するところがプロファイルファイル
そのファイルを開いて「ツール」→「フォルダオプション」→「表示」を選択
詳細設定の中の「ファイルとフォルダの表示」を「すべてのファイルとフォルダを表示する」に変更(ラジオボタンをチェック)
そうすると隠しファイルである「SendTo」が表示される。
この中に、追加したいメニューのショートカットをコピーすると「送る」メニューの中に送り先が追加される

2007年2月26日月曜日

蔵前 仁一 「インドは今日も雨だった」(講談社文庫)

近頃、旅本といえば蔵前仁一さんのものを読むことが多いのだが、本書はひさびさに蔵前氏のお得意の地「インド」である。
 
旅本作家によって、お得意というか、取り上げる地に偏りがあることは、この前のレポートに書いたところだが、やはり、お得意の地となると、作者の思いの入り方も違うのは、この本の場合も変わらない。
 
 
インドといっても、そこは大国なので、北から南、あるいは東から西まで、行くところによって風情も何もかわってしまうのだが、この本で主にとりあげるのは、北インド(ダラムサラ、ニューデリーカルカッタ)、チベットあたりである。
 
 
で、北インドの旅はどうかというと、そこは、やっぱりインドはインドで、
 
おまけに旅慣れた筆者のようなバックパッカーは、なおさら現地の人に近い安いホテルや、路線バスでの観光を目論むものだから、本当に出発するのかどうかわからないバスチケットを買って、やはり、お決まりのように行き先の違うバスに騙されて乗せられたり(「ダラムサラは遠かった」)や、山中で車のシャフトが折れて立ち往生したトラックに遭遇し、乗客たちが力をあわせて工事中の排水溝を埋めて道をつくってすり抜けたり(「キナウル・カイラスを求めて」)、といったアクシデントには事欠かない。
 
おまけに、
 
ダライラマは外国の観光客とも会ってくれて(もちろん予約制らしいのだが)握手までしてくれるといった話や、
 
バスで通勤している物乞いのばあさん(「ダラムサラの日々」)とか、
 
よそ者と触れると穢れると信じていて、外国人に土産物を売りつける時も、足下に投げ出して売ったり、村の至るところに外国人がさわってはいけない聖なる石がころがっているマラナの村(「マラナ伝説」)
 
とか、
 
なぜインドには「野良牛」が多いのか(「街の中で暮らす牛」)といった「インドだよねー」というか「外国だよねー」といったエピソードは、いつもながら豊富である。
 
 
最後の締めは、カルカッタで一番汚いところといわれている「サダムストリート」の安宿紀行。
 
こういった旅本の場合、旅先の美しい風景とか、現地の人との心温まる交流とかよりも、こうした安宿街の、ザワザワとしていながら何かしら儚いエピソードの方が興味深く読めるのは、私だけではないはずだ。
 
いつの間にか消えてしまった物乞いとか、相も変わらず怪しげなものを売っている絵葉書売りとか、いかにもボリそうなリキシャの親父とか、あやしげな安宿街の風情を楽しむことにしよう。
 
そして、この章には、汚いだけと思っていたカルカッタが美しい街に変わった瞬間のエピソードが紹介されている。あえて、まるごと引用すると
 
「初めて僕がカルカッタにやってきたのは、もう十年以上も前のことだが、最初は僕もその不潔さに動揺した。見方が変わったのは、サダルから少し歩いた安食堂に入って食事をした夜からである。テーブルからふと外を見やると、ドアの外に広がっている景色がまるで映画のスクリーンのように見えたのだ。
 小さな食堂には裸電球がひとつぶら下がっており、ドアの外にはオレンジ色に輝く街灯が立っていた。通りはほこりっぽく、街灯の光はほこりに反射してオレンジ色にきらきら光っている。その中を、色鮮やかなサリーをまとった女性が通り過ぎ、リキシャが鈴を鳴らしながら走り去っていく。
 熱帯のうだるような暑さの中で立ち上る人々の汗、食べ物の臭い。あれほど汚いと感じていた街から、その瞬間、現実感がすーっと消えていき、自分がまるで映画の場面の中に投げ込まれたような錯覚に陥ったのである。」(「美しきカルカッタ」)
 
埃っぽいだけの街が一瞬にして変わっていく姿を、鮮やかに感じさせる一文である。

旅本の良さは、こうした他人の経験を追体験できるところにあるのだろう。

一般人が「ネットの世界に住むように生きる」世の中

「ウェブ進化論」の著者の梅田望夫さんのコラム「シリコンバレーからの手紙」のバックナンバーが雑誌のフォーサイトのウェブページに掲載されていて、その中の連載115話の「ブログ・ブームは私の勉強法をどう変えたか」にある「ネットの世界に住むように生きる」というフレーズに、心の中のどこかの部分が鳴った。
コラム自体は梅田氏のコンサルティングとその勉強法として、ビジョナリー(シリコンバレーで人には見えない10年先を変える「力の芽」が見える人のことをいうらしい)の肉声に耳を傾け、その断片の意味をを考え、組み合わせてIT産業の未来像を構造化する、といったことやブログやネットワークの進展によってネット世界で過ごす時間が長くなっていったことなどが載っているのだが、その中の「一日に五時間から六時間は最低でもネットの世界に住み、リアル世界からネット世界へと「時間の使い方」の軸足を大きく移して」いき、「以来、リアル世界での異動を私はあまりしなくなった」といったところに妙に心が鳴ったのである。
私自身は、リアル社会では、どうかするとペンと紙での仕事が多いアナログ的なホワイトカラーの世界で生計を立てているので、その意味では、梅田氏のように「ネットの中に住むように生き」ているわけではないのだが、それでも、会社内のネットワークシステムに依存して仕事をしているし、情報収集の方法も図書館や書籍に代表される「紙」よりも「」ネット」でのことが多い状態になっている。
しかし、アナログ的な部分が色濃く残る状態の中での、身近な「ネット社会批判」といったものが根強くあって、いわく「話し合いをしている風景を見なくなった」「パソコン(身近な社会では、どういうわけかPCという言葉は余り使わないのだ)の画面ばかり見ていて冷たい」といった声がある。
今のところ、こうした声は相応に大きな力を持っているのだが、それは、PCが「一種光り輝くもの」として生活の中に登場してきた世代が多数を占めている組織であることも影響していて、おそらくPCが「既にそこにあったもの」である、我が娘や息子の世代が社会の主流になれば、消えていくであろう声のように思う。
もう一つ気になるのは、「リアル世界での異動をしなくなる」ということが、社会とか思考の中にどういう影響を及ぼすかといったあたりだが、正直のところ、生計に追われながら暮らしている中で、「異動する」ということは、通勤を除いて、さほど日常的ではない。電話(携帯を含め)で社用を済ませることは多くなっているし、資料の入手自体もメールといったネット経由で手に入れて、ペーパーに印刷するという、わざわざデジタルをアナログにする作業をしているような具合だ。
ただ一つネットによっていないのは、face to faceでの内部協議やら、相手方との対面折衝なのだが、それすらも、「会社に一同に集まって仕事をする」という非常に20世紀的工業社会のワークスタイルが未だ主流だから、といった理由でしかなくて、これすら事務所管理経費の具合と「雇用のスタイル」の変化によってどうなるものかわからない。おそらく、ネットの大容量化と機器の安価化に沿うように、仕事のスタイルもサテライト化や分散化、ホームオフィス化は進んでいくと思えるのである。
近い将来、勤め人の多くが、朝起きて、顔を洗って食事をしたら、自室のワークステーションを立ち上げて仕事を始める、といった風景が当たり前になるような気さえする。
もし、そうなるとしたら
太るな・・、と思うのである。

2007年2月24日土曜日

Vista、Core 2 Duo 発注

PCの電源スイッチを外へ引っ張り出す、「セリング ひもつき君」が届いたので、装着。
無事、駆動  パチパチ、といったところで、PCケースが一つ余ってしまったことに気がつき、物欲が刺激される。
今のCPUはsocket478だしなー、3.2GHzでもなー、と逡巡したあげく、結局、Vista DSP版、Core 2 Duoをネットで注文してしまった。
もっとも、できるだけ組み立てコストを抑えるため、AGPとPCI-EXPRESS併用、DDRとDDR2併用可の鵺的M/Bも注文するという、ちょっと中途半端な選択。(古いマシンには、余っているDDRメモリをまわして、今のグラボとメモリを使いまわそうという魂胆)
週末には組み立てに入るだろうから、またレポートしますね

2007年2月22日木曜日

Debianサーバの時刻あわせ

Debianには普通はCoreの部分しかインストールされないので、時刻あわせをするアプリケーションも別途インストールする必要がある。
ということで、ntpdate をインストールする
いつものように、Debianサーバにアクセスして
# apt-get install ntpdate
でOK(apt-get install ntp としているサイトもあるが、私の場合、これはヒットせず)
インストールしたら、まずは時刻あわせ。
NTPサーバのIPを指定して
# /usr/sbin/ntpdate 133.100.11.8
を実行(これは福岡大学のNTPサーバを使用する場合)
一度時刻をあわせても、時間の経過でずれていくので、定期的にNTPサーバと時刻あわせをするように、WebminでCronを設定

2007年2月21日水曜日

Debianにapache2

自宅サーバーをVune LinuxからDebianに変えたのを機会にインストールするサーバ・プログラムを選別。
HPやブログは、日頃の管理の手間からレンタルサーバーに置いているし、LANには玄箱とLANDISKを設置して、共有ファイルは、そこに置いているので、今のところ自宅サーバを使うのは、職場との、ちょっとしたファイルのやりとり程度。
なので、インストールするものを絞って、WebDAVとSambaぐらいにする。
まずはapacheを導入。
Vine Linuxの時はapache1.3を使っていたのだが、これを機会にバージョンをあげてapache2.0を導入することにする。
ということで
# aptitude install apache2
これで必要なものは依存関係もチェックされた上でインストールされる。
apache2はapache1.3のhttpd.confの一括管理になっていないので、ちょっと戸惑うが、先達のページを参考にして編集を始める。

先達のページによると、
apache2の構造は
/etc/apache2/apache2.conf :apache2の全体設定用ファイル
/etc/apache2/ports.conf :ポート番号
/etc/apache2/mods-enabled/ :使用するモジュールへのリンクファイルが
            置かれるディレクトリ
/etc/apache2/mods-available/:モジュールファイルが置かれるディレクトリ /etc/apache2/sites-enabled/ :使用するサイト定義ファイルへのリンクファイルが
            置かれるディレクトリ
/etc/apache2/sites-available/:サイト定義ファイルが置かれるディレクトリ
となっている。
まずは、/etc/apache2/apache2.conf を編集
まず冒頭に
NameServer aaa.bbb.net
といったようにサーバーのドメインを追記。
LanguagePriority en da nl et fr de el it ja ko no pl pt pt-br ltz ca es sv tw

LanguagePriority ja en da nl et fr de el it ko no pl pt pt-br ltz ca es sv tw
とja(日本語)を最優先にする
#AddHandler cgi-script .cgi

AddHandler cgi-script .cgi .pl
にする(cgi-binの外でのcgiスクリプトの実行を可能にするためらしい)
追記・修正したら保存。
次は/etc/apache2/sites-available/defaultを編集。
ただし、オリジナルファイルを編集してしまうのは良くないので、コピーを作成する。
# cd /etc/apache2/sites-avilable ← /etc/apache2/sites-avilableにディレクトリ移動
# cp default aaaa ← aaaaにdefaultの内容をコピー
       (aaaaは任意のファイル名なので、お好みに応じて名前をつけてね)
# vim aaaa ← aaaaを編集
Serveradminは適当なメールアドレス
DocumentrRootは /var/www で変更せず。

Options Indexes FollowSymLinks MultiViews
AllowOverride None
Order allow,deny
allow from all
# This directive allows us to have apache2's default start page
# in /apache2-default/, but still have / go to the right place
RedirectMatch ^/$ /apache2-default/



Options -Indexes ExecCGI FollowSymLinks MultiViews
AllowOverride All
Order allow,deny
allow from all
# This directive allows us to have apache2's default start page
# in /apache2-default/, but still have / go to the right place
#RedirectMatch ^/$ /apache2-default/

ServerSignature On

ServerSignature Off
に、それぞれ変更
変更がすんだらaaaaをensiteする。
# a2dissite default ← defaultを無効化
# a2ensite aaaa ← aaaaを有効化。
          これによってサイト定義はaaaaが使用されるようになる
ここまでやったら、ひとまずapache2を再起動
# /etc/init.d/apache2 restart
/var/wwwに適当なindex.htmlをおいて、http://(IP番号)かhttp://(ドメイン名)でアクセス
ページが見えたらOK

2007年2月18日日曜日

VineからDebianへ

サーバー機にVine4.0をインストールしたが、PCが古いせいか、どうも調子がよくなくてエイヤッとばかりにDebianに乗り換えた。
余計なディストリビューションが入ってないので、使うものだけを入れるというスタンス。
今のところ、家の外からのちょっとしたファイル置き場に使うぐらいなので、WebDAVぐらいを入れておこうかなー、と思っているのでありました。

2007年2月15日木曜日

鰤の炙りカルビ

刺身をとった残りの鰤のアラのアバラのところを入手。
早速、塩を振って焼く。結構、生臭いので塩はきつめに。
醤油をすこし垂らして、あばらの骨からみ身をはがすように食べれば良。
アラではあるが、絶妙の味わいである。


2007年2月14日水曜日

蔵前 仁一 「旅人たちのピーコート」(講談社文庫)

最近、蔵前仁一さんの旅本にこっている。
 
旅本作家の旅先は、行き先が自然に偏ってくるのが通例みたいで、例えば下川裕治さんの旅先は、沖縄、タイといったところが多くなっているし、今は旅本を出すことも少なくなった岸本葉子さんの場合は、中国・台湾がメインで、ときおり北方領土といったところだ。
 
そうした目で蔵前仁一さんの旅本をみるとアジア、それもインド、チベットあたりが一番多いように思うのだが、この本の場合は、そういうことではなく、それまでの蔵前さんの旅を集大成するかのように、アジア、中国、インド、アメリカ、ヨーロッパなどなどと幅広い。
アメリカやヨーロッパを取り上げる旅本は最近珍しいのだが、それよりもまして珍しいのは、「イエメン」が取り上げられていること。
 
 
ところで、「イエメン」ってどこか知ってます。実は、私もとんとどのあたりか御存じない状態だったのだが、章前の地図を見ると、アラビア半島のさきっちょである。
 
 
昔はシバ王国であったとのことで、歴史的には日本よりずっと老舗なのだが、そこはアラビア、なんとも風情が違う。部族国家であったことを反映して、未だに半月刀をもった男がいたり、ライフルで武装していたり、砂漠に残る巨大な廃墟であったり、アジアの豊饒で湿っぽい感じのたたすまいとは、まったく違う、なんというか乾燥してパリッとしたアラビアが広がるのである。
 
 
おきまりの安宿、香港・重慶(チョンキン)マンションにまつわる旅行譚や「舌が痺れるほど辛い」のであって、「ご飯を大量に口にかきこんでなんとか辛さをしのぐ」元祖麻婆豆腐を体験したり、インドの「ホテル・ラクシュミ・ナラヤン・ババン」の想像を絶するほど大量で、しかも最後まで食べないと、その内容をすべて味わえない仕組みになっている南インドのミール(定食)とか、定番っぽい旅本のワハハ的エピソードは満載である。
 
そのほか1979年のアメリカ留学と1999年の再びのアメリカ・ニューヨーク旅行まで、アジアからアメリカまで世界に様々な旅の姿が楽しめる一品。
 

ちなみに表題の「旅人のピーコート」とは筆者がギリシア・アテネで同じような境遇の日本人の旅人からもらった厚手の紺色の分厚いコートのこと。このコートを着て寒いヨーロッパを旅したらしい。まさに袖すりあうも他生の縁を地でいく旅のエピソードである。

2007年2月10日土曜日

カツとじとソースカツ丼

トンカツばかりだと飽きてしまうので、今日はちょっといたずらして、カツとじにしてもらう。
タマネギと一緒にダシをいれて玉子でとじるだけ。なんのことはない、かつ丼の上だ。


息子が羨ましそうにしていたので、彼にはソースカツ丼をつくってやる。
丼飯の上にキャベツを敷いて、カツをのせたら、ウスターソースをかけまわすだけ。
単純だが、結構美味しいのである、ホント。


2007年2月9日金曜日

イガイ

今年は海が温かいせいか、大きなイガイが、この時期からでる。
もっとも、高価なので、これ1個ね。


2007年2月3日土曜日

節分の豆まき

今年も節分、鬼やらいの季節がやってきた。
おきまりの行事なのだが、息子とやると妙に盛り上がるのはなぜか。
なんとなく一所懸命、豆を撒いてしまうのである。


今年の恵方はどっちだったかしら。
恵方の方を向いて巻き寿司を切らずに黙ってほおばるってのは、コンビニが始めた風習らしいが、ここまでマスメディアで繰り返しコマーシャルされると、すっかり定着した行事になってしまうね。
ここらあたりは、バレンタインデーと一緒かな。


2007年1月30日火曜日

Vine バージョンアップ その後

Vineのバージョンアップを果たして、いろいろ設定を試すと、どうもApacheとかは大丈夫で、WebDAVもアクセスできている。
しかし、MySQLを使ったXoopsとかMovableTypeは全くだめ。
どうやらMySQLのバージョンがアップしていて、今までの設定では動かない様子。
MTはもともとレンタルサーバーに本体はあるし、XOOPSはまともなCMSとしては使ってなくて、ネット上のメモ置き場状態なので、動かなくても大きな影響はないのだが、いざ動かないとななると、なんとも癪でしょうがない。
といった訳で、遊べる自宅サーバーを目指して、Debian化も近いかもしれない。

2007年1月28日日曜日

Vine Linux 4.0へバージョンアップ

デスクトップの自宅サーバーに使っているVine Linuxのバージョンを4.0にUPしてみた。
所用時間2時間程度。カーネルを2.4から2.6にあげるせいか、結構時間がかかる。
(ちなみに、家庭内のモバイルノート<屋外携帯は重くて無理。せいぜい家の1F←→2Fが限界なのだ>に使っているIBM ThinkPad A21eは途中でインストール画面がフリーズしてUPできなかった)
もともと、Cerelon 733MHzというかなり古いレガシーマシンなので、大きな期待は寄せていなかったのだが、どうにかアップグレードインストール完了。
ログイン画面はブルーの雲が浮かんでいて、おーっ、なかなか良いではないですか。3.2までのメタリックな感じとまた違うぞー、と喜んでログイン。
で、サーバーとしての調子をみようとしたら・・・つながりまへん。カーネルがあがったせいで、SQLやらなにやらが、そのままでは使えなくなっているし、Apacheも動かない。
う-む。
3.1→3.2の時と同じような気楽な調子でUPしたのだが、どうもそういう訳にはいかないらしい。
デスクトップ利用をしようと思うが、NASの玄箱やLANDISKのファイルが文字化けしている。
再び う-む・・・・・・・。
この際、サーバーのLinuxを、サーバー機らしく、余計な機能のないDebianに変えてしまおうかと悩む、今日この頃である。

2007年1月27日土曜日

Clie NX70V 復活!!

ROWAに頼んでいたバッテリーが昨日届いたので、バッテリー交換。
届いたのはこんなの


裏からみると


NX70はバッテリーのところのネジをはずすと簡単に交換できそうに思うのだが、実は、中の方でフィルムががっちりと本体とバッテリに接着されていて、裏のネジをはずして筐体をばらさないと無理らしい。
なので、星形のドライバーをホームセンターで購入して挑戦(ドライバーは600円弱だったかな)。
意外に簡単にばらせる。
裏蓋をはずしたところはこんな感じ。


NX70はもともとバッテリー交換を前提にしたつくりになっているとは聞いていたが、こんなに簡単にできるとはあらためて感動。
バッテリーの接続端子を抜いて、フィルムを慎重にはがして交換。
あとは、裏蓋を元のようにもどしてネジをしめて出来上がり。
クレードルにのせて、完全充電して・・・・・
復活しました。
バッテリーも100%のゲージになっている。少々、使っても減らないぞ・・・よし、よし。
これで、もう1年大丈夫(だろう?)

2007年1月23日火曜日

塩野七生「ローマ人の物語25 賢帝の世紀 中」(新潮文庫)

派手見せはしないが、世間通で、そのくせ働き者のトライアヌス帝の跡継ぎのハドリアヌスの元気盛んな頃が、この25巻。
 
もともとは、昔は有名だったが羽振りが効かなくなった名家で、父の早死のせいで、トライアヌスが代父となったのが、皇帝へ道が開けるもととなっているのだが、そこは働き者のトライアヌス、ハドリアヌスが青年になってからは、行政官やら兵役やら、あれこれ忙しい目をさせているから、あながち幸運ばかりではなくて、やはりハドリアヌスの才も秀でたものがあったのだろう。
 
おまけにトライアヌスの皇后にも気に入られていて、若々しくて(単に若いといったことではなくてエネルギッシュということだろうね)、頭脳明晰で野心家といった人だったらしいから、近くにいると、凡人なら熱気で煽られるか、洗脳されてしまうか、どっちかになってしまうタイプだろう。
途中、皇后サビーナの肖像がでてくるが、どちらかというと控えめそうで、こいつはハドリアヌスと合わないだろうねと、途中読み進めながら思った次第で、やはり夫婦仲はよそよそしかったらしい。
 
で、こういうちょっと派手派手しいのが、トライアヌスがパルティアの反乱平定中に病死するときに、次期皇帝に指名されたってのだから、これは本当にそんな経緯があったのか当時から胡散臭く思われていたらしい。でも、まあ、なんとなく後継者として認められてしまうあたりが、このハドリアヌスって男の才覚というか才能のなせる業なんだろうね。
 

 
とはいっても、皇帝になった直後やらないといけなかったのがパルティア戦役の収束であったし、それにくっつくかのようにやってしまったのが、先帝に仕えていた忠実な4人の将軍の暗殺といったことだったので、最初はあまり人気はなかったらしい。こうした時に、派手好みの人が何をやるかといったら、やはり盛大な贈り物とか減税とかで、案の定、ハドリアヌスも皇帝になったときの一時下賜金の大盤振る舞いやら税の滞納分の帳消や経済的な困窮者への貸付金の創設など、矢継ぎ早に繰り出している。その結果、人気が出るのは、昔も今も変わらなくて、この人気回復が、ハドリアヌスの長い治世の基礎になったのは間違いないだろう。
 
こうした人気のもと、じゃあ、ハドリアヌスが大人しく帝国を治めたかというと、こうした派手好みの人がそんなことになるわけもなく、治世21年のうち、本国ローマにいたのは3回、合計で7年間しかなかった、といった具合である。最初は、ライン地域のゲルマンの反乱あたりで皇帝自らが乗り出したといったのが発端のようだが、次はブリタニア、その後は北アフリカと、まあ腰が座らないというか、出歩き好きというか、活動的で、勢精力的で、やる気にあふれた政治家や実業家によく見るタイプだったんだろうね、と思う。ついでにギリシア文化にとことん惚れ込んでいたらしいから、文化好きの大企業経営者とか知事に、いるような感じがしますねー。
 
でもまあ、21年間にわたって、出ずっぱりながら本国からも目立った不満もでず、帝国も繁栄していたってのは、やはり只者ではない証拠ではあろう。
 
地味めのトライアヌスの後の、派手目のハドリアヌスというのは、さながら、田舎からでてきて苦労して店を大店にした初代の後を、元気の良い二代目がさらに店をでかくしたってな感じで、老舗大企業のサクセスストーリーそのままといった感じなのでありました。

2007年1月19日金曜日

Clie NX70V 再び

いまさらClieでもないだろうと思うのだが、長年 Clie NX70Vを使ってきている。
ところが、最近バッテリーがへたってきて、フル充電したつもりでも90%ぐらいで、ちょっと使っただけで、60%ぐらいにゲージが落ちる。どうにもストレスがたまる状態になってしまった。
長年PDAを使っていると、紙の手帳や、ケータイのスケジュールではちょっと物足りない。かといって、今のケータイをWilcomに変えるには、地方の田舎住まいの当方としては、エリアが気になる。
2機も持ち歩くのは、邪魔だし、料金的にも躊躇する・・・・・
というわけで、なじみの愛機のNX70Vの復活をはかることにした。
このPDA,、名機のNX80の先行機で、そこかしこに物足りないところはあるのだが、なんとも愛着が残るのがClie難民のつらいところ。祖国はなくなっても祖国なのだ。
バッテリー交換となると、<a href="http://www.pdakobo.com/exec.exe?html=shop_menu.htm&reh=battery.htm" target="_blank">PDA工房のバッテリー交換サービス</a>を頼んでもいいのだが、少しでも安価にあげようというところと、バラしてみようかな、ということで<a href="http://www.rowa.co.jp/" target="_blank">ROWA</a>にSONY対応のバッテリーを注文。
ネットをみると、来週あたりには届きそうな感じである。
はたしてNX70V 復活なるか・・・は、また、来週。

2007年1月14日日曜日

PSP 動画変換などなど

ちょっと遅ればせにPSPいじりにはまっていて、今日はメモステの512Mを購入。
本当は、1Gが4700円でKs電気で売ってるというチラシを見てでかけたのだが、生憎売りきれ(値段は4000円にさらに下がっていたけどね)。しょうがないので、2700円で売っていた512Mを購入。1年前は1万円近くしていたのにねー、感慨ひとしお。
で、何をするかというとDVDを変換して、PSPで見ようということ。
定番の「携帯動画変換君」を使わせていただいたところであります。
うーむ、結構快適に見れるではないか・・・
DSに押されて、てんで人気のないPSPだが、ゲーム機と考えずに、携帯端末と考えれば、まだまだ使えることありそうですよねー。
SONYも、CLIE撤退の罪滅ぼしとして、PSPで使えるPIMソフトつくってくれると有り難いんだがなー。

2007年のとんどさん

残念ながら、ちょっと肌寒い今年のとんどさん。
息子と二人で行きました。お参りした後は、この焚き火で尻を温める。タバコを吸っていた時は、これで火をつけて無病息災なんて、筋の通らないことをやていたのだが、タバコをやめた今となっては、どことなく手持ち無沙汰である。