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2009年6月28日日曜日

「いけちゃんとぼく」あれこれ

「いけちゃんとぼく」が映画化され、あちこちで評判になっていることもあって、ブックレビューの方でも原作をとりあげたのだが、そのついでにあちこちのサイトを巡っていると、あちこちに西原理恵子さんの、面白いインタビューがあって興味深かった。
もちろん、いけちゃんのきっかけは、息子さんが(おそらくイジメられた時に)ランドセルに書いた落書きがヒント、とか「好きな人がいた人、今好きな人がいる人に観に行ってほしいです。“好き”がたくさん詰まった映画になっているので」とか、それなりのものもいっぱいあるんだが、
例えば
「もともと5万部刷ったうちの2万部しか売れなくて、3万部もお蔵入りになっていたけど、テレビで取り上げられるとあっという間に売れた。ぱっとしないまま終わるはずの絵本だったけど、テレビ様のおかげで売れた(笑)」
とか
「私のファンが老眼になり始めたので、リハビリ感覚で絵本より何かおっきいことをやろうという話になった」
といった西原さんらしいインタビューが散見されて面白い。
そういえば、この「いけちゃんとぼく」が出た頃は、元旦那さんの鴨志田さんも、まだ元気だったはずで、この本に出てくる父親と息子の別れに、なぜかしら重ねあわせてしまうのだが、そんなことも乗り越えて、きっと、これからもパワフルな作品が仕上がっていくんだろうなー、とまあじゃん放浪記あたりからのファンである私としては思うのである。
なには、ともあれ、映画がはやりますように・・・

西原理恵子「ぼくんち」(小学館)

「いけちゃんとぼく」をとりあげたら、なんとなく西原理恵子さんのものをとりあげたくなったので、続けてレビューをすることにする。


で、そうなると「ぼくんち」である。
というのは、全編を通じて流れるハチャハチャさともの悲しさ、そしてラストの泣かせどころといい、「いけちゃんとぼく」にひけをとらない出来だと思うのだが、どういうわけか、大々的に取り上げられているのを最近見ない。やはり、西原さんのいう「下品さ」が影響しているのか?けして、そんな下品ではないぞ、とこの作品を援護したくなったという訳である。


始まりは、「山と海しかないしずかな町」に住む男の子「二太」のところに、三年前に家出していた母親が帰ってくる。なんと「おねえちゃん」と一緒にだ。「おねえちゃん」の名前は「かのこ」といって、ここにくる前は「ピンサロ」で働いていて・・・・、といったところから。まあ、なんとも乱暴な出だしではあるが、西原さんの漫画らしいといえばいえなくもない。

そして、再び母親が家出して、二太は、(たぶん)この血のつながらない「おねえちゃん」と暮らし始めるのだが・・・

といった感じで進んでいくのだが、町の人間というのも、貧乏で、のんだくれで、隙を見せればトロいやつから何かをかすめとろうとするし、隙がなくても、なんとか自分の身は守ろうとする、「なんとも、は~~・・・」、という感じで、こすっからくて、なんとも切ない暮らしが展開していくのである。


町のワルの「こういち」くんや、シャブ中でアルコール中毒の父親をもちながら、とっても強く生きている「さおりちゃん」や、わけがわからんようになっている中華料理屋のおやじとしっかり者のおかみさんやら、小さな、山と海にへばりつくような町で、せせこましく、しかし、それぞれに目いっぱい生きている、悪いこともたくさんして、善いこともそれなりにして生きている姿が、二太、一太、そして「おねえちゃん」のかのことともに、エンドレスに続くかのように、語られていく。それは、ワハワハと笑いを誘いながら、そのくせ、ちょっぴり涙を誘う物語の連続である。

しかし、物語には、始まりもあれば終わりもある。そして、大抵の場合、始まりはゆっくりと始まっても、終わりは、ガラガラっと終わっていくのが、多くの物語の常である。


一太は都会へ出、「おねえちゃん」は母親の借金を返し終わる頃、二太の将来を思い・・・


というところで、この「ぼくんち」の最後の泣かせどころをネタばれ承知であえてレビュー。
と、いうのも少しネタばれしたところで、いや、むしろ少々ネタばれした方が、このシーンを読むがために、この本を手に取る人が出てくると思うがためだ。
絵を出すとネタばれがすぎるのでセリフだけを引用すると、


一つは、物語の終焉の一つ前。
かのこ と 二太 は町の山に、タイムカプセルを探しに行くが見つからない。
そこで、かのこは、二太に親戚にもらわれることを告げ、


それからねえちゃんは
うしろを向いてずっと地面をほじくり返していた。

ハナ水がどばどば出ているのが見えた


日がくれて

宝物はみつからなかった


ねえちゃんは
小さな声で

ねえちゃんはここにいるから、

ねえちゃんはタイムカプセルやから、

いつか、一太と二太でむかえにきてな

と言って

またハナ水を

どばどば出した


そして

二太が親戚のおじいさんに引き取られて、漁船で、この町を離れていくシーンが、また泣かせどころというか、絶品である。



(船べりから、だんだん離れていく二太の目線で)

恐竜の入り江がすぎると

いよいよぼくの町が見えなくなる。

(じいちゃんのセリフ)

二太、

寒いき

中、入っちょき

(二太、振り返って)

じいちゃん、

ぼく

知ってんで。

こうゆう時は

笑うんや。


どうです。泣けてくるでしょ。私なんぞは、はじめ白黒のバージョンのものしかもっていなかったのだが、このシーンをカラーで見たいために「ぼくんち 3」を買ったのでありますよ。

「いけちゃんとぼく」が「泣ける本 NO.1」であるなら、この「ぼくんち」は「もっと泣ける本」であり「元気の出る本」であること間違いなしの一冊である。


しかし、ビンボーで、せこくて、トロい人を登場人物にして泣かせる物語を描かせると、西原理恵子さんってのは名手なんだよな~。

2009年6月27日土曜日

西原理恵子「いけちゃんとぼく」(角川書店)

西原理恵子さんの初めての絵本。


いけちゃんは
ずっとまえから
そばにいる

いけちゃんは
なんとなく そばにいる


から始まる、丸くて、ふわふわの「いけちゃん」と「ぼく」の日々の暮らしと生活と、ぼくの成長と別れを描いた絵本、といっていいのかな?

このあたり大筋は言い得ていると思うが、いまいち、この絵本の全体を通した感覚を表現できていないようでもどかしい。


西原さん特有の、露悪的なギャグを含んだお話、例えば、ぼくが友人にバナナの皮やナフタリンを食わす話などや、喧嘩やいじめ、父親との死別のエピソードが、いつもそばにいる「いけちゃん」とのふれあいが、この人特有のパステル調ではあるが、原色に近い、なんとなく、南国のアジアっぽい色使いとともに語られていくのだが、ワハワハと読みながら、時折うむ・・・とかうならされて、なんとなくもの悲しくなってしまうのは、いつもの西原理恵子調絶好調である。


例えば、父親を亡くした悲しみは、海で100回おぼれるほどの感じ、「100うみ」だと「ぼく」と語りながら、でも


せかい中で人よりはやく
大人にならないといけない
子供っているんだよ

キミも その中の
ひとりなんだよ。


と語っていくあたり、知らず知らず、西原ワールドに入り込んでしまって、恥ずかしながら目が潤んでいるる自分に気づかされてしまう。


そして、「いけちゃん」との別れのシーン。ネタばれは、御法度として多くは語らないが、「ああ、そーだったの」、「なーんだ」、と呟きながらも、


さよなら

わたしたち
とても短い恋をしたの


で終わるラストは、不肖私めも、鼻の奥がツンとなってしまったのだが、詳細は、まあ読んでのお楽しみである。


映画では「ぼく」の名は「よしお」という名前になっているが、この絵本では「ぼく」の名前は語られていないように思う。
そして、語られるエピソードも一人のもののようであって、多くの、様々な男の子のもののようでもある。


作者は、すべての「よしお」くんの、いや、すべての男の子の、それぞれの「いけちゃん」の話を届けたかったのかもしれないな、と勝手に結論づけてしまうのであった。