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2018年5月18日金曜日

AIの生活への浸透には、「ロボット三原則」の匹敵する「AI◯原則」を考えるべきではないか

 C-net Japanで『「Alexa」、家庭での私的な会話を連絡先に誤送信』ということで

・Alexaデバイスを家中に置いている家庭で、プライベートな会話を電話で仕事関係の連絡先に電話で送った

・Alexaは聞き間違いでそういう動作をしたらしい

といったNewsがでていた。

これから、AIがスマートスピーカーに限らず、様々なデバイスに搭載されるにしたがって、こうしたことに限らず様々な問題が増えてくるのは間違いない。もちろん、マシンの誤動作の範囲であるとは思うのだが、マシンの持っている機能と、我々のプライバシーを含む「柔らか」なところが不可分に結びついているがゆえに、誤動作が大きな影響をもたらしてしまうということであろう。

最近、こうしたAI関係の出来事を見て思うのだが、性能や能力の進化を推し進めるか、あるいは、その危険性を考えて禁止する方向にいくか、といった両極端の議論が目立っている。でもですね、ここらで科学者の皆さん、技術者の皆さん、先達である「アジモフ博士」がロボットが暴走しないように、我々人類とともにあるように考案した「ロボット三原則」に匹敵するようなものを考えてもらえんですかね。

技術の進化は、止めようとしてもどこかに突破口を見出して動くものであるし、もしそれを封じれば、中世の暗黒時代のように、その地域を置いてけぼりにして進むもののように思うところ。拒絶か無条件の容認ではなく、第三の道を模索したいものですね。

ちなみに、ロボット三原則は、「我はロボット」(アイザック・アジモフ著)ででてきたもので

第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。

第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。

第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。

— 2058年の「ロボット工学ハンドブック」第56版

というものでありますな。さてAI◯原則はどういうものになりますか。 

2018年5月14日月曜日

AIによる「雇用喪失時代」に何が求められるのか

 

AIによって雇用が奪われるという問題で、最近気になった記事がこれ。ひとつはPRESIBDENT ONLINEで「10年後にはドライバーの仕事は消滅するー123万人の雇用が喪失する恐れ」というもので、要点は

・AIの進化によって、タクシードライバー、トラックドライバーといった職種は、自動運転の普及によって2025年までに消滅。銀行員、弁護士も風前の灯火

・20年後には、経営者、医者などが消滅あるいは削減の対象に

・一方、指の細かな作業のいるコンビニ店員、大工などは生き残る可能性大

もうひとつはBUSINESS INSIDERの「ロボットが奪い始めた人間の雇用ーバリスタ・ロボットは1時間あたり120杯のコーヒーをつくる」では

・アメリカの人気コーヒー・ロースターはベンチャー企業と提携し、バリスタ・ロボットをつくった。

・人件費が抑えられるため、そのチェーン店のコーヒー代は安価。

・人件費の高騰により、ファスト・フード・チェーンのうち、マクドナルドなどの大きなチェーン店は小型店舗やモバイル端末による注文にシフト。より小規模なチェーン店は店舗全体の自動化に取り組んでいる

ということで、ファーストフードを始め、小売店の無人化は今後。AIの進化・浸透によって進む一方のようだ。

卑近な例で言えば、コンビニ・コーヒーの普及によって、喫茶店などが駆逐されているのもその先駆けと行っていいと思う。

で、こんなご時勢ではあるのだが、これから出てきそうなのは「空間ビジネス」のような気がしますね。もともと喫茶店が流行っていたのは、コーヒーの旨さということもあるのだが、落ち着ける空間の提供ということも大きかったように思う。そうであれば、いっそ人の役割は、居心地の良い空間提供のためのお世話、ぐらいに割り切って、旨いコーヒー提供はAIに任せて、「空間づくり」と「空間提供」に専念するというビジネスも出てきそうですね。

例えば、コーヒーはあまり上手くないけど、話上手で相談に乗ってくれる、喫茶店のマスター、あるいはスナックのママさん的なものですかね。AIの浸透は留まることはないだろうから、「人」の手でしか提供できないものは何か?といった視点でこれからの仕事は考えないといけないんでしょうね。

2018年4月1日日曜日

音声入力は、意外に私たちの身近にあることに気がついた

 

勝間和代さんのメルマガではよく紹介されていたのだが、定期的に診断してもらっている整形外科で、そこの年配のお医者さんが、音声入力でカルテに入力しているのを見て、改めて音声入力が我々の暮らしの中に実は入り込んでいるのだ、ということに気がついた。

仕事の効率化やIT化に携わっていたこともあるのだが、カルテとか業務日報とかの電子化で、一番ネックになっていたのは入力の手間をどうするかということであった。特にお医者さんや現場での作業が多い職員は、キーボードを使った入力には面倒感があるようでそこが導入を躊躇する一因ともなっていた。

その医院での入力の様子を見ると、もちろんAI機能の進化もあるのだろうがかなり正確に入力されている。まだ誤変換はあるようだが、これからのAIの進化でかなり改善されてることいくことはまちがいない。 実際この原稿も音声入力で書いてみたのだが、なかなかに便利なものである。

ワープロが、タイピストを駆逐したように、音声入力は、会議や打ち合わせにまつわるさまざまな仕事を変えていくような気がする。 テクノロジーっていうのは、意外にこんな身近なところから、我々の生活を変えていくのかもしれませんね。

ちなみに当方がiPhoneで使っているのは、音声認識メールというアプリであります。有料ではありますが、結構認識力高いですよ。Evernoteとも連携しているのも便利ですな。

2018年3月23日金曜日

古い習慣の強固さは、日本だけの専売特許ではないと思うが・・・

 

少し前になるのだが、THE PAGEで「新しいITに否定的な日本、もはやアフリカよりも前時代的?」といった記事があってたのだが、ようやく当方も考えがまとまったのでエントリーしておく。

記事の要旨は

・アフリカで起業した女性が日本に帰国すると驚くことがある。あらゆる席に喫煙席があること、や回覧板の文化があること、紙の本をよむ人が多いこと、そしてモバイルで送金できないことや、現金しか決済できない店が多いこと

・アフリカでは、経済発展にともなって新しいインフラを使いこなす人も増加している

・新しいITインフラやビジネス習慣と人々の思考回路には密接な関係がある。古い制度にしがみついていると、物質的・生活様式でも遅れをとる。新しいことに貪欲になることが日本人に求められている。

といったもの。

ただ、こういう古い政府度が強固に残って、新しい動きに乗り遅れてしまうってのは、別に日本だけでなく、世界中どこでも起きているのではないですかね。例えば、産業革命は当時、大陸より遅れていた「イギリス」から始まったのであるし、生産現場でのAI導入でドイツが先んじられたのも、生産の合理化で周回遅れだったせいで、かえって新しい技術が導入できたから、といった話がある。日本だって、戦争で古い制度や基礎インフラがまっさらになったからこそ、戦後の工業社会化や高度成長があったといえなくもない。記事のアフリカの例も、要は国土を網羅したシステムや、経済の安定といったことがなかったから、白地に絵を描くように、モバイル決済などがどんどん普及した、ということなんだと思うのである。

使いこなされてきた古い制度やシステムが安定していて、楽であるのは間違いなくて、そこに、新しい仕組みやシステムをいれようとした場合、古いものときしみが生じるのは通例のこと。ここらは「新しいことに貪欲になる」といった精神論で解決できる話ではないような気がする。要は、古いシステムにどこで見切りをつけて、将来性のある新しいシステムにどう乗り換えていくか、ということなのであって、新しいシステムの優位性がどのあたりで古いシステムを上回るか、あるいは上回るように誘導できるか、といったことではないでしょうかね。

このあたりになると、強権的な政治のない「日本」はちょっと不利なことは間違いなくて、じわじわと染み入るように新しいものが入ってくるのを待つ以外なく、寂しいですが、一度は周回遅れになってしまうという宿命を背負っているのかもしれないですね。

勝負はいつも勝ち続けることはできないのだから、早めに軽く負けて、体制を建て直して、次の勝負を有利に進める準備をするということが肝なのかもしれないですね。

2018年3月21日水曜日

DocomoのAI戦略は、ちょっと当方の理解の外にありますようで

 

C-netによれば、DococoのAIの戦略は

いろいろなことができる対話型AIデバイスは、「結局、大半の機能がユーザーに使ってもらえない」と同氏。用途を絞るなどして、ユーザーが「このために、このデバイスを使う」という役割を明確にさせることが最も重要であるとし、AIを用いたサービスの差別化には最終的に“人間の力”が鍵を握ると断言した。

という方向であるらしい(https://japan.cnet.com/article/35115869/

個人的にはそこまで“AIを使うぞ”といったハードルを上げられると、ちょっとシンドい。スマホの導入の時もそうであったような気がするのだが、Docomoが新しい技術を導入するとき、ふわっとした感じで導入するんではなく、なにかしら利用者に主体性を求めてくるような気がしますね。

Iモードの時にも感じたのだが、メーカー側で用意するシステムに合わせろ。といった感じがして、どうも違和感がある。もちろんAppleの場合も、自らのシステムの中に囲い込む志向が強いのだが、その遊ばせてくれる、あるいは、動けるフィールドがどうも違っていて、制約感が漂うのである。

どちらかというと、日本のITの雄であるDocomoさんには、太っ腹な感じでユーザーを遊ばせてもらいたいと思うのだが、どうであろうか。

スマホで遅れをとった二の舞はAIでは避けてほしいのでありますが。

2018年3月8日木曜日

AIは密かにあなたのそばに忍び寄っている。・・・のかもしれない

 

MIT Technology Reviewで「AIを使いたい?→実はすでに85%の人が利用中、米調査結果」という記事によると、アメリカの85%の人がナビアプリやストリーミング・サービスの形ですでにAIを利用しているらしい。

たしかにAIは、あちこちのWebやスマホのアプリやサービスやIoTで、しっかり活用されている状況なので、当方を含め多くの人が「将来は、AIに仕事を奪われるかもしれんね〜」と気楽な感想を漏らしているうちに、近くでしっかりAIにサポートされているといった状況がすでにおきていると推測。

ただ、この状況に当方たちが気づいているのかというとそうではなくて、「このサービスは、とても便利だ」とか「最近はパソコンやネットでやってくれることが増えたよね〜」てな感じで、後ろでAIが動いていることなんてまったく意識していないのが大方であろう。

で、こんな風であれば、AIに食が奪われるっていうのは、生活や仕事の様々な場面が、知らない内にAiが入り込んできて、特にバックヤードのあちこちの人間がやっているところが置き換わっていって、気がついたら、それが表に一挙に出てきて、人間のやる仕事が変わってました、っていう奪われ方なのではないでしょうか。

ひょっとすると「アハ体験」のように変わっていることにも気づかないのかもしれませんね。

2018年2月21日水曜日

AIによる行政の窓口サービスは、「たらい回し」という悪しき伝統を消し去ることができるかも

 

C-netで「住民からの問い合わせにAIが対応ーーMRIと30以上の自治体が実証実験」と題して

三菱総合研究所(MRI)は2月19日、「AIスタッフ総合案内サービス」の実証を開始したと発表した。自治体に対する住民からの問い合わせを対話形式でAIが応答する。

AIスタッフ総合案内サービスは、子育て、引越し・住所変更の手続き、ごみの出し方、住民票や戸籍、各種書類の請求など住民からのさまざまな問い合わせ全般に対して、対話形式でAIが応答して必要な行政サービス情報を案内するもの。クラウド型で提供し、各自治体は導入・サービス利用コストの負担を抑えるとともに、常に最新の技術を利用できる。

という記事がエントリー。実証実験の中心は区・市で、基礎自治体の住民サービスの案内サービスが対象の様子であるのだが、実証実験の結果はどうでようが、この試みは非常に賛成。ただ、応答はLINEのような形式がイメージされてるので、ちょっとこれは減点。

できうれば、スマホには抵抗感のある向きも含めて面倒をみるために、音声サービスまで乗り出してほしいもの。

ただ、そうした減点部分はおいといても、人間による窓口サービスの応答が、行政サービスがどこの部署で提供されていて、その手続はどうかということが、人間ではとうてい覚えきれず、カバーしきれないということを考えると、AIの活用により、たらい回しや取次ミスが少なくなるのでは、という期待ができる。

さらに、その手続的なことになると、その部署の職員でないと行き届いたサービスができない、ということも多いから、すくなくとも事務的な部分については、AIによって一定程度代用できるということもできるのだはないだろうか。こうした手続面でのQ&AはHPなどでも出ているのだが。あれを見てすとんと理解できる人はよほどの専門家か経験者でないとムリ、というな場合が多い。できれば、紹介のパターンとか内容とかも、AIで記録して、分析することによって、アドバイスうる内容も、今より分かりやすくすることも可能になるんではないでしょうかね。

2018年1月23日火曜日

自動運転は、地域と地域の境界をなくしてしまうのかもしれない。

 

Twitteで、箕面2.0氏の「自動運転になって異動という概念すらなくなり人は都市から都市へと頻繁に行き来するようになる」という落合陽一氏の本の引用をみつけ、「うむ」とうならされた。

今、地域と地域の間を隔てているのは、「距離」であることは間違いない。しかも、それは空間的な距離というよりも、移動して他の地域に行くには、自分で運転するか、交通機関で行くという、「手間」の要る移動手段しかないせいでもある。

これが「自動運転」によって自分が甄嬛を使わずに自分の家の環境に半ば囲まれたままで移動できるとなると、地域間の移動には、例えば自分の部屋と化すであろう「クルマ」の中で過ごす時間が増えるという現象が起こるだけである。どうかすると、今のワンボックスカーぐらいの大きさであれば、自室とほぼ変わらない生活空空間を構築することも可能だから、気分的には「自室にいたまま」で移動する、といった感覚に近くなるんではなかろうか。

そうした時、今は移動の困難さゆえに、どこかに定住するという形をとらざるを得ない我々の居住生活が、半ば、遊牧民化していくであろうし、テレワークのような働き方がもっと進めば、どこかに定着する必要すらなくなるし、仮にどこかに定着するにしても、それは「長い仮住まい」のような意識となっていくのではないだろうか。

そうした時に、「地域」の在り方、あるいは公的サービスの在り方というのはどうなるか、まだうまく想像できていないのだが、通過すること、あるいは仮住まいを対象とした税体制のもとに、水道・下水といったサービスは、使うたびごとの料金制のようになってしまうのかもしれない。

いずれにせよ、自動運転は移動手段の変更にとまらず、体制そのものを変化させるきっかけになるような気がしますね。

2018年1月4日木曜日

IoTの時代に「人間の判断」はどうなっていくのか

 

本日(2018.01.04)の日経新聞では

「1989年からの視線」に「書店にはいかないー流行より「私だけ」追究」でブロックチェーン事業のCIOの方が、書店に行かずSNSやFeedlyなどで情報を収集し本を買うことを取り上げ、「「インターネット」の進展も加わり、流行を追うのではなく、自分にあったものを自分のやり方で捜す傾向が強まった。」として、ロバート・キャンベルさんの言葉を引用して「違和感を持つものに触れ、異なる考えの人を理解する力をつけてほしい」と論評してあった。

また、

「ポスト平成の未来学」ではポストススマホとして、「ヒアラブル」に着目しつつも、「ポストスマホ時代に問われるのは一人ひとりの主体性だ。AIの守備範囲が広がるほど僕らは自ら考え、挑戦することを怠るのではないか」

と論評してあって、ここだけ読むと、日経の記者さんたちは、どうもAIの系統にはあまり良い印象を持っていない様子。

まあ、イーロン・マスクやビル・ゲイツなど、ITや先端技術に深く関係する人も懸念の意を示しているんだけど、ちょっとネガティブが過ぎるかな、という感じがする。というのも、私達が本にしろ何にしろ何かを選択するときに、自らの知識と考えだけで選択することはないわけで、それが知人と友人とか今まで読んだ本とかの世界から、不特定多数の意見を採取する機会と人間以外の機械知のようなものからのアドバイスをとることができるようになったのは間違いない。

その時に、どこにアドバイスをうける力点を置くかは、当然のようにかなり選択肢の幅が広がったことには間違いなくて、判断の正しさの当たりハズレは問うべきではあるが、アドバイスをとる相手方が生身の人間かどうかはんさほど問うべきではないので、と思う次第である。

IoTの対象は2030年にはIT関連機器全体の80%になる、とも言われていて、我々を取り巻くものがインターネットを介して、マシンや不特定多数の人々につながっていく時代は、そこに来ていると思うのだが、その時に、私達が物事判断する方法が、以前と同じ形で成立するはずもないように思えるのである。

むしろ、あふれるほどの情報が、五感全てを取り巻く中で、「人間」とはどうするのかを考えていくべきで、そこから逃げてもいかんと思うんであるが、如何か。

2015年6月16日火曜日

我々はクリーンエネルギー競争に大幅に出遅れているのかも

GizmodeでアメリカのAmazonが大規模太陽光を活用した社屋を建設するという記事を読む。

アマゾンが計画しているソーラー発電所は、毎年1万5000世帯に供給できるほどの規模で、2016年の運用開始を目指します。バージニアのソーラー発電所建設を手がけるのは、Community Energy。ここで作られたエネルギーは、アマゾンのデータセンターの一部の電力となります。アップル同様、将来的にはデータセンターが再生エネルギーだけで運用できればという考えですが、現在のところ目標達成度は25%。

ということらしいのだが、アマゾンといい、Appleといい、Googleといい、自社の業務の運営用(主にデータセンターが主のよう)に大規模の再生エネルギー(たしかGoogleは風力も使おうとしているよね)を使うことが常態としてきているような印象を受ける。

片や日本の状況はどうかと考えてみると、FITによる売電目的が主で、こうした自社、あるいは自地域のエネルギー自給のために再生可能エネルギーを使うといったことはまだまだこれから、という気がする。

エネルギー大国であるアメリカでこうした動きが強まりつあるのに、エネルギー小国である日本が、このままでよいのかな、と地球温暖化のみならずエネルギー安保の面でもどうかなー、と思う次第。

で、そうしたことは地方部ではもっと顕著で、都会部ほど電力の受け入れ環境が整っていないことは周知のことで、昨年末の九州電力の太陽光発電の受入留保は記憶に新しいところ。

個人的な感想をいえば、FITによる一括的導入の時期は一段落してしまった時でもあり、地域内の自給エネルギー化をそろそろ政策誘導しても良い頃ではないかな、と思っているのだが、いかがであろうか。

2015年4月14日火曜日

AIは人間の気付かないところで人間を超えるのかも・・・

Aiが仕事を奪ったり、とか人間を凌駕していくといったAIの負の側面を訴える論説をよく見受けるようになったんだが、いったいAIはいつ、どんな風に人間を凌駕するのかな、と考えていたのだが、はてなニュースの「プログロマーは将棋ソフトの思考を把握していない」

プログラマーは将棋ソフトの思考を把握していない。当たり前だが、開発者に理解できる手を指していたらプロ棋士には勝てない。しかし、どうしてコンピューターがそういう手を指したかという理由付けが欲しい。そのためには、思考ログの視覚化がキーになる」

といった記事を読んで、AIが人間を凌駕する瞬間はこんな感じかなと思った。AIの思考をプラグラムするにしても、おそらくはプログラマの思考をコピーするような形ではなく、思考の形態あるいは方法、仕組みをプラグラミングするといったことだろうから、将棋ソフトの場合と同様、走り始めたAIが何を、どう思考しているかなんてことは我々の考えの外で動いていて、なにかしらの彼らからのアクションにおっと驚いて、AIが実は人間の思考を超えていたことに気がつく、ってなところではないだろうか。

といっても、自らの生命や暮らしが破壊されない限り、脅威ってことは感じないもので、AIが人間を凌駕していることがわかっても、ぐずぐずと彼らの掌に上で暮らしていくってのがありうべきことなのかもしれないですね。

2014年12月7日日曜日

小川和也「デジタルは人間を奪うのか」(講談社学術新書)

ロボットに仕事が奪われる職業についての記事に触発されて、本書を読み始めた。

まずは、デジタルあるいはロボット技術の陽の面から始まる。ボストンの爆弾テロで左足を失った社交ダンスのダンサー ハスレット・デービスさんがバイオニック義肢で再び踊りの世界に復帰したという良いニュースから始まる。

ではあるが、デジタル絶賛の書ではない。むしろ、筆者がこうしたデジタルを中心としたコンピュータ、ロボット技術に詳しいがゆえの、デジタル社会の大きな潮流を少しばかり堰き止めよう、流れを阻害しようとする書であるといっていい

構成は
序章 デジタルの船からは、もはや降りられない
第1章 デジタル社会の光と影
第2章 モノのネット化で変わる生活
第3章 ロボットに仕事を奪われる日
第4章 仮想と現実の境界線が溶ける
第5章 脳と肉体にデジタルが融合する日
第6章 「考える葦」であり続ける
終章 デジタルは人間を奪うのか
となっているが、

例えば

子どもたちがソーシャルメディアを使うようになったことで、友達の反応を求める習慣がつき、その結果、子どもたちが「評判を求める行動」へと系統している

ことや

モノがネット化されることで、自宅の家電や自動車、自分が身につけるウェアラブルコンピュータがハッキングされる危険性を考えてネット化を考えるべき

あるいは

パソコンやスマホ、インターネットを。「外部脳」として頼ることによる前頭葉の退化

などなど、第1章から第5章までは、最新にコンピュータ技術、デジタル化の技術とその影の部分が中心。


そして最終章で

さらにデジタルは、人間の脳、肉体に接近、融合しようと邁進している。もし記憶の複製や永遠に止まらない心臓までをも実現してしまったとすれば、人間の死生観は根底から揺らぐことになる。・・・国家も経済も、仮想と現実の世界の境界線が溶けきってしまえば、仮想はもはや現実となり、現実は大きく塗り替えられることになる。

とし

僕は、デジタルが人間を奪うかもしれないという気色の絵あるさ、不気味さこそが、デジタルがもつ可能性の証だと考えている。そして、人間がデジタルと共存し、そこに豊かな未来がひらけることを信じている。

とあるのだが、どことなく否定的な論調を感じるのはしょうがないか・・。
ただ、なんとなくの予感ではあるのだが、本書で提示される、止まらない心臓、人間の足より性能の良い義肢、人工筋肉など、人間のフィジカルな部分の能力を凌駕する技術の開発が止まらないように、コンピュータ、ロボットなど、我々のメンタルあるいは暮らしに関わる分野に、デジタルがますます侵食し、覆っていくであろうと思わざるをえないのだが、いかがか?

2014年11月14日金曜日

農業の人材難に思う「ロボットで置き換え可能なもの」

最近
  「オックスフォード大学が認定 あと10年で「消える職業」「なくなる仕事」702業種を徹底調査してわかった」
「グーグルCEO あなたが、望もうが望むまいが現在の仕事のほとんどが機械で代行される」
「ロボット化で35%が失業する?「20年後」にどう備えるか」 
といった記事を読んで、AIのこととかヒューマノイドやロボットのこととか、あれこれと本を探してポチポチと読み始めている。

 そんな折、確か2014.11.11のNHKの朝のニュースで「茨城県 農業の担い手確保でベトナムと協力」と題して農業の人材難のことをとりあげていた。

 番組では 外国人技能実習生で中国から研修生を受け入れていたのだが、中国の経済発展で実習生の定着が難しくなった。 そこでベトナムに目をつけたのだが、安い労働力は多くの国で人材不足となっていて、人材争奪戦が始まっている ということが、茨城県の農家を例にレポートされていた。

 農業の人材不足、後継者不足というのは、以前から、あちこちで対策が必要と言われているのだが、地方の活性化と並んで、功を奏していないものの代表格であるだろう。 であるなら、ここで「人」の確保はあきらめて機械化にとどまらず、ロボット化を本気でやってみてはどうかな。

上記の記事の中でも主な「消える職業」「なくなる仕事」として「殺虫剤の散布の技術者」「造園・用地管理の作業員」もあげられていることでもあり、いわゆる「手作業の良さ」「セラピー」としての「農業」を残すにしても、「食料生産」としての「農業」はロボット化を考える時期なのかも。

 もちろん機械化とかはかなり進んでいることは承知の上で、「人」が得にくいならば「人」を使わない農業というやつを模索する時期なのかも、と思ったのである。

2014年10月29日水曜日

手話を音声に変換するデバイスがもたらす世界

「IRORIO」のサイトでこういう情報を発見。(元記事はこちら)
UNI」というデバイス。タブレット端末のような見かけだが、内部には手の動きを認識する最新のモーション・センサーが取り付けられており、なんとその場で手話を音声に変換してくれる
    (中 略)
「UNI」は、現在クラウドファンディングの「Indiegogo」にて12月20日まで資金提供を受け付け中。
残念ながら、日本語にはまだ対応していないようだが、未来の社会への投資だと思って、出資してみては?


健常者→障がい者の意思伝達の方法ではないので、障がいのある人にとっては、まだまだ、という思いもあるかもしれないが、ICTや新しいデバイスがキャズムを埋めようとしている試みとして評価していい。健常者→障がい者への対応、例えば、AIを使って音声を手話や骨伝導に変えるとかのことができるようになれば、双方の意思伝達のストレスが激減するよね、と思う。

こうしたことは、「言葉の問題」にも言えて、非英語圏の人間が言葉のハンデを超える手段として、英語に堪能になるということも選択肢ではあるが、google翻訳のように外国語を母国語に引きよせる取り組みがもっと加速されてもいいような気がする。それは母国語が英語でない我々が先導し、英語圏の人々へリリースするという動きが大事で、googleなど英語圏の方から非英語圏のほうへよってくる形ではイニシアティブを向こうにとられたままで、向こう側から必要の薄い言語 と思われれば、はいおしまいということにもなりかねず、それは中国経済の大躍進で日本語を学ぶ欧米人やアジア人が減ったという現象の再来が頭をよぎるのである。

このあたり、「外国語ができる」というのは一種の売り込み材料だから現実的にやる動機が・・・、ということにもなるんだろうが、「ワークシフト」で描かれていた、仕事や業務のグローバル化はさけては通れないだろうから、未来において、「日本語」を母国語環境とする人々が悲哀を感じないように、まとまった形で始まらないものか、と夢想するのである.。

2013年4月1日月曜日

家庭内植物工場に新たな自給自足経済を見た

Wired.jpの7月号の記事で、家庭内植物工場の記事を読んだ
詳しくは、こちらの記事を参照してほしいのだが、千葉県の柏の葉キャンパスエリアで家庭内実験が始まっているらしい。

家庭内で消費する野菜を自給自足できる規模なのかどうかはちょっと、この記事だけではわからないが、もし自給自足できるようになるとすれば、現在のように、消費すると生産が分断されている農業現場に意識的な意味でも新しい風が吹くのでは、と思う。

TPPなどの論争をはじめとして、農業の議論も、なんとなく居心地の悪いのは、我々の労働市場と消費と生活の場の調和をどうするかという議論が、なぜか工業生産と農業生産の対立軸として議論されてしまうところ。
もし、我々が自ら食べるものをある程度自給自足できるようになれば、もっと冷静に食の安全の話から農業生産の効率化の話までをトータルで語れるようになりはしないか、と思うである。

まあ、こうした小難しい話とは別に、野菜とかを自分で育てるっていうのは、別の意味でも楽しいものであるんですがね、特に私のような年配者には・・

2013年1月13日日曜日

Googleの再生可能エネルギー戦略は何だろう

Googleがアメリカ・テキサス州の風力発電プロジェクトに出資をすることにしたらしく、再生可能エネルギーに対する投資はますます増加していっている様子
 

 米Googleは現地時間2013年1月9日、テキサス州の再生可能エネルギープロジェクト「Spinning Spur Wind Project」に約2億ドルを株式投資したと正式発表した。出資の手続きは2012年12月に実施している。

 
 (中略)

 
Googleの再生可能エネルギーに対する投資は同社のエコプログラムに基づくもの、とされているのだが、さまざまなプロジェクトの裏には、計り知れない深謀遠慮があるのが同社の常なので、おそらくは単なるエコだけを考えているのではないだろうと思ってみたりする。
(最近のシュミットGoogle会長の訪朝はは、実はオバマ大統領の命を受けて、中国の影響を排除して、あの国とコミットしようとしているのだ、ってな与太ともなんとも言えない話だってあるんだから→「プリンストン発 新潮流アメリカ」のこのコラム
 
アメリカは資源大国でありながら、実は将来の資源枯渇を睨んで、自国の資源の乱開発を極力抑えているのでは、なんて謀略めいた話を以前何かで読んだ気がするのだが、Googleの再生可能エネルギー投資も、環境のことは当然だが、何か将来的な同社やアメリカのエネルギー戦略を含んでのことのような気がしてならない。同社の11件のエネルギー投資がすべてアメリカ国内向けのものなのかどうかは調べきれていないが、ネットで見る限り、多くはアメリカ国内のものように見受ける。
 
日本の商社をはじめとした再生可能エネルギーへの投資家たちは、日本国内だけではなく、海外も含め、貪欲に投資をまき散らしているように思うのだが、将来的なエネルギー安保やエネルギー自給のことを考えると、当座の採算性の課題はあろうが、国策的に国内向けの投資を最優先すべきだろうと思うのだが、いかがか。

2012年7月1日日曜日

再生可能エネルギーに早くも暗雲なのか

今日から固定買取制度が始まるというのに、朝日新聞デジタルで
 
「風力枠、もう満杯寸前 自然エネ買い取り、1日から」
 1日に始まる「自然エネルギーの固定価格買い取り制度」で、電力会社が買い取る予定の風力発電が買い取り枠の7割に達し、しばらくして埋まってしまうことがわかった。風力発電のための送電網が整わず、枠が増えないからだ。新制度は自然エネを増やすため、電力会社に買い取りを義務づけるが、風力は早くも頭打ちになりつつある。
 
という記事を見つけた。
 
風力発電に買い取り枠が設けられていたというのは、不勉強で知らなかったが、制度が始まってすぐさまこう、とは、なんとも暗澹たる想い。
 
風力発電自体は確かに電力供給の安定性やすでに稼働しているところが多いといったところで、特有の課題があるんだろうが、原子力発電所の稼働問題があれこれする中で、再生可能エネルギーの導入は電力会社に後は任せたというのではなく、政府としてきちんとしたフォローを望みたい。ただでさえ、再生可能エネルギーはブームが去ると「兵どもが・・・」といったことになりがちな分野だから、エネルギー転換を本気でやる気なら、きちんとした政策的なリードが必要と思うのだが、如何。

2011年12月11日日曜日

Web OSのオープン化に思う

engadget日本版にHPのWebOSのオープン化の記事が出ていた。
 
それによると
 
米国付け9日、新 CEO のメグ・ホイットマン氏は「あらゆる選択肢を検討した」結果、 webOS をオープンソース化することを明らかにしました。Palm に源流を持つ webOS は、ややこしい歴史を経て、外部の開発者と共に未来を目指していくことになります。
 
(中略)
 
オープンソース化ののち hp は手を引くというわけではなく、同社は引き続きコミュニティをサポートし、「分断を防ぐよう、良質で透明で包括的な管理を行う」方針。関連するアプリもあわせてオープンソース化されることが発表されています。ただし、ハードウェア面については、オープンソース下での開発が「次世代の端末やアプリ、サービスの基礎となる」と説明されているだけで、実際に同社や他の企業が webOS が動作するスマートフォンやタブレットを今後発表するかどうかは不透明です。
 
ということで、モバイルのガジェットをPalmから始めた当方としては、なんにせよPalmの遺産が消えなかったことは嬉しい。
 
記事にもあるようにオープンソースになったからといって、それが移植できるモバイル・ガジェットの製造・販売は今のiOS、Android全盛の世の中ではちょっと難しいだろうが、不幸なOSといっていいWebOSが闇に葬られず、PC版への移植の道など、すこしながらでも可能性が探れるようになったことは良いこと。
 
オープンソースになるといっても、Linuxがなかなか飛翔できないでいる状況を見ると、相当な数の開発者が揃っても、なかなかOSの隆盛には前途多難だとは思うが、WebOSの前途を祝福したい。
うーむ、今一度、DebianやUbuntuをいじってみようかしら・・・
 

2009年11月29日日曜日

事業仕分け雑感 ー こんなスパコン開発もあるんだね。

西日本新聞に長崎大のスパコン開発がゴードン・ベル賞を受賞したっていう記事を発見。まずは長崎大の関係者にお祝いを。

市販のGPUを使って、国内最高速を達成したとのことで、研究開発費は3800万と、事業仕分けのウン億円とは、桁が違う。

スパコンの様子は、写真を見ると、普通のマザボとグラボ(といっても、結構ハイエンドっぽいグラボだけどね)が並んでおり、そのチープさは、いつぞやTVで見た、国立の研究所の整然とした様子とはエライ違いである。

なんとなく大外から、普段目立たないランナーが、いつの間にかするするっとあがってきたっていうようなイメージだよな。

事業仕分けの「1位になる必要はない」ってな結論には異論があるけど、事業費をどれだけかけるかは、こうした目立たない技術研究の成果とかをよく考えてほしいところ。

特に、今要求されている事業に参画するのは、富士通だけだし、富士通支援じゃないのかとか、ベクトル方式をやめてスカラー方式だけにするってのことだが、ベクトル方式の開発にかけた金の検証はどうなってるんだ、なんて批判も世間にはあるらしい。

今回の事業仕分けは、ちょっと文系志向と生活委員・学級委員志向が強くて肌があわないところがあるんだが、丼勘定になりがちな科学教育予算に点検の光を当てたところは評価していい。今後の予算編成で、どんな結果になるか見ておきましょう。

でも、事業仕分けってのは、もともと予算のついていたか、予算要求されるものが対象だから、たとえば、このブログでとりあげるようなことやubuntuやLinuxがどうたらとか、ブックレビューで取り上げているようなミステリーや旅がどうこうといった、国の予算といったことに関係ない、一種の「辺境」の諸事には、およそ関係ないんだよな。

中原の戦乱も辺境には及ばないってことか・・・

2009年6月6日土曜日

Googleブック検索の行方

 Googleブック検索が、静かな動きをつづけているようだ。
2009.6.4の「Googleブック検索はデータ「非表示」を推奨--日本文芸家協会が方針転換へ」というC-netの記事によると
 日本文芸家協会が、ブック検索のデータベースから「削除」ではなく「非表示」を選択するよう方向をかえた

といったことらしく、正直なところ、アメリカの作家団体などと同じように、だんだんと和解というか、受入の方向にすすんでいくんだろうな、という印象を持った。
 Googleのブック検索自体は、まだまだ権利関係など精査の余地はあるだろうし、フランスのジャンヌネー氏が「Googleとの闘い」で取り上げたように、検索エンジンの優先度が英語圏中心になり、英語圏以外の言語圏の独自性が失われ、英語圏の価値観で埋め尽くされてしまうのではといった懸念(わが日本語圏は、「英語圏の価値観の支配下になる」というより、言語使用人口の相対的な少なさによる、インターネットの情報世界のガラパゴス化の方が、英語が不得手な私には案じられるのだが)は、これからも議論すべきなのだろうが、書籍データのアーカイブ化は進めるべきだろうし、料金や著作権保護の問題はあれど書籍・文書データのデジタル化も進めるべきだろうと思っている。

 ただ、欧米の動きに比べて、なんとなく動きの鈍い気がするのは、Google側にアジア語圏は後でいいや、という思いもあるのだろうが、それ以外にも、書物あるいは字が記された紙とか石といったリアルなものへの信頼感というか信仰のようなものがあるような気がする。そうしたあたりが、電子図書が流行りそうで流行らない一因ではなかろうか。 このあたり、データはデータと割り切って、それが紙に印刷された活字であろうが、ディスプレイに映し出されるドットの集合体である字であろうが、表出される意味には、変わりないだろう、と主張したいのだが、画面で読む文書は頭に入らない、という声にかき消されてしまう。
願わくば、ヒステリックなデジタル文書やデジタル化排斥の動きにつながらないよう、水が染み込むように、静かにデジタル化が進行してほしいものではある。