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2017年2月4日土曜日

「大学の学費無償化」のための教育国債ってのは・・・

Yomiurli Online(http://sp.yomiuri.co.jp/politics/20170203-OYT1T50001.html)によると
自民党は、大学などの高等教育の授業料を無償化した場合の財源として、使い道を教育政策に限定する「教育国債」発行の検討に着手する方針を決めた。
 高等教育の無償化は、安倍首相が検討に前向きな姿勢を示している。1月20日の施政方針演説では「憲法が普通教育の無償化を定め、義務教育制度がスタートした。高等教育も全ての国民に真に開かれたものでなければならない」と述べた。
ということなのだそうだが、これって返済の停滞とかで問題も出てきている貸与型の奨学金制度の姿をかえ、しかも返済を全国民に広げたものじゃないの、という疑問を覚えた。
もちろん、義務教育と高等教育の境界が曖昧になってきていて、大学全入時代もすごそこに来ているのかもしれないのだが、その経費を安易に「国債」として後世の世代の負担にもっていくというのはどうかな、と思う次第。

もともと奨学金自体、就職難などの影響で返済が困難になっている個人が増えたために、給付型やあるいは、地方や故郷へのUターンや地元就職を条件にした無償化などの動きが強まっていて、その方向には異論はないのだが、それを均質にしかも「国債」という全国民負担の形で行うことで、都会(東京都)と地方のアンバランス、東京集中の問題を助長するだけのような気がするんである(ここらは東京在住の人には異論があるよな、多分)。

日本全体の人口減少が言われる中、個人的には都会への集中、いわゆるスマート・シティ化をめざすんではなく、地方、田舎への偏在というかバラけた居住をすすめるべきで、ITの整備と合わせれば、そのほうが国土全体の有効活用と地域の力ひいては国力の担保にもつながると思っているので、ここは一律な国債による対応ではなく、地方への紐付き財源の提供と進むべきでないか、と妄想するんであるがいかがか。

2016年3月25日金曜日

Tayの停止で改めて「教育」の大事さを考えた。

Techcrnchで「MicrosoftがAIチャットボット、Tayを停止―人種差別ジョークで機械学習の問題点が明らかに」という記事がエントリーされていた。

Microsoftは昨日(米国時間3/23)、ユーザーのメッセージに返事をする人工知能ボット、Tayをリリースした。Twitterに加えてチャット・サービスのGroupMeとKikが対象だ。しかしMicrosoftはこのTayをスタート早々停止してしまった。問題はこの人工知能が侮辱的ないし人種差別主義的メッセージをそれと認識できないところにあった。

ということで、まあMicrosoftの技術者の方はお気の毒であるのだが、ある意味面白がって絡んできそうである、Twitterで実権してみようと思うのが無茶であったことの実証でも有る。

AIであるから知能や学習機能は高いといっても、ある意味赤ん坊状態であるのだから、世間の悪い風にさらされたら染まってしまうのも当然でしょ、と何やら昭和世代の青春ストーリーを復習しているような思いでもある。

なにより今回の事例で心せねばならないのは、AIであるからといって潜在的に善悪をわきまえているわけではなくて後天的にそれを知るのだ、ということで、古来からの「タブラ・ラーサ」の概念の正当性を思う次第でもある。

なんにせよ、これからあらゆる場所や機械に導入されて、私達の暮らしの多くの部分のイニシアティブをとるであろうAIであろうから、「教育」はしっかりしてほしいですね、と願うばかりである

2016年3月24日木曜日

「AIに奪われる職業」で「教育現場もAIに」と妄想してみる

最近再び、Aiに仕事を奪われる、という種類の記事(「AIに負ける仕事は公務員事務職、政治家、会計士、金融、記者・・・」(週刊朝日))がでていて、それによるとAiに負ける職業は経理や出張の手続きなどを行う事務職、ルーティーンワークが中心の公務員・秘書、会計士、税理士といった職業も負けてしまう可能性大であるそうだ。

当然、表題は大げさなところもあって、正確なところは、こうした仕事の多くの部分に単純作業的なところも含んでおり、そこが集約されて人数が減るだろう、ということであるのだが、学校現場で起こる教師が要因の事件などの記事を読む度に、学校現場でこそAIの積極導入が必要なのでは、といったことを感じる。

特に、生徒の病気などへの配慮不足や過去の事件の記録ミスなど、どうにも人為ミスとして言えないような事件がおこるたびに、である。

例えば、ごく最近の生徒の白血病と授業中の体調不良とが即座に結びつかなかったり、といったケースでも確かに教師は忙しいかもしれないが、生徒の個人的に重要な情報はきちんと把握しておかないとな、と残念な気持ちになりつつも、生徒全体の情報や様子に気を気張りながら「それぞれの個人の進度や学習環境にあわせて教える」という行為は、そろそろ「人」の手に余ってきたのかな、と思ってもしまう。

もっとも、この記事では「人口知能やロボット等による代替可能性が低い100種の職業」として「教員」はあがっているので、今のところ代替可能性は困難そうなので、教員の方々が安心して仕事に励んでもらっていいのだが、あわせてAIの記事をみると、大学教師などでもカメラ認識で生徒の反応とかを見ながら抗議の様子をAiなら適宜対応できるとかの技術開発も進みつつあるようはある。

囲碁の世界もAIがプロ棋士に勝つのはまだまだ、と言われていながら先日のような結果でもあったし、意外に早く、教師という職業のメインの「教える」という行為はAiに変えていき、「人格教育」とかカウンセリングとか人間がやったほうがいいともろの部分を「人」が受け持つといった役割分担が進むのかも、と思ってみるのである。

2015年6月7日日曜日

「大学を職業学校に」構想は「大学人」に支持されるのだろうか

Yahooのニュースで「大学を「職業教育学校に」・・19年度実施方針」という記事を読んだ

政府は、実践的な職業教育や技能訓練を行う高等教育機関として「職業教育学校」を設置する方針を固めた。

 高校卒業後の進学や、社会人の専門知識の習得を想定している。学校は新設せず、希望する既存の大学や短大などに職業教育学校へ転換してもらう考えだ。4日の政府の産業競争力会議(議長・安倍首相)で原案が示され、月内にまとめる成長戦略の柱とする。

 中央教育審議会で詳細を検討する。学校の種類などを定める学校教育法の改正など、必要な法整備を来年度中に行う。2019年度からの実施を目指す。

 少子化が進む中、学生の確保に苦しむ私大や短大などの選択肢として制度化する狙いもある。大学が学部の一つとして併設できるようにする。

ということらしいのだが、以前、大学関係の仕事に就いた経験でみると、大学の教員たちがどこまで支持して真剣に取り組んでくれるか、ちょっと「?」のところがあるな、と思う。
というのも、当時、大学のカリキュラムやら付随のシステムを検討していた時、職能教育とかビジネス関係の能力養成とかの課程への変更どころか追加ですら、結構な反発にあった経験があるからだ。

当時は秋田国際大とか金沢工業大とかの教育や就職教育が評判なときであったし、国立でも福井大学の就職対策が注目を集めだしていた時であったが、どうにも、「大学教員」たちの評判は芳しくなかった。

なぜかな、と考えてみて思い至ったのが、彼らの「リベラルアーツ」への信奉ではないか、ということであった。もともと大学教員自体は成績が良く、いわゆる「学力のある人」がなったもので、就職の道を歩まずに「学究」の道に入った人たちだから、「職に就く」こと自体に興味が薄いし、「研究」の方を実業の上においている。

そこに加えて「教養主義」を一とする「リベラルアーツ志向」が加われば、当然ビジネス向けの講座などへの評価は低くなるのが必然なのである。

このあたり、アメリカのように「教養」と「ビジネス」を全く別のものとしてとらえたり、ドイツのように「職業教育」への重視がある国とはちょっと違っているように思う。
そうした基礎があるところに「大学の職業学校」化がすんなり、大学側、特に教学側の協力がうまく得られるか、なかなか難しいところであるのでは、と思う次第。

個人的には「研究のための大学」と「実業を身につけるための大学」は分離していくべきであるし、多くの人は「実業を身につける大学」で事足りるのではと思っていて、政府方針に竿さう気はないのだが実効性がどうなるかな、と心配するのである。

2012年4月1日日曜日

4月1日に大学の9月入学のことを考えた

1年半ほど関っていた大学関係の仕事がようやく陽の目を見てきて、昨日でひとまずのお役御免。3月の半ばから、最後の詰めと飲み会や奥さんのインフルエンザなどであたふた、あくせくしていて、ブログの更新も滞っていたのだが、少し落ち着いたこともあって、この際、大学の9月入学についてぼちぼちと考えてみた。
 
もともとこの大学の9月入学の話、かなり以前から議論はされてきたのだが、しばらく前の東京大学の態度表明をきっかけに盛んに議論され始めたのだが、なにやら、最近の風情を見ると、9月入学にしないと、日本の高等教育は滅んでしまう、いやそうではないといった感じで、まあこの分野の中では喧しい議論が出ている。
 
で、どんな議論が出ているかは、たぶん、Googleさんのお世話になれば山ほど出てくると思うので、専門的な議論はそちらに任せて、なんとも無責任な意見なのだが、留学生がどうこう、といった議論で「桜の季節」という、日本人の心に馴染んできている習慣をここらでぶっつりきることもないんじゃないの、と思うのである。

海外からの留学生の受け入れ云々といったところで、いわゆる研究体制のしっかりした大学(難関なんとか、有名なんとか、といいたところだよね)を除けば、その学生の多くは日本人であるし、研究開発ということより、いかにちゃんとした社会人にして、実社会に送り出すかといったことに腐心している大学の先生たちがほとんどだろうから、その点で入学時期が4月だろうが9月だろうが、まあ、どちらでも、といったところが本音のところではないだろうか。むしろ、高校教育や義務教育と切り離されたところで9月入学になっても、4月から9月までの期間をどう過ごさせるかが、教育だけではなく、人生の送り方も含めて議論されないままに、大学人。経済人の議論だけで大勢を決してしまうのは、果たしてどうだろうか。

桜美林大の諸星 裕さんに言わせると、一律に9月入学にしなくても、セメスター制を工夫すれば、4月入学、9月入学の併存も可能らしいし、いいとこ、悪いとこ、ごちゃっとさせながら緩やかに良い方向を探っていくってのが、まあ、日本らしいってことではないだろうか。
 
で、最後に9月入学で思い出すのが、レイ・ブラッドベリの「たんぽぽのお酒」で主人公が親友と別れる場面で、夏の夕暮れが、なんともアメリカらしい別れが印象に残ったもの。やはり、日本らしい「別れ」と「出会い」といえば桜の舞い散る中ってのが一番雰囲気がでるのではなかろうか、と思うのである。
 

2011年7月27日水曜日

まずは応援 「小中学生、タブレット端末で"授業" 茨城で4年後から」

ASCII.jpの記事によると

 茨城県つくば市と筑波大学は、産学官連携プロジェクト「つくば2015:つくばが変わる、日本を変える」を開始した。
  (中略)
 具体的には、市内の小中学校全53校でインテルの授業プログラム「Intel Teach」を導入。授業にはタブレット端末を使用し、理科室や体育館など、校内で自由にネットワークに接続できる環境を構築していきたいという。

 ということで、お隣、韓国の「スマート教育推進戦略」の規模には敵わないにしても、デジタル化の流れが、小・中学校から始まることは喜ばしいことだと思う。

 教育のデジタル化については、経費の面もさることながら、私の感覚では、妙なアナログ志向が障害になっていることが多いと思っているので、子供の頃から、こうしたガジェットにまず慣れるところから始めるべきだと思うし、家庭の経済環境に関係ない、基礎的な教育環境として整備べきだと思う。

 なんにせよ、20年後、30年後、デジタルへの対応の面で、確実に国民的な素養、技量として、韓国と大きな差をつけられているであろうことが予測される中、こうした取り組みが
一地域だけではなく、全国的に広がって欲しいし、国も、こうしたあたりは仕分けだなんだといってないで投資をすべきではないだろうか。

2011年6月27日月曜日

矢田俊文「北九州市立大学改革物語」(九州大学出版会)

大学法人化にあわせた北九州大学の大学改革の当時の学長によるレポート。

大学改革というと立命館であったり、慶応の藤沢キャンパス、秋田県の国際教養大といった華々しいものが取り上げられることが多い。この北九州大学の改革はそうしたものとは軌を一にせず大学人による「地味な」改革である。
それは、「入学から就職まで一貫した大学」の実現であり、その手法として、教授会からの脱却は図るものの、若手教員を中心としたプロジェクトチームに内容を練らしたりといった、いわゆるトップダウンの改革とは異なる「大学人」による「大学人らしい」改革の歩みでもある。ただ、改革の内容としては、けして小規模なものではなく、大学全体のコンセプトに関わるものまで行っているあたり、「凡」が「非凡」を凌駕したものといっていい。

こうした改革そのものは、時間が経過すると改革の理念が風化してしまったり、「改革」そのものがドグマ主義に陥ったり、最後は、時間の評価に任せるしかないものではあるのだが、地方の公立大学の「大学改革」の成功例として、ひとまず認識していいだろう。

また、内容は「大学」をどう改革したかなのだが、大学という、プライドが高く、大きな変化を好まないところを改革した事例として、企業や公務における改革として応用できるものも多いものも多いのではなかろうか。

2011年5月5日木曜日

杉山幸丸 「崖っぷち弱小大学物語」(中公新書)

サルの研究をしていた筆者が、有名大学でもなく、国公立でもない、中部圏の小さな私立大学の人文学部長に就任して、そこでの経験をもとに、今、地方の、(筆者の言葉で言えば)弱小の私立大学を通して、少子化時代における大学の苦労と目指すもの、そして現在の大学生気質、教員気質を垣間見せてくれるのが本書。

構成は

第1章 変貌した大学
第2章 学生は大学に何を期待しているか
第3章 教員にとって大事なのか教育か研究か
第4章 経営者と事務局にとっての大学
第5章 学長の資格
終章  教育とは愚直に進めるもの

となっていて、目次を見る限りは、現在の大学教育全体を憂い、大学のあるべき姿を提言、っというような印象をうけるかもそれないが、そこは大学教授の習い性。内容的には、地方弱小私立大学のあれこれと、いくつかの大学改革の話と思って読めばいいだろう。
といっても、けして悪口を言っているわけではない。最近、本書にでてくるような「地方」「弱小」「私立」の大学の大学改革に携わらせてもらっていて思うのだが、大学改革といえば、立命館であったり慶応大の藤沢キャンパス、国公立でいえば東京工業大、北九州市立大といった数々の素晴らしい例があるのだが、いずれも素晴らしすぎる気がしていて、改革の熱意も、とてもそこまで達していない、フツーの小さな大学の話がもっとあっていい、と思っていたので、このあたり、諸星 裕氏のいくつかの著作と相通ずるものがあって、こうした著述がもっとあっていい。

ただ、「地方」で「小規模」でといった条件であるがゆえに、その「改革」は、それに内在する課題をはらんでいることは間違いない。

それが、本書のいう「Eより下のFランク大学」の出現であり、大学進学率の上昇、いわば大学全入時代とも言われる中での大学で何かをするわけでもない、「親が行けと言ってからきている」「友達がみんな行くから来た」といった学生の増大であり、学生獲得に頭を悩ませたがゆえの大量の留学生の受け入れ、であり、それにもかかわらず一向に変わろうともしないが日常化している大学の姿である。

さらに、"あえて"付け加えるとすれば、弱小大学であるにもかかわらず「教育」より「研究」が大事と思っていたり、学生や世間より「教授会」の決定の方が優先と思っている、昔ながらのタイプの教員たちであり、十年一日の勤め方を良しとする大学事務職員も、やはり残念ながら数多くいる、といったこともある。("あえて"としたのは、筆者はやはり「大学教員」の人なので、このあたりへの論調は弱めになっているので、あえて書いておく)

そして、この「大学改革」の問題は、「大学」というおよそ変革とは縁の薄そうなエリアにおける変革の話であるがゆえに、それは、我々が生活する「地域」の変革の話と、勤務する多くの「会社」の変革の話とけして無縁ではないと最近思い始めている。いわゆる「大学改革」ということで語られる話が、数多くの企業の変革と業務改革の話と共通する話題が多いのだ。「頭の固い上層部」「危機感の薄い職場」などなどは、ビジネス書によくでてくる面々である。

ひょっとすると、プライドが高く、非常に固い、「大学」の組織ていうのは、教育や研究という様々なヴェールを取ってみれば、業務改革の格好の対象物かもしれませんな。

2011年4月20日水曜日

諸星 裕 「大学破綻」(集英社新書)

ミネソタ大学を経て、桜美林大学で大学改革を教える諸星 裕氏の題名は大学破綻となっているが「大学改革」についての著作。


同じ筆者の「消える大学、残る大学」と一部重複するところはあるが、今現在では、両書とも、「わかりやすい」大学改革についての著述といえる。
構成は

 はじめにー日本の大学の致命的欠陥
 第1章 崩れ始めた日本型「大学ビジネス」
 第2章 教育力は再生するか?ー脱「旧帝大モデル」という活路
 第3章 タイプ別・日本の大学それぞれの「いま」
 第4章 受験生はなぜ「大学選び」を謝るのか?
 第5章 大学から日本がよみがえる
 おわりにーEU「ボローニャ宣言」が示した大学の未来

 となっていて、「大学が倒産する」時代が到来していることの警鐘を鳴らすとともに、そうならないための処方箋について述べていくのが本書の主眼。
筆者の目指す大学づくりとは、あえた簡略に言うと中途半端な研究大学になるのではなく、小規模でいいから教育をきちんとする大学になりなさい、ということにつきるのではないか。大学は都会にある必要はない、というところや金沢工大や日本福祉大の実例をあげる時の好意的な記述がそれを推察させる。


 私自身、昨年から大学改革に携わらせてもらっているのだが、どうも、大学の教職員が教育に徹底しない地方の小規模大学はうまく行かないことが多いし、地方の小規模大学ほど、教職員が妙に「教育」にこだわっているような気がしてならない。

 その一つの象徴が全入時代を明確に意識した「勉強のできない子」を育てられる大学であろう。そして、そうした少子化時代に必死になって対応していこうとする大学の筆者の目は温かい。

 ここで、本書の最終章、「第5章 大学から日本がよみがえる」の最後のところを引用して、レビューの締めとしたい。


大学という古い体質の組織体は、・・・自身では本当に変わらない、変わることができないのです。しかし、そういう体質をもった大学界であっても、少子化という環境変化に産業界からの外圧が加わることが、変革に向けた大きな後押しになるのではないか、と私は確信しています。



「大学を変える」ということに対する著者の熱い思いを感じる一節である。

2011年3月29日火曜日

「学校」というものの原初的な姿

GIGAZINEの「先生やめないで!」、教師の一時解雇を止めるため3年間ためたお小遣いを全額寄付した小5女子
 
予算削減のために数千人の教師に一時解雇通知が送られたことを知り、自分を教えてくれている先生たちが辞めないで済むようにと、自分がコツコツ3年間ためてきたお小遣いをすべて寄付した小学5年生の女の子が現れました。
彼女の全財産では、残念なことに教職員のポスト1人分すら確保することもできない額だったのですが、彼女の誠意に心動かされた学生や保護者たちが募金を集め、2万ドルもの資金を集めることができたそうです
 
というのは、アメリカのカリフォルニアの話。
 
ひょっとすると、これが「教育」あるいは「学校」というものの原初的な姿、出発点なのかもしれない。
 
「何かを教えてもらうお礼に、自分食べ物を節約して届ける」ってなことが学校の始まりのような気がしていて、こうした直接的な結びつき、直裁的なつながりが、これからの教育を再生させる上で大事なことかもしれない。
 
でも、こうやって支援してもらえる先生ってのは、先生冥利に尽きますよね。

2006年5月1日月曜日

塾や補習は「必須」?

Yahooで5/1に見つけた記事

文部科学省は1日までに、2007年度から団塊の世代の教員OBらを活用し、放課後や土日に無料の補習を実施する方針を固めた。経済的理由から塾に通えない子と通える子の間に格差が広がるのを防ぐことが狙い。全国約1万カ所で進めている「子どもの居場所づくり」の中で行い、07年度予算の概算要求に盛り込む。
 教育関係者には「学校での教育充実に予算を使うべきで、塾代わりの補習は本末転倒」という意見もあるが、文科省は「学校の教育とは役割分担できる」としている。

いろいろ意見はあるだろうが、家の家計が苦しくて、塾に通えないのだが、勉強したい子がいるのなら、助けてあげれば良いような気がする。学校への教育充実云々は正論なんだろうが、ちょっと教条っぽすぎる感が強い。
「蛍の光、窓の雪」ばりに努力する姿は、先生方のお好きそうなシチュエーションなのだが、どうしたのだろうか。
もっとも、政府のお声がかりで、無料の塾代わりの補習教室を開いちゃうと、塾に行くか、補習がないと学校の授業だけでは、学習の「格差」が広がってしまう、と公式に認めちゃうような気がするのだが、その点はいいのかなー、と思ってしまうのである。

2006年1月27日金曜日

大学入試と合否電報

Japan.internet.comで大学入試に関してこんな記事を見つけた。

「インターネットコム株式会社とエクスプレスリサーチが行った入試とインターネットに関する調査によると、受験生とその家族の9割近くが、入試問題速報をインターネットで閲覧したいと思っていることがわかった。
調査対象は、大学や専門学校の受験生やその家族、345人。
調査によると、入試問題の解答・解説・分析をインターネットで閲覧したい、と回答したのは、全体の89.6%(309人)にも及んだ。また閲覧する機器としては PC が97.4%(301人)と、携帯電話の1.9%(6人)を圧倒的に抑えた。
一方、入試合否の通知を受ける手段は、トップが「手紙やはがき」で34.2%(118人)、ついで「PC メール」27.0%(93人)、「電報」14.2%(49人)、「携帯メール」12.8%(44人)だった。]

というもの。
入試問題の閲覧をインターネットで、というのはネットで見る容易性と、紙とかでもらうのであれば、きっと、大学まで出向いたりとか、何か別の小難しい申請をしたりとかが省けるのではないか、という心理が反映しているのかもしれないが、おっ、と思ったのは、入試合否の連絡の最上位が「手紙やはがき」というところ。PCメールと携帯メールを合算すれば、39.8%になるので、「メール」という選択肢であれば最上位は変わったかもしれないが、いずれにせよ、手紙派は多い。
やはり人生の重要イベントは、「紙」ということなのかーーと思いをはせたところで、「電報」という選択肢があるのに気づく。