2014年7月31日木曜日

紫蘇の醤油漬け

庭に紫蘇が大繁殖していて、刺身のツマやそうめんの具というのも消費に限界があって、なにかないものかと探していると
この【簡単レシピ】「シソの醤油漬けが簡単な上に冷や奴や白ご飯にマッチして美味い!アレンジが楽しい!!」のエントリーを発見。よく探すとクックパッドでもいろいろ紹介されている逸品であった。
 
で早速、真似をする。
 
1 シソを洗う
2 シソを容器に入れる
3 調味料を適当に入れる
 
とあるので、こうした時の習い症で、勝手に翻案。
 
調味料として醤油をヒタヒタ、みりんを少々。醤油は途中からたまり醤油も使用。そして、シソとシソの間にスライスにんにく、わさびをたっぷり溶かし入れ、という製法で作成。
 
シソが少なくなれば、また摘んできて漬ける、といった感じで漬け汁が濃縮していくほど旨味が出る気がする。
かれこれ1週間ほど漬けては食し、食してはまた漬けるという繰り返し。熱い白飯にはもちろんいいのだが、なによりお薦めは「冷や奴」である。
 
一晩置けば食せるのだが、漬け込んでいったほうがニンニクの香りがついて、個人的には好み。
もっともかなりにんにくの匂いがあるの気に入られたい女性に会うときはご注意を。
 

2014年7月27日日曜日

お薬手帳の電子化・クラウド化を希望する件

日経コンピュータで「ソニーとパナソニックが電子お薬手帳を展開、異分野参入の狙いとは」という記事。
ソニーとパナソニックが、電子お薬手帳ビジネスに乗り出している。ソニーは2014年7月から、2013年秋から試験運用している「電子お薬手帳サービスharmo(ハルモ)」の運用地域を拡大。
パナソニックヘルスケアは7月15日に、電子お薬手帳を運用できるサービスを、「ヘルスケア手帳」の名称で調剤薬局に向けて発売した。
 
ということなのだが、個人的には電子化を加速してほしいのはもちろん、あわせて病院の診察券や保険証も含めて電子化を進めて欲しいところ。
 
なにせ、齢も重ねると持病も増えてきて、あちこちの病院に定期的に通院するようになってきているのだが、いつも面倒なのが、それぞれの病院の診察券と保険証とお薬手帳の持参。特に診察券とお薬手帳は忘れてしまいがち。
忘れたところで総合病院でなければ、カルテだしに時間をくったりなどのことぐらいなのだが、いちいち「お持ちになってますか?お忘れですか?」といちいち聞かれるのも面倒で、しかも違う病院の診察券を出して苦笑されるのもしゃくである。
 
ということで「診察券」+「保険証」+「お薬手帳」という感じで一つのカードなりにまとめれるようになると嬉しいんですが、どこに頼めばいいのだろう?誰かやってくれないかな。
 

2014年7月26日土曜日

ミョウガのチアリーダー

暑さはまだこれからなのだが、地中的には夏も過ぎつつあるのかもしれなくて、我が家のへっぽこ菜園の遅成りのミョウガが出始めた。
今年は昨年よりも雨が多いので、ミョウガの成長も良く、そうめんの季節に間に合ったという次第か。
で、その中に先っぽに芽が出ていて、チアリーディングしてくれているようなミョウガを見つけたのでご披露。


2014年7月22日火曜日

京丹後市の立岩

京丹後市で会議があったので、ついでに立岩のあたりまで足を延ばしてみた
 
山陰の松島や天橋立のあたりとは似ているようで少し違って、のんびりとした風情が漂う
 
川がとろとろと流れているせいか、とりわけ時間の流れがないように感じる。
海水浴シーズンではあるのに、人一人いない砂浜海岸というのは、なにか取り残されたような感じが漂って寂しい限り。
 

川にかかった橋の上から見るとこんな感じ。


ただ、観光、観光と言わない頃の景勝地というものは、普段はこんなものであったのかもしれなくて、文人墨客、俳人あたりはこうしたうらぶれたところをかえって好んだのかもしれないですね。
 

ひさびさに「亀の手」

先日、海岸ベリを遊覧船で巡ったときに、岩にびっしりついていて、そういえば久しく食していないな、と思っていたら、家人もそう思ったのか、本日の食卓に。
 

最初に食べた人は本当にエライものだと思うが、案外イカもの食いは人の習性なのかもしれなくて、そう考えれれば、ホヤとか納豆とか、普通なら食わなかっただろ、というものが普通に食されている。
 
食に飽いてこうしたものを食すのではなくて、とにかく変わったものを求めるっていうのが、人の性なのかもしれないですな
 

2014年7月13日日曜日

AV-LS700の設定の件 その4

思うような設定ができず、いい加減頭に血が昇っているAV-LS 700の設定なのだが、「ファイル共有」の設定で判明したことがいくつか。
 
マスタブラウザがないとファイル共有機能が使えないので、ネットワーク内でPCガ少なくとも1台は動いていないとダメなことは、価格COMのHPでも紹介されているのだが、どうもそれだけでは無理で、ワークグループの設定もからんでくるよう。
 
というのは、偶然娘が自分のPCを立ち上げている時に。AV-LS700のファイル共有を立ち上げるとそのPCを認識した、という次第。早速、手持ちの動画鑑賞用に使っているノートPCのワークグループ名をWORKGROUP(これはWindowsのデフォルトの設定だよな)にすると、まあ、「目出たく」認識されたという次第。もっともログインの認証ができないので、万事解決というわけではないし、相変わらず裸のNASは認識しないので、これで快適に使えます、ってなわけではない。さらにいうと、ワークグループ名の任意設定ができず、デフォルトの名前でないと認識しないっていうのもどうかと思う。
 
ここ1〜2週間、AV-LS700の設定をあれこれするのも疲れてきて、総評すればけして使いやすい機械ではないという印象。
まあ、TVでisoファイルが再生できる機械が1万円程度で手に入ると考えれば、まあ、そんなものかと思うのだが、なんにせよ設定が手強い機種であることには間違いない。試行錯誤を厭わない人むけであるな。

AV-LS700の設定の件 その3

DLNAサーバー機能はあまり悩まずに認識するし、ファイル表示もするのだが、なにせ再生環境がかなりお粗末。当然DLNAなのでisoファイルの再生はDLNA自体が対応していないし、本機特有の設定らしくMPEG4もファイルによってはダメなものもあり。
 
なおかつ、VOBファイルもダメ・・・。これは痛いな。ファイル共有機能が使い物にならない状態ではネットワークプレイヤーとしては、せめてVOB対応ぐらいはしてほしいのだが、これではネットワークプレイヤーとして使い物にならない状態。
 
古いTVでアクトビラとかYOUTUBE対応になるのは便利なのだが、今のところ、当方の環境としては、USB接続のiso再生機としての使い道ぐらいしか特筆するものがない。
 
ファイル共有機能が強化されれば、ネットワークプレイヤーとして使えるのかもしれないが、お値段の割に、うたい文句は別にして機能が実質お粗末な気がする。あまりお買い得ではないなと実感。

2014年7月12日土曜日

AV-LS700の設定の件 その2

ファイル共有がかなり不調というか、全く機能しない状態なのでしかたなくUSB接続でHDDをつないでみる。
 
ISOファイルは1.5Tと2.0TのHDDに溜め込んでいて、今使っているHDDケースは1本のUSB
で2つとも接続できるものなのだが、無事、2つとも認識してくれる。
 
ファイルの表示構造はあまり誉められた構造ではないのだが、まずあず英語表記のものなら文字化けしない。日本語表記のものはつぶさに見る時間がないので後日検証することにする。
 
isoファイルは特段のトラブルもなく再生。
送るボタンで一応スキップもできる。Chapterも表示されるのでUSB接続の場合はまずまず使えそうな気がしてきた。
 
ただ、メデイアサーバーとして動かしてみたのだが、HDDが2つ繋がっているので×と蹴られる。1つでないとダメみたい。

2014年7月11日金曜日

AV-LS700の設定の件

溜め込んでいるDVD-isoのファイルをつれづれ、暇な時にみたい、それもTVで、と思い立ち、少々古い機種ではあるのだが、I-O DATAのAV-LS700を購入した。
 
最後までBuffaloのLT-V200と迷ったのだが、こちらの方がDTCP-IPに対応していているので動画再生には何かと融通がきくだろうと思った次第。
 
初期設定は既に最新のファームウェアが導入されていたりしたのでどうともなかったのだが、その後の設定が難物で、いまだに試行錯誤中である。
 
まず「ファイル共有」機能を選択しても、「サーバーが見つかりません」状態のまま。決定ボタンを何度か押すと「しばらくお待ちください」になってそのまま・・・という現象。
 
使っているNASは「裸族のNAS  CRIB35NAS」で当然サポート対象外であるので、大口は叩けない(当然、玄箱DebianのSMBサーバーごときは認識してもらえないものと諦めてます)のだが、Windows7 64bit機でファイル共有設定をしても同じ状態なのが解せない。
 
ネットにはWindows7 64bit機で接続できないという記事も散見するのだが、なんとも理由がわからないところ。マニュアルに沿ってpingを打ってみると反応しているようであるし、NASのメディアサーバー機能には対応するので何かしら認識はされているようなのだが・・・
 
ひょっとしてワークグループ名をデフォルトから変えている(WORKGROUPのままで使うのが一般的なんだろうか?)のでそのせいか、とも思ったのだがAV-LS700にはワークグループ名を変更する機能が見当たらない、ときている。
 
で、ここ2日間あれこれしたのだが、少々頭に血が上ってしばらく中断。USB接続のHDDからはisoファイルも再生できることがわかったので、しばらくそうして使おうと思うのだが、これでは "ネットワーク"メディアプレーヤーではないよな・・・
 

2014年7月6日日曜日

蔵前仁一 「あの日、僕は旅に出た」(幻冬社)

本書の「はじめに」によれば、氏の職業は「文章書き、編集者、グラフィック・デザイナー及び出版社社長」であるそうなのだが、アームチェア・トラベラーを自負する私にとっては氏の処女作である「ゴーゴーインド」は読み遅れたが、「旅、ときどき沈没」に始まり、「旅で眠りたい」「世界最低最悪の旅」などなど、アジアを中心とするバックパッカーの貧乏で少しヤバくはあるが蠱惑的な旅の話を読ませてくれる旅行記の語り手という存在。

ただ本書は「旅の記録」というわけではなく、その裏手の話。

構成は

第一章 インドへ
第二章 アジアへ
第三章 再びアジアへ
第四章 「遊星通信」の時代
第五章 「旅行人」の時代
第六章 転機

となっていて、インド旅行から「インド病」にかかり、それをきっかけにデザイン事務所を退職、旅行記作家+出版業、そして再びの旅行記作家へ、という氏の半生記である。

半生記といっても、そこは氏らしく、我が来し方を語るといった風情ではなく、旅行が好きで、旅行で見知った様々な地を人に教えるのが好きで、といったバックパッカーよろしくの悪戦苦闘の話でもある。

思えば、蔵前仁一氏や下川裕治氏などの旅行記と日本人の海外旅行の隆盛とが重なっていて、彼らの旅行記の出版がとびとびになっていくにつれ、日本人の海外旅行も、よく言えば落ち着いてきて、今の内向きな性向が顕著になってきた気がする。

氏の言う

初めからこうしようと思って始めたことはなにもない。・・・
自分がおもしろそうだなと思ったことにただ一歩を踏み出す。うまくいかないときもあればいかないときもある。それだけのことだ。(P350)

という風情で盛んになった日本人の旅行熱も熟成してきたのと、インターネットを初めとした他の「旅」も出現し、多様化し断片化する世界へ到達したということか。

総ずれば、路地裏から見たバックパッカーの旅行記始末といった感じで、あの頃の旅行記のいかがわしいワクワクさは薄れているが、あの頃の熱気を懐かしく思う人には、自らの思い出を呼び起こしながら読むと味がある、「違う意味での旅行記」である。

ジェイソン・フリードほか「強いチームはオフィスを捨てる」37シグナルズが考える働き方革命 

ノマド論争が一頃大流行りしたのだが、どうも本書をその関連性でとりあげるのが嫌であった。
というのも前者がともすれば「組織への帰属論」にあけくれしているように思えたのに対し、この「リモートワーク」は、より良い人材を集めて、効率的に仕事をするのに集合的なオフィスワークは必要か、ということを、よりプラグマティックに論じたものに思えていたからだ。

それは本書の構成でみてとれて、構成が

イントロダクションーオフィスのない世界
リモートワークの時代がやってきた
リモートワークの誤解を解く
リモートのコラボレーション術
リモートワークの落とし穴
 リモート時代の人材採用
 リモート時代のマネジメント
 リモートワーカーの仕事スタイル

となっていて、オフィスの必要性を問う最初のイントロダクション以外はリモートワークをどう実現するか、あい路はなにか、といったところが中心となっている。

本書で主張されているように、仕事が集まってでないとやれないというのはちょっと幻想に近いのだが、「リモートワークをうまく運営するコツは、孤独にいかに陥らせず組織として動いているなのだ(リモートワークのコラボレーション術、リモートワークの落とし穴)」というあたり、リモートワークを地理的に離れ、時間的に分散した優秀なワーカーをいかに集め、いかに集中させて仕事をさせるかという文脈で考えないといけないし、リモートワークをライフスタイル論と切り離すことによって、より多様な人材を、より効率的に使う技術論として考える可能性もあるように思う。

かなり以前から新しいワークスタイルとして注目されているリモートワーク、ノマドワークのスタイル(ここではライフスタイルとしてのそれではなく、ワーキングスタイルとしてのそれね)なのだが、なかなか主流になっていかないのは、当然、工場とか試験検査とか「現場」でないと無理な仕事があるのもちちろんなのだが、性向として「孤独」ではなく「集団」での行動が好ましいと思う生物学的な性向が起因しているのかも、と思う次第で、とりわけ欧米人より集団志向の強いと言われている日本人は苦手とするところなのかもしれない。

しかし、基本的に距離的に離れていても、擬似的な「集団」、「組織化」を行うことは今の技術をもってすれば可能と思うし、人の居住の「集中化」を避け「分散化」を模索していくことが日本が都市国家としてではなくエリア的な国家として存続していくための必須のように思う。
とりわけ、これから少子高齢化が進み、高齢者、介護をする女性などなど様々な環境をもつ人材をいかに活用するか、ということが課題となってくる今後の日本で、労働集約的、集合労働的なワークスタイルでなく新しい可能性を探っていくことが必須となっていくと思うのだがどうだろうか。

加齢と文章の長さ

この最近、どういう気まぐれか「俳句」というものになにやら興味がわいてきている。
といっても、どこかの結社に入ってどうこうというレベルではまだなく雑誌やら入門書やらをぽちぽつと読んでいkるぐらいなのだが、俳句に興味を持った原因ともいえるのは、文章の長さに対するこらえ性がなくなってきていることではないかと。
 
どうも年をとるにつれ、そうなってきている気がして、仕事の上でも長い文章に我慢がならなくなって短いセンテンスでの表現を求めたりすることが多くなってきているし、どうかすると味も素っ気もなく、事実と分析だけを表記した箇条書きが仕事の文章表現で最適だ、とすら思ってしまうことが多い。
 
で、短い文章をなぜ好むようになったのは体力の衰えあるいは知的持続力が衰えてきているのでは、といったところである。
 
文章が長い、あるいは話が長いというのか特に年齢に関わりなく、その人の特性みたいなものと思うが、こちらが長さにこらえ性がなくなるのは、「長さ」の中に含まれている冗長さ、寄り道の多さに体力的についていけない。文章を読んでいるうちに継続して思考するのに飽きるというかヘトヘトになってくるのである。運動的な能力はトレーニングでカバーできるところもあるのだろうが、思考の持続性を鍛えるのはいったいどうしたらいいものか見当もつかないまま、五七五の名句にほう、といったりして、短いセンテンスに囲まれて暮らそうとしてしまうのである。
 
はてさて、よいことか悪いことか・・