2018年1月23日火曜日

自動運転は、地域と地域の境界をなくしてしまうのかもしれない。

 

Twitteで、箕面2.0氏の「自動運転になって異動という概念すらなくなり人は都市から都市へと頻繁に行き来するようになる」という落合陽一氏の本の引用をみつけ、「うむ」とうならされた。

今、地域と地域の間を隔てているのは、「距離」であることは間違いない。しかも、それは空間的な距離というよりも、移動して他の地域に行くには、自分で運転するか、交通機関で行くという、「手間」の要る移動手段しかないせいでもある。

これが「自動運転」によって自分が甄嬛を使わずに自分の家の環境に半ば囲まれたままで移動できるとなると、地域間の移動には、例えば自分の部屋と化すであろう「クルマ」の中で過ごす時間が増えるという現象が起こるだけである。どうかすると、今のワンボックスカーぐらいの大きさであれば、自室とほぼ変わらない生活空空間を構築することも可能だから、気分的には「自室にいたまま」で移動する、といった感覚に近くなるんではなかろうか。

そうした時、今は移動の困難さゆえに、どこかに定住するという形をとらざるを得ない我々の居住生活が、半ば、遊牧民化していくであろうし、テレワークのような働き方がもっと進めば、どこかに定着する必要すらなくなるし、仮にどこかに定着するにしても、それは「長い仮住まい」のような意識となっていくのではないだろうか。

そうした時に、「地域」の在り方、あるいは公的サービスの在り方というのはどうなるか、まだうまく想像できていないのだが、通過すること、あるいは仮住まいを対象とした税体制のもとに、水道・下水といったサービスは、使うたびごとの料金制のようになってしまうのかもしれない。

いずれにせよ、自動運転は移動手段の変更にとまらず、体制そのものを変化させるきっかけになるような気がしますね。

2018年1月18日木曜日

移住定住には「雇用」と「愛郷心」あるいは「地域の魅力」のどれが有効か

 今日は、仕事の関係で、地方公共団体の首長さんたちの移住定住についての取組について話を聞く機会を得た。

 
オーソドクスなところでは「働き場所、企業の紹介と言う昔ながらの話」もあり、「出ていく者、若い人の都会志向は止められない。むしろ、都会に出ても、仕事とか都会が自分に合わないと思っている人をどうサポートして。故郷の良さを伝えて、帰住につなげるかだ。」といった話など、多種多様。
 
先日レポートした「地域再生の失敗学」あたりからは、だから田舎の公共団体は、とお叱りがきそうなのだが、「地域の魅力」を増すことが基本であることは分かりつつも、「均質化」が多くの自治体で進んでしまっているのは事実で、「雇用の確保は意味がない」とまで言い切るのは、正直切ない。
 
さらに、「均質化」の先に、それぞれの生まれ故郷なりの馴染みというか、心地よさが田舎の場合存在しているのは間違いなくて、そこが「愛郷心」というか生まれ育ったところへの愛着を産んでいるのは間違いないと思う。ただ、その「愛着」というものが、残念ながら微かなものになってしまっていることも事実で、それ所以に若者が帰ってこない理由に「雇用」を上げてしまう気持ちもわかるのである。
 
ただ、人が来る所、人が来たがる所に「雇用」が生まれていく事も事実。地域の魅力が薄れて帰りたい故郷でなくなったことを、「雇用がない」という言葉で誤魔化しているというのも事実であろう。
つまるところ、腰を据えて、「濃い」地域の魅力を創り上げ、それを「薄い関係」の慣れている若者向けにいかに薄味にアレンジできるか、ってなことが大事かもしれんですね。
 

2018年1月4日木曜日

IoTの時代に「人間の判断」はどうなっていくのか

 

本日(2018.01.04)の日経新聞では

「1989年からの視線」に「書店にはいかないー流行より「私だけ」追究」でブロックチェーン事業のCIOの方が、書店に行かずSNSやFeedlyなどで情報を収集し本を買うことを取り上げ、「「インターネット」の進展も加わり、流行を追うのではなく、自分にあったものを自分のやり方で捜す傾向が強まった。」として、ロバート・キャンベルさんの言葉を引用して「違和感を持つものに触れ、異なる考えの人を理解する力をつけてほしい」と論評してあった。

また、

「ポスト平成の未来学」ではポストススマホとして、「ヒアラブル」に着目しつつも、「ポストスマホ時代に問われるのは一人ひとりの主体性だ。AIの守備範囲が広がるほど僕らは自ら考え、挑戦することを怠るのではないか」

と論評してあって、ここだけ読むと、日経の記者さんたちは、どうもAIの系統にはあまり良い印象を持っていない様子。

まあ、イーロン・マスクやビル・ゲイツなど、ITや先端技術に深く関係する人も懸念の意を示しているんだけど、ちょっとネガティブが過ぎるかな、という感じがする。というのも、私達が本にしろ何にしろ何かを選択するときに、自らの知識と考えだけで選択することはないわけで、それが知人と友人とか今まで読んだ本とかの世界から、不特定多数の意見を採取する機会と人間以外の機械知のようなものからのアドバイスをとることができるようになったのは間違いない。

その時に、どこにアドバイスをうける力点を置くかは、当然のようにかなり選択肢の幅が広がったことには間違いなくて、判断の正しさの当たりハズレは問うべきではあるが、アドバイスをとる相手方が生身の人間かどうかはんさほど問うべきではないので、と思う次第である。

IoTの対象は2030年にはIT関連機器全体の80%になる、とも言われていて、我々を取り巻くものがインターネットを介して、マシンや不特定多数の人々につながっていく時代は、そこに来ていると思うのだが、その時に、私達が物事判断する方法が、以前と同じ形で成立するはずもないように思えるのである。

むしろ、あふれるほどの情報が、五感全てを取り巻く中で、「人間」とはどうするのかを考えていくべきで、そこから逃げてもいかんと思うんであるが、如何か。