2009年6月30日火曜日

アジアは、元気だ・・・

ロイターのサイトでこんな記事を見つけた。
アジアの大半、不況でもぜいたく重視
というタイトルで

アジア16カ国・地域の3万3000人を対象とした同調査によると、86%は金銭面での不安を感じており、80%は将来のために貯金をすると答えた。同時に、回答者の82%は現代社会のストレスに打ち勝つためには、ぜいたくをすることが1番だと考えており、リラックスの方法には、家族と過ごす時間、短期間の休暇、スパのトリートメント、ちょっとしたぜいたく品の購入などが挙げられた。
 また、76%は将来を楽観視しており、40%は来年は家計が改善すると考えていた。

といった内容で、なんかアジアは、まだまだ楽天的で、元気だな~、と妙な安心感を覚えた。
南国のすこーんとした青空が連想されて、なーに、アメリカがどうなろうと、お天道様と米の飯はついてまわるさ、なんてことを大声で言いたくなってしまう。
こうしたアジアの楽観というのは、まあ守るべきものが少ない、あるいは、これから何かをつくればいいんだ、という若い発想というか、刈っても、すぐ生えてくる熱帯のジャングルの草木の獰猛さといったもので、そんなに高尚なものではないのだろうが、こうした不景気の時は、ちんまりと収まりかえって、静かにしているよりも、猥雑ではあるが、賑やかで、何か良いことがありそうな気がするのは確かだ。
仮に良いことがなくても、仏頂面をして不幸なことがおきるよりはましというものだろう。
さて、アジアの能天気さに見習って、何かプチぜいたくでも考えてみますかな。

中谷 巌 「資本主義はなぜ自壊したのか」(集英社)

ご存じのように中谷 巌氏は、小泉内閣の「経済戦略会議」の議長代理をはじめ、数多くの政府委員を務め、構造改革の旗手として大活躍していた人。

その人が、構造改革を推進してきたことを自己批判し、「転向」を表明したのが、本書である。

構成は

序章 さらば「グローバル資本主義」

第一章 なぜ、私は「転向」したのか

第二章 グローバル資本主義はなぜ格差をつくるのか

第三章 「悪魔の碾き臼」としての市場社会

第四章 宗教国家、理念国家としてのアメリカ

第五章 「一神教思想」はんぜ自然を破壊するのか

第六章 今こそ、日本の「安心、安全」を世界に

第七章 「日本」再生への提言

終章 今こそ「モンスター」に鎖を

となっていて、著者がなぜ「市場原理主義」に惹かれていったか、を若い頃の留学経験などを語りながら延べ、「アメリカ」という国家の特異性、実は「市場原理主義」も特異な存在であることと、その欠陥というよりは害悪が、まず語られていく。

途中、キューバやブータンといっ貧しくはあるが国民が満足して暮らしている国家の話などが語られ、第六章あたりからは、市場原理主義との決別や、日本なりの取るべき道の提言がされていく。


内容的には、難解すぎる経済用語などは少ないので、経済学っぽい本としては取っつき易い方だろう。専門家あたりには、目新しいものがないといった批判もあるが、なに、私のような素人には、それぐらいがちょうどいいってなもんである。

また、最近、諸悪の根源のように言われ始めている「市場原理主義」の批判ないし欠陥を勉強する本としては、私のような素人にうってつけの本といっていい。


ただ、ただ、である。

こいつは、極度に個人的な見解として考えていただきたいのだが、これは「禁断の書」あるいは「禁じ手が使ってある本」なのではないだろうか。

市場原理主義の功罪は全世界的な話なのでおいておくとしても、小泉内閣の「構造改革」が日本の社会へもたらした影響というのは、かなりすさまじいものがあった、と私は考えている。それは、陽の面もあるが、もう取り返しのつかない「影」「陰」の面も確実に存在する。そうした政策の、かなりの中枢であった人が、この時点で反省している感じはあるが、「間違っていました」「転向です」というのは、ちょっとないんじゃないの、という感覚が先に立つのである。

さらには、本書の始めの方にあるように、アメリカ留学当時は、そうした新自由主義思想がぴかぴかに輝いていたから、良いモノと思いこんで仕方がなかったばりのあたりを読むと、「嗚呼、騙された我が悪いんだろうね・・・」と自嘲的に呟かざるをえなくなってくるのである。


「世の中は革命、反革命、反々革命、反々々革命の連続だ・・・、何も変わりはしない」といったなげやりな言葉を口にして、この稿を終わろう。正直な感想をいえば、仕事柄、構造改革には、地方政府のこととはいえ、少々関わった身としては、いろんな思いが交錯して、この本を読むのは、ちょっと疲れるんですわ・・・。

2009年6月29日月曜日

鰯の刺身

新鮮な鰯は、やはり刺身がいいと思うのは、年取った証拠かもしれない。
三枚におろして、ちょっと大きめに切って、氷の上に載せておくと、いい冷え頃になるのと、臭みも消えるように思う。
好みで、わけぎか青ねぎの刻んだのを散らしてもよい。初夏の風物であるなー。


2009年6月28日日曜日

「いけちゃんとぼく」あれこれ

「いけちゃんとぼく」が映画化され、あちこちで評判になっていることもあって、ブックレビューの方でも原作をとりあげたのだが、そのついでにあちこちのサイトを巡っていると、あちこちに西原理恵子さんの、面白いインタビューがあって興味深かった。
もちろん、いけちゃんのきっかけは、息子さんが(おそらくイジメられた時に)ランドセルに書いた落書きがヒント、とか「好きな人がいた人、今好きな人がいる人に観に行ってほしいです。“好き”がたくさん詰まった映画になっているので」とか、それなりのものもいっぱいあるんだが、
例えば
「もともと5万部刷ったうちの2万部しか売れなくて、3万部もお蔵入りになっていたけど、テレビで取り上げられるとあっという間に売れた。ぱっとしないまま終わるはずの絵本だったけど、テレビ様のおかげで売れた(笑)」
とか
「私のファンが老眼になり始めたので、リハビリ感覚で絵本より何かおっきいことをやろうという話になった」
といった西原さんらしいインタビューが散見されて面白い。
そういえば、この「いけちゃんとぼく」が出た頃は、元旦那さんの鴨志田さんも、まだ元気だったはずで、この本に出てくる父親と息子の別れに、なぜかしら重ねあわせてしまうのだが、そんなことも乗り越えて、きっと、これからもパワフルな作品が仕上がっていくんだろうなー、とまあじゃん放浪記あたりからのファンである私としては思うのである。
なには、ともあれ、映画がはやりますように・・・

西原理恵子「ぼくんち」(小学館)

「いけちゃんとぼく」をとりあげたら、なんとなく西原理恵子さんのものをとりあげたくなったので、続けてレビューをすることにする。


で、そうなると「ぼくんち」である。
というのは、全編を通じて流れるハチャハチャさともの悲しさ、そしてラストの泣かせどころといい、「いけちゃんとぼく」にひけをとらない出来だと思うのだが、どういうわけか、大々的に取り上げられているのを最近見ない。やはり、西原さんのいう「下品さ」が影響しているのか?けして、そんな下品ではないぞ、とこの作品を援護したくなったという訳である。


始まりは、「山と海しかないしずかな町」に住む男の子「二太」のところに、三年前に家出していた母親が帰ってくる。なんと「おねえちゃん」と一緒にだ。「おねえちゃん」の名前は「かのこ」といって、ここにくる前は「ピンサロ」で働いていて・・・・、といったところから。まあ、なんとも乱暴な出だしではあるが、西原さんの漫画らしいといえばいえなくもない。

そして、再び母親が家出して、二太は、(たぶん)この血のつながらない「おねえちゃん」と暮らし始めるのだが・・・

といった感じで進んでいくのだが、町の人間というのも、貧乏で、のんだくれで、隙を見せればトロいやつから何かをかすめとろうとするし、隙がなくても、なんとか自分の身は守ろうとする、「なんとも、は~~・・・」、という感じで、こすっからくて、なんとも切ない暮らしが展開していくのである。


町のワルの「こういち」くんや、シャブ中でアルコール中毒の父親をもちながら、とっても強く生きている「さおりちゃん」や、わけがわからんようになっている中華料理屋のおやじとしっかり者のおかみさんやら、小さな、山と海にへばりつくような町で、せせこましく、しかし、それぞれに目いっぱい生きている、悪いこともたくさんして、善いこともそれなりにして生きている姿が、二太、一太、そして「おねえちゃん」のかのことともに、エンドレスに続くかのように、語られていく。それは、ワハワハと笑いを誘いながら、そのくせ、ちょっぴり涙を誘う物語の連続である。

しかし、物語には、始まりもあれば終わりもある。そして、大抵の場合、始まりはゆっくりと始まっても、終わりは、ガラガラっと終わっていくのが、多くの物語の常である。


一太は都会へ出、「おねえちゃん」は母親の借金を返し終わる頃、二太の将来を思い・・・


というところで、この「ぼくんち」の最後の泣かせどころをネタばれ承知であえてレビュー。
と、いうのも少しネタばれしたところで、いや、むしろ少々ネタばれした方が、このシーンを読むがために、この本を手に取る人が出てくると思うがためだ。
絵を出すとネタばれがすぎるのでセリフだけを引用すると、


一つは、物語の終焉の一つ前。
かのこ と 二太 は町の山に、タイムカプセルを探しに行くが見つからない。
そこで、かのこは、二太に親戚にもらわれることを告げ、


それからねえちゃんは
うしろを向いてずっと地面をほじくり返していた。

ハナ水がどばどば出ているのが見えた


日がくれて

宝物はみつからなかった


ねえちゃんは
小さな声で

ねえちゃんはここにいるから、

ねえちゃんはタイムカプセルやから、

いつか、一太と二太でむかえにきてな

と言って

またハナ水を

どばどば出した


そして

二太が親戚のおじいさんに引き取られて、漁船で、この町を離れていくシーンが、また泣かせどころというか、絶品である。



(船べりから、だんだん離れていく二太の目線で)

恐竜の入り江がすぎると

いよいよぼくの町が見えなくなる。

(じいちゃんのセリフ)

二太、

寒いき

中、入っちょき

(二太、振り返って)

じいちゃん、

ぼく

知ってんで。

こうゆう時は

笑うんや。


どうです。泣けてくるでしょ。私なんぞは、はじめ白黒のバージョンのものしかもっていなかったのだが、このシーンをカラーで見たいために「ぼくんち 3」を買ったのでありますよ。

「いけちゃんとぼく」が「泣ける本 NO.1」であるなら、この「ぼくんち」は「もっと泣ける本」であり「元気の出る本」であること間違いなしの一冊である。


しかし、ビンボーで、せこくて、トロい人を登場人物にして泣かせる物語を描かせると、西原理恵子さんってのは名手なんだよな~。

2009年6月27日土曜日

西原理恵子「いけちゃんとぼく」(角川書店)

西原理恵子さんの初めての絵本。


いけちゃんは
ずっとまえから
そばにいる

いけちゃんは
なんとなく そばにいる


から始まる、丸くて、ふわふわの「いけちゃん」と「ぼく」の日々の暮らしと生活と、ぼくの成長と別れを描いた絵本、といっていいのかな?

このあたり大筋は言い得ていると思うが、いまいち、この絵本の全体を通した感覚を表現できていないようでもどかしい。


西原さん特有の、露悪的なギャグを含んだお話、例えば、ぼくが友人にバナナの皮やナフタリンを食わす話などや、喧嘩やいじめ、父親との死別のエピソードが、いつもそばにいる「いけちゃん」とのふれあいが、この人特有のパステル調ではあるが、原色に近い、なんとなく、南国のアジアっぽい色使いとともに語られていくのだが、ワハワハと読みながら、時折うむ・・・とかうならされて、なんとなくもの悲しくなってしまうのは、いつもの西原理恵子調絶好調である。


例えば、父親を亡くした悲しみは、海で100回おぼれるほどの感じ、「100うみ」だと「ぼく」と語りながら、でも


せかい中で人よりはやく
大人にならないといけない
子供っているんだよ

キミも その中の
ひとりなんだよ。


と語っていくあたり、知らず知らず、西原ワールドに入り込んでしまって、恥ずかしながら目が潤んでいるる自分に気づかされてしまう。


そして、「いけちゃん」との別れのシーン。ネタばれは、御法度として多くは語らないが、「ああ、そーだったの」、「なーんだ」、と呟きながらも、


さよなら

わたしたち
とても短い恋をしたの


で終わるラストは、不肖私めも、鼻の奥がツンとなってしまったのだが、詳細は、まあ読んでのお楽しみである。


映画では「ぼく」の名は「よしお」という名前になっているが、この絵本では「ぼく」の名前は語られていないように思う。
そして、語られるエピソードも一人のもののようであって、多くの、様々な男の子のもののようでもある。


作者は、すべての「よしお」くんの、いや、すべての男の子の、それぞれの「いけちゃん」の話を届けたかったのかもしれないな、と勝手に結論づけてしまうのであった。

2009年6月26日金曜日

ubuntuで青空文庫

最近、青空文庫の岡本綺堂にこっていて、半七捕物帖や怪談、昔語りなどを読んでいる。

たいていは、EeePCかアドエスで読むのだが、今は寝室PCとなったIBM ThinkPad A20のubuntuマシンで読んでみようとあれこれ探してみた。

なのだが、どうも、簡単にインストールできそうなものがない。

いわくXJP2をコンパイルしてどうこう、といったものばかりで、力のある時は挑戦してみるのだが、ちょっと仕事が立て込んでいて、コンパイルにつきものの、失敗→再挑戦→再失敗→諦め→再々度挑戦→再々度失敗→再々々度挑戦→ふいに、原因はわからず成功、といったことに取り組む気力がない。

ということで、JAVAベースで動く青空文庫ビューワを導入
インストールはSoSoのここのページからダウンロード。

ダウンロードしたら適当な(アクセス制限のかかっていないところ)において、ダウンロードしたaozora.jnlpをクリック。

すると、ビューワが立ち上がるので、左のペインから読みたいものをクリックすればOK
JAVAが必要なのだが、たしかUbuntuにはプリインストールされているので、あらためて導入はいらないはず。

難といえばIBM ThinkPad A20には、ちょっと重いこと。このソフトはOSを問わなくてWindows XPでも使える。EeePc901ではストレスもあまりなく使えたので、マシンスペックが相応にあれば、かなり使えるのではなかろうか。

2009年6月25日木曜日

ネットブックに何を求めるか?

C-netで、ちょっと気をひくNewsを見つけたので一言
ネットブックをめぐる期待と現実のギャップ--米調査で明らかに
http://japan.cnet.com/news/tech/story/0,2000056025,20395573,00.htm
少し引用すると

NPD Groupのアナリストが、米国時間6月23日に発表した調査リポートによれば、ノートPCを購入するつもりだったのに、ネットブックを購入した消費者のうち、その購入結果に大変満足しているとの回答者は、わずか58%に過ぎなかったという。
・・・
「NPD's Netbooks II:A Closer Look」と題する同調査リポートは、ノートPCの代わりにネットブックを購入するに至ったユーザーの60%が、ノートPCでも、ネットブックでも、特に機能面で違いはないと考えていたことが判明したと伝えている。

私の周りにも、このネットブック・ブームに乗っかって、初めての個人用PCをネットブックで調達している人も多い。それなりの機能だよね、という感覚で使っているうちはいいのだが、例えば、動画を扱うにはパワー不足だとか、EeePCのSDDのCドライブが少ないモデルを買って、ソフトのインストールに苦労して、「使えない」といった愚痴を聞くことはある。
といったことを考えると、最近の通信カードの2年縛りと抱き合わせで、かなりの安値でキャンペーンがされている日本でも、おそらくは同様なことなのだろう。
これはAtomの性能への過剰な期待もあるだろうが、やはり「PC」「パソコン」という形に対する幻想もあるのだろうと思う。最近のネットブックは、画面も広くなってきていて、チープ感も薄れてきているし、ASUSとかエイサー、工人舎といったメーカーだけでなく、HPやNEC、TOSHIBAといったメジャーなメーカーが製品を出しているということもあると思う。
ただ、できれば、せっかくネットブックを買ったのだから、プチ改造とか、いろいろ楽しんでもいいのじゃないかなー、と私としては思うのである。
私の環境的には、ネットブックは、ちょっと古びてしまったEeePC 901-X(16Gモデルではありません)なのだが、メモリの増強やSDのHDD化、E-RAMの導入をやっているせいか、結構使えるマシンになっているな、という感じを抱いている。
もちろん、動画のエンコードといった負荷のかかる作業は、メインのデスクトップで処理しているという事情もあるのだが、携帯性やちょっと雑に扱っていいというSSDの安心感は、普通のPCにはないものがあるし、Atomのパワーも、ネットブックのはしりの、さるメーカーのGeodeのマシンに比べたら、雲泥の差である。
中古でも新品でも、かなり価格が下がってきているネットブック。メーカーからしたら眉をひそめる話しなのだろうが、機能の力不足を嘆くより、携帯マシンとして、あれこれと改造と強化を図る方が楽しいのではなかろうか。
 

堤 未果「ルポ 貧困大国アメリカ」(岩波新書)

サブプライムローンの破綻後、いわゆる新自由主義に対する批判やアメリカ社会の現実のような本が、かなり出てきているが、本書もその一つであることは間違いない。

ただ、本書は、いわゆるルポルタージュという形がとられることによって、「実は新自由主義は間違ってました」「間違いは実は私は気がついていたんですがね」といった風見鶏的な論調とは、かろうじて一線を画していることができている。

ただ、本書が刊行されたのが2008年1月で、初出はしらないが、もし同時期とすれば、サブプライムローンの破綻する2007年から2008年の時期に附合することにもなり、「おいおいもっと早く言ってもいいだろ」と後出しジャンケン的なものを感じるのは否定できない。

と悪口を書いてしまったが、ルポとしては、かなり上出来ののものと思う。アメリカの貧困をきちっとリポートしながら、けして、グローバル資本主義がなくなればOKとか、大きな政府にすれば万事解決、悪いのは「大企業」だったのよ、というような、ある種、楽天的な論調に陥ることなく、アメリカの貧困の底の深さ、解決の難しさを記述していて、ルポとしての好感がもてる仕上がりになっている。

構成は

第1章 貧困が生み出す肥満国民

第2章 民営化による国内難民と自由化による経済難民

第3章 一度の病気で貧困層に転落する人々

第4章 出口をふさがれる若者たち

となっていて、なぜ貧困層に肥満が多いのか、や、アメリカのあまりにも貧相な、貧困層の医療の実体、さらには、そうした貧困層にいながら希望に燃える若者たちに軍隊というものがどんな形で食い込んでいるか、などなど、一筋縄ではいかない、「アメリカの貧困」が明らかにされていく。


しかし、こうしたルポを読むたび思うのは、私たちが、かって憧れていた「アメリカの中流階級」あるいは「アメリカの豊かな暮らし」というのは、本当はいつまであっただろう。貧しいアジアと豊かなアメリカという図式が、以前は確実なものとしてあり、アメリカが一種の希望の地であった時が、確実にあったように思うのだが、それはいつ失われたのだろう、そして、どこを目指していったらいいんだろう、ということだ。

すでに「国営化」による非効率と利権の姿を、ベルリンの壁の向こう側に見た私たちにとって、「民営化」が実は「食い合い」というモンスターが衣をまとっていたものだったとわかっても、既に帰るところがない状態なのである。


で、これはちょっと乱暴な話なのだが、ひょっとすると「アメリカの豊かさ」は「アジア・アフリカの貧しさ」と量としては同じで、アジアが豊かになった分、アメリカが貧しくなったのではないのか、などと、「人生の運と不運の量は同じ」と信じている私なぞは思ってしまうのである。

そして、もしそうなら、どこかが豊かになることが、どこかの貧しさを生むのであれば、どこかで折り合っていくことが必要になるのであって、ひょっとすると、構造改革の嵐の中で批判されていた。「一億総中流」というのが、実は、目指すべき姿だったのかもしれないね、と「青い鳥」よろしく呟いてしまう。


何も救いにはならないが、せめて次の世代への希望をつなぐための一つの手段めいたことを引用して、この、行き場のない稿を終わることにする。マンハッタンの帰還兵センターのスタッフの言葉だ。


「若者たちが誇りをもって、社会の役にたっているという充実感を感じながら自己承認を得て堂々と生きられる、それが働くことの意味であり、「教育」とはそのために国が与えられる最高の宝ではないでしょうか?将来に希望をもてる若者を育ててゆくことで、国は初めて豊かになっていくのです。」


国が、そこそこ豊かであること、人々がはればれと生きていけること、のためには、難しい金融理論や経済理論は、ひょっとしたら邪魔者なのかもしれない・・・・

2009年6月24日水曜日

赤外線操縦のチョロQ

岡山LOFTで息子にかってやったチョロQ
赤外線で操縦できる。結構きびきび動くのである。


椎名 誠 「全日本食えば食える図鑑」(新潮文庫)

食エッセイあるいは、日本食べ歩きといっていいのだが、題名で想像がつくとおり、食べるものが尋常のものではない。というよりは、フツーは食わないだろ、といった代物や「うーむ、ちょっとね」といった食べ物の食エッセイである。

収録は

睾丸のようなもの。ぐねぐねするやつら(沖縄県 与那国島・石垣島)

なんてこったの肛門チンポコ生物(佐賀県 有明海・唐津)

決め技はコリコリとずるずる(京都府 伊根・丹後)

奇食ではなく貴食なのであった(北海道 阿寒湖)

ヒトは禁じられると求めるものだ(岩手県 遠野・宮古)

高知の山海秘密の三本勝負(高知県 安芸・大方)

食うか食われるか。ミキにはキミの夢がある(鹿児島県 奄美大島)

でっかくて黒いやつ。小さくて黒が好きなやつ(青森県 鰍ケ沢。下北半島)

輝け!第1回全日本麺の甲子園大会(日本全国)

でらうまの謎(愛知県 名古屋)

愛と策略の蜂の子まぜごはん(長野県 白馬・穂高)

鮒ずしへの詫び状(滋賀県 琵琶湖)

一見して、どんな食べ物かがわかるものもあるから、一部を紹介するだけにしておくが、椰子蟹、うみへび、いそぎんちゃく、ゲンゲのナンダもしくはババアないしはグラと呼ばれるもの、ゴカイ(エラコ)、ウツボ、納豆サンド、といった代物がオンパレードである。


いったいにこういうゲテモノというのは、一種の怖いモノみたさのようなものがあって、自分が食べるのは別にして、他人が食べるのを見たり、読んだりするのは、妙に自虐的な快感がある。

といったことで、あえていくつか引用すると

「睾丸のようなもの。ぐねぐねするやつら」の"エラブー汁"は、

まず汁を飲む。なかなかコクがあって旨い。醤油味がしたようだが聞いてみると醤油は使っていないという。エラブーは皮がまだ残っていた。さっき包丁でこすってウロコを取っていたと思ったのだが、噛むときの歯に感じる抵抗感はうろこの下の皮のようであった。とはいって噛みきれる堅さである。その独特の臭みと歯触りは以前食べた何かに似ている。はてなんであったか。ゆっくり噛みしめながら考える。やがて思い出した。
 これはニシンの味とその感触である。ニシンの中でも戦後間もない頃によく食べたミガキニシンに似ている

てな具合だし、


「決め技はコリコリとずるずる」の"グラジル"は

本当にグラの全身にヌルヌルの皮膜があって、最初に自然にそれだけすすれるようになっている。全身を薄く覆っていると思ったのだが、口にしてみるとゼラチン層はおもったよりも厚くのびるのでいつまでもすすれるかんじだ。

「ずるずるずる」
「どうですか。なかなかでしょう。とくにそこが鼻汁をすすっているみたいでなかなかいいでしょう」
「ううう」

といった感じ。

「ヒトは禁じられると求めるものだ」の"ゴカイ(エラコ)"は

その下にゴカイやイソメよりもミミズに近いのがだらんとついている。全体に黒く体表は弱い。閉じこもっている管を指で破って無理やりひっぱりだすと、すぐ千切れてしまう弱さだ。千切れて内臓らしいのがはみ出ているのより一匹ちゃんとしたやつのほうがいい。イソメやゴカイは掴むとかなりはげしくクネクネ動き回るのだが、こいつは定住性だからなのだろうか、あくまでも「もうだめ」といいつつダラントシテイル。イキオイでそいつを囓った。苦い。エグイ。渋い。塩辛い。

といった具合で、旨いのがマズいのか、少しぐらいなら、囓ってみたくなるような、ならないような塩梅である(かな?)。


まあ、こうした、ちょっと引いてしまうような食べ物ばかりでなく、エゾシカのジンギスカン、タタキ、味噌炊きやドブロクの蔵出し、名古屋の朝の豪華モーニング7品セット、などなど、まともで、思わず生唾を飲み込みそうなエッセイも収録されているので、食わず嫌いせずに、まず読んでみなさい、というのが、この一冊であります。

そういえば、「でらうまの謎」にもでてきた「台湾ラーメン」(「台湾」と名がついているが、台湾にはない代物)は、カップ麺にもなっていて、親戚から送ってもらったのを食したことがあるが、美味であった。誰か、ネット通販か何かあったら紹介してもらえないだろうかしら?

2009年6月23日火曜日

鳥型グライダー

岡山LOFTで買った。500円也。
うまく動かすと旋回したりするらしいのだが、未だ操縦技術が追いつかない


2009年6月22日月曜日

下川裕治「日本を降りる若者たち」(講談社現代新書)

若者の貧乏旅といえば、汚いジーパンに、使い古したナップザックを背負い、安宿に泊まり、地元の人と同じ貧相な(失礼!)食事をし、国から国へと渡っていく、というイメージであったし、旅本を読む楽しみも、家庭と暮らしと仕事に雁字搦めになっている我が身を一時、解放するというものであったのだが、本書によると、どうも「若者の旅」が変質しているらしい。

なにもせず、どこへも行かない旅行者たち

外こもり。日本で引きこもるのではなく、海外の街引きこもる若者たち

が出現しているらしい。

章立ては
「旅から外こもりへ」
「東京は二度と行きたくない」
「人と出会える街」
「ワーキングホリデーの果てに」
「留学リベンジ組」
「なんとかなるさ」
「これでいいんだと思える場所」
「死ぬつもりでやってきた」
「こもるのに最適な場所」
「帰るのが怖い」
「ここだったら老後を生きていける」
「沖縄にて」
「ラングナム通りの日本人たち」
で序章から付章までの13章立て。

で、この章の題名でもわかるように、この本に出てくる日本人は、優しく、そしてナイーブで、傷つきやすく、元気がない。

それは、彼らの暮らし方のスタイルにも言えて、多くの「外こもり」の人たちが、日本で数月のアルバイト(例えば、自動車の組み立てなどの住み込みで一気に金を稼げるもの)で資金を貯め、それを原資にタイなどのアジアで質素に暮らすという方式である。
そこには、日本を捨てるという意識もないかわりに、海外で一旗という娑婆っ気もない。日本での「ひきこもり」が、場所を変えているだけで(最近は、宿もゲストハウスじゃなくて、アパートを借りるらしい。理由は「安い」から)


「部屋で?本を読むか、ゲームをするか、メールを見るか、自分のブログを書くか、サイトを見ているか・・・。テレビはタイ語ばかりだから、ほとんど見ません。・・・」


といった暮らしぶりなのだ。


なぜ、こうして海外を旅する若者のスタイルが変わってしまったのかというと、それは、やはり、「日本」というものが変質してしまった、ということが大きいのだろう。

本書からいくつか引用すると


死ぬつもりでカオサンに流れ着いたという日本人は、タイという国とタイ人に幻惑され、しだいに元気を取り戻していく。しかしそれは、タイという国が演出してくれる舞台で踊っているのにすぎない。どこかやっていけそうになって帰ったとしても、待ち構えているのは、自分自身の心の均衡を狂わせ、弾き出そうとした不寛容な日本社会なのだ。(第7章 死ぬつもりでやってきた)


であり、


外こもりとは、突き詰めれば日本社会からの逃避である。うまく逃げ通せれば、余裕がなくなりつつある日本社会で、奥歯に力を入れて生きなくてもいいと思う。
・・・
だが、日本社会が怖い。
いまの日本社会に怖さを感じ取ってしまう若者が増えている。逃避への羨望をいつも抱えもってしまっている。外こもりの入り口のひとつは、その怖さであることもまたたしか


ということなのだ。

そして、こうした暮らしは若者だけでなく、東京で飲み屋を経営していて、そこを引き払ってチェンマイに移り住んできた老人たちにも共通する。

そこに現れるのは、強い者にはなんということもないが、弱い者には、かなりのストレスと生きにくさを見せ始めた「日本」という国家の姿であり、アジアへと、そうした人を追いやっている、我々の姿でもある。


いつから、そんなに「怖い」国になってしまったのだろう・・・・と、何も意識せずに、この日本で生計を立て、暮らしている私なぞは思ってしまう。それは、なんとはなしに「今」に適合し、なんとはなしに「弱者」を追い立ててしまっている、「普通の人」の意識しない、冷たい目線なのかもしれず、


結局、日本人は「頑張る」という言葉を巡って人生が展開される、そうも思える。いや日本人というより、資本主義の世の中では、どこも同じなのかもしれない、現に、外こもりファラン(白人)もカオサンやプーケットにわんさかいる。・・・突き詰めると、近代がどういう時代であったか、そして、近代資本主義がもたらした豊かさに対する問いかけなのかもしれない(終わりに)


という「現代」というものが持つ「無惨さ」なのかもしれない。


とはいっても、将来に希望がないわけではない。最後に、タイのラングナム通りで、現地に職を得て働いている若者の言葉を引用して終わろう。

「いまタイにいるけれど、日本は「戻るところ」。生きにくい場所ではない。生活していて、そして働いている上で、日本にいる方が気楽な部分もある。仕事をするなら絶対日本がいい」

ニッポン ガンバレ!

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黒メバル

体色が黒いので、勝手に「黒メバル」としておく。
ひょっとしたら、煮汁の醤油がキツくて、こんな色になっているのかもしれない。
黒メバルと赤メバルの違いをネットで調べると

すむ場所(深さ)によって体色が違い、黒メバル、赤メバル、金メバルなどと呼ばれますが同じ種です・・・と、 2002年までは言われていましたが、それぞれ胸ヒレの骨の数が違うという事で別種ではないかと議論されています。

ということらしい。
一般に黒メバルの方が脂がのっているという話らしいのだが、、両方を一時に食べ比べてみたことがないので、さだかではない。
骨は硬いの、量も多い気がするので、気をつけてたべましょう。


2009年6月21日日曜日

岡山 B食 ”ミートソーススパゲッティ”

息子の注文したミートソーススパゲッティ。
これも量がたっぷり。
見た目は茶色いが、味はしっかりミートソースで、どちらかというと甘めである。


岡山 B食 ”メンチカツ定食”

これは、娘が頼んだメンチカツ定食。
お味は良で、しかも量が多いのは、jrランチと同じ。
メンチカツが3つつくのも、シーフードクリームコロッケと同じである。


岡山 B食 ”jr.ランチ”

岡山駅西口の奉還町のアーケード街のなかにある無国籍料理の店で、ひさびさに家族で外食。
名前はjr.だが、けしてジュニアではない。いや、むしろ大盛りといっていい。内容は、シーフードクリームコロッケ、あんかけ風やきそば、キャベツサラダ大盛り というもの。クリームコロッケは、それぞれエビ、イカ、アサリとかが結構はいっていてボリュームたっぷりである。
これで750円は、かなり安いと思う。持ち帰り用の発泡スチロールケースも売っているのは、親切というか愛嬌というか----
とはいっても、奥さんと息子は、食べきれずに、持ち帰りしておりました。


2009年6月20日土曜日

下川裕治「12万円で世界を歩く」(朝日文庫)

旅本というのは、一種の歴史書といえなくはなくて、ちょっと前の旅本は、旅のガイドブックやルポルタージュとしては使えなくなるのだが、歴史的なドキュメントとしては、直に経験した人が書き記しているものだけに、妙な迫真性と懐かしさをもたらしてくれる。

この「12万円で世界を歩く」も、そんな位置関係になってしまった本で、実際の旅は1988年から1989年にかけてなので、昔の旅本でお馴染みの中国の「服務員」さんも健在だし、香港は返還されていないし、インドはIT大国とはほど遠いし、社会主義国も元気だ。

収録は

「バンコクから尻にアセモの二千キロ。赤道には白線が引いてあった」

「高度四千メートルめざすヒマラヤ・トレッキング。ヒルの森にヒルむ」

「韓国をぐるーっと一周バスの旅。かかった費用は五万七千二百一円」

「神戸から船に乗り続けて十三日。長江(揚子江)の終点にたどり着く」

「ついにニューヨーク到着。アメリカ大陸、一万二千二百キロ」

「北京発ベルリン行き列車、二十八日間世界一周」

「インド大陸を列車とバスで横断。ラダックに青空を見に行く」

「念願のカリブ海リゾート。キューバのドル払いアリ地獄に泣く」

「東シナ海、南シナ海、四つの中国めぐり。超たいくつクルージング」

「ロサンゼルスからひたすら北上。カナダ最北端、北極圏突入」

「タイ国境線をなぞる戸惑いの旅。気がついたら"密入国"」

「神戸からアテネ、一万五千四百七十二キロ。シルクロードを揺られぬく」

で、アジア、北アメリカ、ヨーロッパと幅広い。

趣向は、十二万円でどこまで行って帰ってこれるか(当然、交通費と滞在費と合わせて)というもので、それぞれの旅の最後に使ったお金の明細表がついているのも興味深いし、また1997年ぐらいに書かれたらしい、補筆がついているのだが、それすらもすでに歴史になっているところが二重に面白い。

その旅というのも、かなり充実しているようだ。
飛行機のチケットが、まだ高価な頃なので、交通費を除いた後は、そんなに資金に余裕があるわけではなく、貧乏旅ではあるのだが、中国の街で「オムレツ」を頼むとミンチ肉をはさんで中に野菜や香辛料をたっぷり入れた厚さ三センチ、幅十センチ四方の、見事な料理が百五十円ででてきたり、木浦の食堂では、キムチ、魚、肉、卵など十数種の料理とおまけに生のカニまでついて三百円の定食にありつけたり、アメリカにオイスターバーの生がきが一個五十セントだったり・・・。
食べ物の値段だけで比較するのもどうかとは思うが、それでも、なにかしら「豊かな」旅がおくれている印象なのが、羨ましくある。


さらには、もともとが一旅行12万円の使い切りなので、それぞれの旅で、贅沢か貧しいかの差が歴然としていて、その時の食事は、それこそとんでもない格差があるのだが、貧しいときの定番の食物が「カップラーメン」か「インスタントラーメン」というのも日本人の旅らしくて、なんともいい。

貧乏旅行記の走りとして、旅本好きであれば読んでおきたい一冊なのだが、残念ながら、私の住んでいるような辺境の田舎町では書店に見つからず、amazonで注文した。
辺境にいると、こんな時に、インターネットの偉大さと恩恵を感じるのである。

ビワを収穫

うちの庭のビワを収穫。今年は、袋かけをしたりして手をかけたのだが、小鳥に食べられなかったぐらいの効果。まあ、ボール一つ分収穫できたのだから、よしとするか。


2009年6月19日金曜日

ニラレバ

うちの奥さんは、子供の頃、体が弱かったせいで、ニラの卵とじやニラのはいった吸い物とかを、よく親に食べさせられていたせいで、ニラの味も臭いも大嫌い。さらにレバーみたいな血塗れのスプラッタものを連想させるものは嫌い。

というわけで、レバニラは”嫌い”の二重奏である。

ところが、この私はモツ系が大好きで、ニラ、ニンニク系も臭くってあっぱれ、という具合なので、時折、無性に食べたくなる。 

とはいっても、奥さんは触るのもイヤ、という具合なので、市販品か、自ら調理か、といった選択になる。 

まあ、軽く湯引きしたレバーを、ニラと一緒に炒めて、醤油と砂糖少々、ごま油、コショーで味付けるだけなのだが、もやしとかたまねぎをいれる方がおいしいかもしれない。本日はきらしていたので、ニラのみにいたしました。


樋口泰行「変人力ー人と組織を動かす次世代型リーダーの条件ー」(ダイヤモンド社)

HPの日本法人の社長を経て、ダイエーの再生にかかわり、現在は日本マイクロソフトCOOである筆者の、ダイエーの再生に関わっていた当時を綴った、いわば「会社(職場)をいかに再生するか」の実録である。
 
こうした会社の再生などといった修羅場には、そうそう立ち会えるものではないし、その中でも、「ダイエー」という一世を風靡した企業の再生に関わるといた体験は、誰にでもできるものではない。
また、そうしたプレッシャーとストレスに誰でも耐えられるというものではない。
 
 そうしたことは筆者も
 
再生に求められるリーダーシップは、平時のリーダーシップとは明らかに異なる。調整型や改善型のリーダーシップではなく、目の前のどんな課題をも突破していく変革型のリーダーシップが必要となる。どんな障害があろうとも変化を強力に推進していく、いわば「チェンジ・リーダー」が何より求められる。
揺るぎない軸を持って社内の固定観念を打ち破る力、サムライにも似た気概で修羅場をくぐり抜ける力、熱き言葉で信念を伝え続ける力・・・
 
私はこれらの力を総称して「変人力」と呼んでいる

修羅場のリーダーには、オペレーションの能力以上にエモーショナルな能力が必要だということである。すなわち、周囲が何と言おうとも自分の信念を貫き通す力、底知れない執念で変革をやり遂げる力。いわば「変人力」とでもいうべき力がチェンジ・リーダーに求められているのである。
 
といった表現の中に滲ませていて、こうした体験は万人が対応できる、あるいは処理できるものではないにしろ、こうした経験をくぐってきた人の言葉というのは、通常のビジネスの現場に中でも、ある種希釈した形ではあれ、応用できる場面が多いと思う。
 
 いくつか引用すると
また、リーダーの心得として
 
顧客志向を確立し、それを維持する出発点は、組織を束ねるリーダー自身が軸足をお客様に置くことだ。その上で、現場の「基本動作」を徹底し、お客様の声を反映した打ち手を積極的に実施していくことである。
現場から離れたところで改革をしようとすると、戦略とか戦術とかの大括りの議論に向かいがちだが、実際はそうした議論を行う以前に「やるべきことをやっていない」ところに根本的な問題が潜んでいることが多い。
 
 
リーダーにとっての現場力とは、自分一人で問題解決を図ることにあるのではなく、現場で働く人たちを活性化し、皆の創意を引き出し、現場を方向付けることにある。そのためにも、障害を乗り越えていく自らの背中を見せることが重要なのだ。そして、現場こそがもっとも大切だというメッセージ自らが積極的に発信し続けることが重要なのである
 
といった言葉は、自らの置かれているビジネス環境がどうであれ普遍的な言葉として考えていい。
 
 経営者の毀誉褒貶は、その時々のビジネスの失敗や成功、あるいは、その時代の後押しや企業の勢いといったものに左右されがちだから、このレビュー当時、あるいは2~3年後、10年後に筆者の評価がどうなっているかわからないが、少なくとも、「ダイエーという大企業の再生」という大きな事業に携わった経営者の言葉として、重く記録しておくべきだろう。
 
 一大事業を成し遂げた敬すべき「改革者」の言葉として、
業務柄、「改革」ということに携わる一人として、次の言葉を肝に銘じて、この稿を終わろう。
 

組織の中で改革をやり遂げようとすれば、リーダー自身が一にも二にも、自分ならではの座標軸を持つことが大切である。物事の真実を見極める力、遠くを見通す力を持つことである。そして、王様が立派だと信じ込んでいる社員たちに向かって、「王様は裸だ」と語り続けることである

2009年6月18日木曜日

ネットブックにいれているソフト iRotate

折角、軽量で携帯性が高いのだから、あちこち持ち出して、スキャニングした本などを読んでみたり、ネットサーフィンしてみてもいいのだが、通常は横長の画面なので、いまいち狭い。
PDFビューワには、表示を回転する機能はあるのだが、「表示」→「回転」などどやるのは、いまいち面倒だ。
ということで、導入したのが iRotate
EnTech Taiwanのここのサイト
このページの左上にある「iRotate」というところをクリックするとファイルのダウンロードが始まる。
これを解凍して、フォルダの中にあるiRotate.exeを実行するとタスクバーに常駐するようになる。
画面の展開は、ctrl+Alt+→で右90度、ctrl+Alt+←で左90度、ctrl+Alt+↓で180度、ctrl+Alt+↑で元に戻る。
結構、便利。

2009年6月17日水曜日

ネットブックにいれているソフト 青空文庫リーダー

「ネットブックで、どこでも読書しよう」となれば、Scansnapで、PDF化した文庫本などもいいのだが、やはり、無料電子ブックの定番である青空文庫を、縦書きで読みたい、ということでいろいろ探して見た。
まずは
PageOne
インストールはここ
使い勝手は、結構いいのだが、EeePC 901シリーズにとって難点なのは、Net Framework 2.0のインストールが必要なこと。こいつは、結構容量をくうので、ケチケチとCドライブを使っている当方としては、ちょっとつらい
同じEeePCでも、1000Hとかの大容量のHDDを搭載しているモデルにはいいかもしれない。
で、結局、私の環境にインストールしたのは ArisuViwer
詳しくは窓の杜のここ
lダウンロードは、Vectorのここ
うぉー!これは・・・、というようなソフトではないけれど、安定して使えてます。
安心、安定動作が一番

2009年6月15日月曜日

ネットブックにいれているソフト Foxit Reader

EeePCにプリインストールされているPDFビューワは、Adobe Raderなのだが、このソフトはいまいち重い。
で、ネットブックで使っているPDFビューワは、以前に比べて多機能になったとはいえ、まだまだ軽いと思うFoxit Reader
ダウンロードはFoxit Softwareのここのページ
ここでインストールの実行ファイルをダウンロードして実行すれば、OK.
日本語化するには、起動して「Language」の中からJapaneseを選んで実行。再起動すればメニューが日本語になっている。
もしJapaneseの項目がなければ、言語パッケージの追加インストールをすればいい。
実はFoxit ReaderにはMobile版もあって、このページからWindows Mobile用のCABファイルもダウンロードできる。
私は、アドエスにいれて、プリインストールのPixel Viewerとあわせて使っている。起動が軽いので、どちらかというとFoxit Readerを使うことが多いかな。
Mobile版は英語メニューしかないので、ちょっと慣れが必要なのが難といえば難

2009年6月13日土曜日

アゴの子の煮付け

山陰では”とびうお”のことを”アゴ”といって、初夏の風物詩である。ちくわにしたのは、ほぼ通年あるのだが、この季節のものは刺身にしたり、塩焼きにする。残念ながら、魚臭さが強いので、あまり好みではない。 それに比較して、アゴの子の煮付けは、くせは少ないわりに味わいが濃いので、ビールや焼酎のつまみには、もってこいである。 そうはいっても、さほど量を食べるものではないので、おちょぼ口加減に、ちびちび食べるのである。


2009年6月10日水曜日

まぐろのトロ

今年初めての、地のマグロである。
境港の方にやっと、今年もマグロが揚がり初めて、近くのスーパーの店頭に並んでいたのをゲット。
お値段は、それなりに、おっというぐらいなのだが、まあ初物ということで財布の方には勘弁してもらう。
なじみの魚屋が元気な頃は、こうしたきちんとした身のところではなく、はしっこのところとか、メジャーのところではないところの身が手に入ったのだが、魚屋の主人が体調を崩して、休業してしまったので、それも思うに任せない
もともと、たくさん揚がり始めて、地元の特産として売り出し始めてから、関西あたりへの出荷や料亭向けが中心になってしまい、地元の近くに住んではいても、ほとんどお目にかからなくない。
特産品として有名になるのもいけど、地元の庶民の口に入らなくなってしまうのは、なんとなく腑に落ちない気がしないでもない。現代版「花石綱」ではないか、などど気色ばむ気は毛頭ないのだが、もっと
気安く口にすることができないと、地元民として応援する気も、なんとなく萎えるよね、という感じである。
なにはともあれ、初物のマグロ。刺身として、まず食す。脂がのっていて非常に美味。
刺身だけではつまらないので、醤油にちょっと漬けて、しばらく置く。そして、白い熱々のご飯の上に海苔をちぎって撒く。さきほどのヅケにしたマグロを載せて、わさびを溶かしたさしみ醤油をかけまわして、「マグロのづけ丼」の出来上がり。これは息子のお好みの一品である。


2009年6月9日火曜日

鶏モツの醤油煮

鳥のモツを醤油に煮た。黄色いところは、卵巣かな。砂肝のところとは違って、歯ごたえはあるのだが、硬くはなく、歯の悪い管理人にも大丈夫。

牛なんかのモツは脂がしっかりある気がするのだが、鶏のモツは、あっさりしているように感じるのは、気のせいだろうか。


2009年6月8日月曜日

豚の角煮

自家製ではなく、市販品の豚の角煮なのだが、それなりに良い出来。
これだけで食べても旨いのだが、少なめのご飯の上にのせて、電子レンジで、ちょっと暖めて、角煮丼にするのもいい。大概の料理を、丼ものにしてしまうのが、日本の特徴といえば特徴か?
Wikipediaによれば、豚の角煮は、中華料理のトンボーロが、沖縄に伝わってラフティーになり、さらに長崎に伝わって東坡煮になって、それがさらに変化して、角煮になったらしい。
うちの年寄りあたりは、角煮という表現だけが通用して、トンボーロという表現は通用しないので、もはや完全な日本料理になったというべきなのだろう。
コンビニあたりで、角煮饅がでていたと思うのだが、気のせいだろうか。

2009年6月7日日曜日

ハンバーグ、ちょっと豚肉多め

家庭料理ではお決まりのハンバーグ。
今夜は、ちょっと豚肉の含有が多くて割れ目がはいってしまっている。
ただし、大根おろしで隠してあるので詳細は不明にしてあります。
子供は、ケチャップやらとんかつソースやら、デミグラスソースやらで、こってりいくのだろうが、おじさんはポン酢で食すことにします。

曇り空の運動会

 今日は、息子の小学校最後の運動会なのだが、あいにくの曇り空。おまけに、時折、小雨もぱらつく天気である。

 運動会っていうのは、なにかしら心はずむような、鬱陶しいような感じで、これは、生来足が遅いせいで、100メートル走などの着順がビリかビリから2番目だった昔の記憶が影響しているのかもしれない。

 息子の通っている小学校も、運動会は以前は春と秋、年2回あったのだが、最近は地域と学校共催の春の運動会だけになっている。これを寂しいと思うかどうかは、それぞれの性向によるのだろうが、私の子供の頃は、田舎の農村地帯であったせいか、稲刈り後の秋の運動会が、地域の大重要事であった。どれぐらい地域の大重要時であったかというと、集落別のリレーなどの時は着順をめぐって血の雨が降ろうかというぐらいで、ちょっと怖いものがあった。

 もともと運動会っていうのは、人生の縮図みたいなものがあって、足が速いからといって1着に必ずなれるものでもなくクジ運みたいなものがあるし、先頭集団が一斉に転倒して漁夫の利をえて驚いている子もいる。 こうした運不運をないまぜにしながら、勝敗や順番がついていくあたりが、大人も熱くするのかもしれないな、と思うのである。

まあ、なんとか本日の運動会は、終わりました。やれやれ。

2009年6月6日土曜日

Googleブック検索の行方

 Googleブック検索が、静かな動きをつづけているようだ。
2009.6.4の「Googleブック検索はデータ「非表示」を推奨--日本文芸家協会が方針転換へ」というC-netの記事によると
 日本文芸家協会が、ブック検索のデータベースから「削除」ではなく「非表示」を選択するよう方向をかえた

といったことらしく、正直なところ、アメリカの作家団体などと同じように、だんだんと和解というか、受入の方向にすすんでいくんだろうな、という印象を持った。
 Googleのブック検索自体は、まだまだ権利関係など精査の余地はあるだろうし、フランスのジャンヌネー氏が「Googleとの闘い」で取り上げたように、検索エンジンの優先度が英語圏中心になり、英語圏以外の言語圏の独自性が失われ、英語圏の価値観で埋め尽くされてしまうのではといった懸念(わが日本語圏は、「英語圏の価値観の支配下になる」というより、言語使用人口の相対的な少なさによる、インターネットの情報世界のガラパゴス化の方が、英語が不得手な私には案じられるのだが)は、これからも議論すべきなのだろうが、書籍データのアーカイブ化は進めるべきだろうし、料金や著作権保護の問題はあれど書籍・文書データのデジタル化も進めるべきだろうと思っている。

 ただ、欧米の動きに比べて、なんとなく動きの鈍い気がするのは、Google側にアジア語圏は後でいいや、という思いもあるのだろうが、それ以外にも、書物あるいは字が記された紙とか石といったリアルなものへの信頼感というか信仰のようなものがあるような気がする。そうしたあたりが、電子図書が流行りそうで流行らない一因ではなかろうか。 このあたり、データはデータと割り切って、それが紙に印刷された活字であろうが、ディスプレイに映し出されるドットの集合体である字であろうが、表出される意味には、変わりないだろう、と主張したいのだが、画面で読む文書は頭に入らない、という声にかき消されてしまう。
願わくば、ヒステリックなデジタル文書やデジタル化排斥の動きにつながらないよう、水が染み込むように、静かにデジタル化が進行してほしいものではある。

2009年6月5日金曜日

塩野七生「ローマから日本が見える」

塩野七生氏のエッセイ。ほとんどの人が、一度は手に取るか、一部を読んだことがあるであろう「ローマ人の物語」から、ちょっとこぼれたエピソードや論述などがまとまっている。
古代ローマ史の年表的位置関係でいえば、ローマの建国からアウグストゥスの初代皇帝への就任あたりまでで、エピソード的には、カルタゴとの戦争とカエサルやその周辺の人々にまつわるものが印象に残る。

本編の「ローマ人の物語」はすでに完結していて、今は、古代ローマ帝国後の地中海世界の話に最近の筆者の著作は動いているのだが、残念ながら、私は五賢帝後の軍人皇帝時代のはじめあたりまでしか読んでいないので、全体を俯瞰したものいいは注意しなければいけないのだが、ローマ帝国にとって、上り調子で、まだ爛熟に達していない時代が、カルタゴとのフェニキア戦争やカエサルとその近辺の時代だと思うので、読んでいても、


例えば、「改革」ということについても、今までの勝者が一夜明けたら落魄していたといわんばかりの市場主義批判が頻出する現代とひき比べながら

「改革は単に思い切りがよければいいのかと言えば、けっしてそうではない。
 なぜならば、それぞれの国家や組織にはそれぞれの伝統があり、これを無視した改革を行ってもうまくいくはずがないからです。
 自分の手持ちカードが何であるかをじっと見据え、それらの中で現在でも通用するものと、もはや通用しなくなったものを分類する。そして、今でも通用するカードを組み合わせて、最大の効果を狙う。これがまさに再構築という意味での真のリストラだと私は考えます。
ローマ人たちは、その点に関しても達人でした。」

といったあたりや

「ともすれば改革とは、古きを否定し、新しきを打ち立てることだと思われがちですが、けっしてそうではない。
 成功した改革とは、自分たちの現在の姿を見つめ直し、その中で有効なものを取り出していき、それが最大限の効果を上げるよう再構築していく作業なのではないか。ローマの歴史を見ていると、そう思わざるをえないのです。」

といったあたり、思わず「嗚呼」とつぶやかざるをえないし、

「人材難」ということに関連して

「どれだけ人材がいても、それを活用するメカニズムが機能しなければ、結局のところは人材がいないのと変わらないのです。
 国家に限らずあらゆる組織が衰退するのは、人材が払底したからではありません。人材はいつの世にもいるし、どの組織にもいるのです。ただ、衰退期に入ると、人材を活用するメカニズムが狂ってくるのです」

といった記述には、「うむ」と納得をさせられる。

「古代ローマ人」というすでに滅んでしまったといっていい民族(今のイタリアは、ローマ人の末裔ではあっても、直系のようには、私には思えないのだ)に託して、今を批判的に語るのは、ちょっと狡猾いんじゃないの、という思いもないことはないのだが、でてくる「ローマ人」のキャストがカエサルにしろ、スキピオにしろ、はたまたローマの敵役のハンニバルにしても、筆者の筆致がさえわたっていて、とにかく格好が良い。そのせいかうーむと納得して頷かざるをえなくなるのは、やはり筆者の術中に、まんまとはまり込んでいる証左なのだろう。

いったいに、「古代ローマ 帝国」あるいは「古代ローマ人」が、極東の日本に、ここまで膾炙したのは筆者の力といっていいだろうし、また、「古代ローマの歴史」というものを単なる歴史の話としてではなく、血わき肉踊るものにしたのも、筆者の功績といってよい。最近、戦国もののゲームに端を発して戦国武将人気が若い女性たちの間で高まっているらしく、カエサルを主人公にしたゲームや小説がでれば結構ヒットするかもしれないのだが、カエサルが登場する最近の小説は、ジョン・マドックス・ロバーツの「古代ローマの殺人」あたりしか、今のところ思い浮かばないのは残念。


最後に、本書からイタリアの高校の教科書にでているローマ人らしいリーダーの姿を引用して、この稿を終わろう。

「指導者に求められる資質は、次の5つである。
知力。説得力。肉体上の耐久力。自己制御の能力。持続する意志。
カエサルだけが、このすべてをもっていた。

 筆者が、こうした基準に照らして、リーダーとして高得点をつけているのは、カエサル、スキピオ、アウグストゥスあたりなのだが、昨今日本で、政治家をはじめとしたリーダーたちでこれに当てはまる人物はどれぐらいいるだろうか?


できれば、「ローマ人の物語」を読んでから、あるいは読み進めながら、箸休め的に読んだほうがいいものではある。

2009年6月4日木曜日

鴨志田 晃「消える中間管理職」(アスキー新書)

中間管理職がなぜなくなるか、あるいはなくすべきかといった「組織論」の話かと思って読み始めたが、ちょっと内容は違っていた。

 どちらかというと、IT化の進展や世界のフラット化の進展の中で、中間管理職というものがなくなっていくという現象を認識しながら、じゃあ、その中間管理職である我々は、何を目指していけばいいのか説いた本、といっていい。

 筆者は、こうした中間管理職の消滅、あるいはホワイトカラーの受難をとらえて、「ゴールドカラー」ともいうべきものに変化すべきで、それは、フリードマン(「フラット化する世界」の著者)がいう「自分の仕事がアウトソーシング、デジタル、オートメーション化されることのない人」=「無敵の民」ともいうべきで、それは、フラット化する世界で、個人として栄え、生き残っていく人なのだ、といったことを主張する。
 で、そうしたゴールドカラーになるには
  ①働くビジョンを持つ(Vision)
  ②学ぶ心を持つ(Intelligent)
  ③結果にこだわる(Trust)
  ④仮説を持つ(Assumption)
  ⑤まずは動く(Live)
  ⑥知識を蓄える(Information)
  ⑦頑健になる(Tough)
  ⑧前向きに考える(Yes)
がいったところが大事らしい。


 いったいに、IT化、WEB化、あるいはフリードマンのいうフラット化の進展の中で、働く人々の多くを占める、ホワイトカラーの「置き換え」はいろんなところで進んでいて、それは、労働が提供される場所を選ばないという点で、さまざまな空洞化をもたらしているのは間違いないところだ。

 そんな環境の中で、フラット化やIT化に侵食されない「人材」(「人財」という言葉は、この場合、まやかしっぽいので使わない)に変化してくことは、生活の糧を得るとともに、日々の暮らしを機嫌よくうっちゃるためには、非常に大事なことではある。
 ただ、なんとなく、経済構造の変化とのイタチゴッコかもなー、と思ってしまう。

 こうした、組織の簡素化というか、中抜き化は、江戸幕藩体制の時のように、準備されていた戦時体制が一挙に不要になり、しかも、体制自体は継続させねばならないといった要請がない限り、これからも加速していくであろうし、とりわけ、世界全体のグローバル化、フラット化が進んでしまった現在では止めようもないだろうと思う。そうした中で、個人が自衛していくとなれば、環境への適応変化をしていくしかないわけで、それはそれで必然だろうと思うのだが、一所懸命、山を登って、峠でしばらく休めると思ったら、また、山が聳えていた、といったある種の虚脱感というかやるせなさを予感させる。

そうはいっても、できるだけ良質の生活の糧を得ようとすれば、山は登らざるをえないわけ、まあ、頑張りましょうよ、とわが身も中間管理職である私としては、誰に、というわけでもなく励ましあってしまうことになる。

万能薬というわけでなく、ある種のカンフル剤として読んでみてもよい本である。

鯨の赤身の醤油煮

獣臭さがあるので、人によって好き嫌いはあるだろうが、なつかしさと相俟って、時折食べたくなるのが、私の場合"鯨肉"。黒い皮と脂身のところは、近くのスーパーの店頭にでるのだが、赤身のところは珍しい。

肉はちょっと片目で、獣味が強いのだが、最近の脂の多い牛肉より妙に肉を食っている感じになる代物である。



2009年6月3日水曜日

情報は一冊のノートにまとめなさい 100円でつくる万能「情報整理ノート」(Nanaブックス)

簡単に手を出せそうな情報管理術として、注目できる。
一体に、情報管理というのは、簡単に手を出せそうに見えて、実は、持続にかなりの労力と努力と信念が必要とされることが多い。
 
 例えば、システム手帳なんてのも、そんな類で、リフィルやらに凝って、あれこれ集めたり、自作したりしているうちは楽しいのだが、そのうち、自家中毒に陥って、手帳はパンパン、そのくせ、必要な情報はでてこない、ていうような状況になって(私だけか?)、結局、私の場合、システム手帳は、いつのまにかカードやポストイット入れとメモばさみと成り果てている。情報の重要度で4色のボールペンでマーカーしたり書き分けようと思い立ったはいいが、たいていベッドの近くには、黒のボールペンか鉛筆しか転がっていないし、4色ボールペンの赤はインク切れしていてでない、なんて状況だ。
 
 そういった点で、コンビニや文具店で100円程度で手に入るA6の手帳に、時系列にすべてを書いていく、筆記用具は何でもいい、というやり方は、単純で、すがすがしい。情報の一元化や精密化にとってハードルとなるのは、自分で決めた情報管理のルールと継続に要する経費の問題で、こうした簡単なやり方のほうが持続するんだろうと思う。
 

 
 ちょっと難点かな、と思うのが、これらのノートの保管だろう。検索性の問題は、メモにタグをつけて、そのタグをPCで管理する、といった方法で解決されているのだが、一番の問題は、おそらくは継続するにつれ膨大になるであろう、使用したA6ノート(PCではないよ、紙の「ノート」だ)を、どこにまとめておいておくのかいな。といったあたり。
 
 私の場合、仕事と個人の情報管理やさまざまな活動は、ミニタワー2台とノート2台、あとは家族共有のDebian化した、2台の玄箱ファイルサーバといった偏った環境でやっているので、こうした大量のアナログ情報とのシンクロは一番の課題のように思える。
 例えば、スケジュールはPCかスマートフォンに頼っているし、多くの書籍やファイル群はすでにスキャナなどで、デジタル化しているので、それとの親和性をどうするんだ、といった話もあり、個人的にいえば、そうしたデジタル的な親和性が、もうちょっと見えてこないと、なかなか移行できないよなー、といったところが本音ではある。
 
 ただ、まあ、一般の環境の話として、本書に書かれている
 
・何でもここに書く。一元化を徹底する。
・時系列を守る。時系列に、6桁(20090520なら090520という風に)日付を記入していく。
・資料はA6ノートに貼る
・ノート専門のペンは決めな
・スケジュールも、日記も、このノートに一元化する
 
といった工夫で「書くことを億劫にするハードルを下げて、フットワークを軽くする」というのは
情報管理の基本といってもいいだろう。
「何を、どこまで取り入れるか」っていうことは、各々の工夫に任せて、情報管理に関心のある人は一読してみて損はない。

2009年6月1日月曜日

メバルの煮付け

磯や防波堤で釣れるのを黒メバル、沖合の船で釣れるのを赤メバルというらしい。こいつはどっちかわからないが、見た目が赤いので、赤メバルとしておく。煮魚の典型みたいな扱いの魚だが、ノドグロに比べると、脂は少な目で淡泊である。値段はノドグロの方が高価らしいが、どちらが好みかは、ヒラメとカレイと同様に各人で別れるところだろう。冬から春が旬なのだが、日差しの強さを感じる日は、淡泊なメバルの方が、ビールには合うのかもしれない。

山陰浜坂港の「メバル」 (下処理済 冷凍)大 約24-27cm