2008年7月31日木曜日

玄箱のファイルを自動バックアップする

ext3でフォーマットしたHDDができあがったので、自動バックアップシステムの導入に進む。
次のサイトを参考というか、ほとんど真似して設定
http://blog.dc-d.jp/archives/607.html(データセンター ダイレクト ブログ)
玄箱のUSBに外付けHDDを接続。ターミナルから作業を開始
$ sudo e2label dev/sda1
$ sudo e2label /dev/sda1 usb-hdd
でファイルのラベル付け。
次は
$ sudo mkdir /mnt/usb-hdd
でマウントポイントを作成。
自動でマウントできるようにfstabを編集。
$ gedit /etc/fstab
末尾に
LABEL=usb-hdd /mnt/usb-hdd ext3 defaults 0 0
を追記して保存。
$ mount /dev/sda1 /mnt/usb-hdd/
でHDDをマウントする。
ここまでできたら、あと少し。
玄箱のファイルをバックアップ用のHDDに書きこむためのソフトをインストール。
今回はrsyncを使うので
$ sudo aptitude install rsync
でシンクロ用のソフトをインストール。
インストールできたら、ファイルをバックアップ用のHDDに書き込み。
$ sudo rsync -a --deliete /mnt/public/ /mnt/usb-hdd/
(/mnt/publicは私の環境の場合なので、適宜、それぞれの環境に応じて変更してね。あと、コピーのディレクトリが変わってしまうので最後の/は必ずつけること)
ファイルのバックアップが終わったら、次は自動バックアップの設定。
crontabに編集してもいいのだが、Webminでcronを設定。
[システム] → [予定済みCron作業]
「Cronジョブのスケジュール」の「cronジョブの編集」の「コマンド」に
rsync -a --deliete /mnt/public/ /mnt/usb-hdd/
を記入して、おそらく何も作業をしない朝の3時ころにcronジョブを実行する設定にして保存。
あとは、きちんとコピーがとれているか確認して出来上がり。
1日1回コピーをとるシステムで、RAIDじゃないけど、まあ、自宅鯖のバックアップシステムとしては、こんなもので上等ではないでしょうか。

ubuntuでext3形式でHDDをフォーマットする

玄箱DebianをSambaでファイルサーバとして使っているのだが、バックアップを手動で他のHDDやDVDなどのメディアに焼くのも面倒になってきたので、自動でバックアップできないかチャレンジすることにした。

まず、バックアップ用のHDDを準備する。玄箱のHDDの容量は250Gなのだが、あいにく、空きHDDはそれより小さなものしか手持ちがない。自動バックアップが目的なので、250GのバルクHDD(中古 IDE)を新規購入。

あわせて、HDDの外付けケースを購入。IDEにしたのは、規格が古びてきているので、外付けケースも割安なものがでているからなので、ケースも割安な玄人志向のGWS3.5AI-U2/CSを購入。

用意ができたら、次はHDDnoフォーマット。玄箱Debianに接続してやる方法もあるらしいのだが、よくわからないので、Ubuntuをいれて使っている茶の間ノートのThinkPad A21eでフォーマットすることにする。

まずは、必要なソフトをインストール。

Synapticでgpartedをインストール

次にフォーマットをGUIでできるようにする nautilus-gksu もあわせてインストール。
インストールしたら再起動。
準備が調ったところでフォーマットにとりかかる。

ターミナルでgpartedを起動

$ sudo gparted

そうすると、nautilus-gksuの、こんな画面が立ち上がる。(ギビバイトとなっているのがご愛嬌)

メニューから
[編集] → [すべてのパーティションをクリア]
を選択して、念のため、既存のパーティションを削除
次に
[パーティション] → [フォーマット]
を選択。そうすると、フォーマットの形式とかを選択する画面になるので、形式は「ext3」を選択。
フォーマットする容量は、今回の場合、250G全部を選択。
で、「すべての保留を適用」を選択すると、フォーマットが始まる。時間がかかるので、しばらくお茶でも飲んで待ちましょう。

塩野七生「ローマ人の物語 29」(新潮文庫)

古代ローマの賢帝の中でも、極めつけの賢帝と評価のある哲人皇帝 マルクス・アウレリウスの登場である。
 
といっても、この巻の最初は、誕生から前の皇帝であるアントニヌス・ピウスの「長い」次期皇帝(皇太子)時代が続く。
この「次期皇帝」時代の印象は、激情家ではなく非常に穏やかで、騒がしいことの嫌いな、前皇帝のもとで、すくすくと(表現としては適当でないかもしれないが、子供の成長の一つの姿を現す、この言葉がぴったりくるんですよね)皇帝修行をしている、「恵まれた若旦那さん」的な暮らしである。
 
マルクス・アウレリウスといえば、「自省録」など、哲学者の面も有名なのだが、かなりの独裁者で帝国内を飛び歩いているハドリアヌスにかわって統治の責任者を務めているといってもいいヴェルスの孫として、若い頃からかなりの優遇を受け(本書の途中にトラヤヌスからマルクス・アウレリウスまでの執政官などへの就任年齢を比較した表があるのだが、マルクスはやけに若くして就任しているものばかりなのだ)、また、財産もある。そうした若旦那的な生活スタイルが、哲学におぼれさせる一因でもあったのではないか、とも思う次第である。
しかも、ピウスの方針だったのかもしれないが、次期皇帝に指名される前も後も、辺境の地で軍務に就くという経歴もなく、さしずめ、お金持ちで名門のシティボーイといった暮らしを、皇帝就任まで続けることができたということは、それはそれで幸運なことではある。
 

で、なのだが、こうした穏やかな前半生とうってかわって、皇帝となってからの後半生は、帝国のあちこちで反乱ののろしがあがり、その鎮圧に奔走する、といったものだったらしい。そのあたりの原因について、著者は前皇帝アントヌヌス・ピウスの責任もなかったわけではないような件はあるのだが、まあ一番大きな要因は、時代の流れというか、ユーラシア大陸全体の遊牧民族の動きが、古代ローマにも及んで着始めたのと、永らくのパックス・ロマーナの中で、全体的に帝国の気風がトロンとしたものになって、それが帝国の周りの民族につけこめそうな雰囲気を与えだしたということなのだろう。
 
ということで、この巻は、マルクス・アウレリウスの平穏で学究的な前半生を中心に、波乱怒濤の後半生の幕開けといったところで、次の巻に続くのであった。

2008年7月30日水曜日

塩野七生「ローマ人の物語 28 すべての道はローマに通ず 下」(新潮文庫)

ローマ帝国のインフラを描いた巻の下巻が本書。
 
とりあげられるのは
 
ハードなインフラとして、水道
 
ソフトなインフラとして、医療、教育
 
である。
 
で、最初は「水道」である
 
ローマ帝国の代表である「アッピア水道」というのは、本書によれば、全長16.617キロ、うち地下が16.528キロで、ローマの東に連なる山地からローマ市内まで、延々と引いたもので、この距離を、当時、水道を引こうというのは、よほどの理念というか執念がないとできそうもない。おまけにローマというのは水資源はかなり豊富だったらしいから、同じように水資源の豊富な日本の住む管理人としては、わざわざなんでそこまでやるの、とツッコミをいれたくなるような代物である。
 
この「アッピア水道」以外にも「ユリア水道」やら「アルシエティーナ水道」やら「クラウディア水道」やら何本も水道を建設しているから、こいつはもう「道」や「橋」と一緒で、とにかく「繋ぎたい」という民族的な衝動なんだろうか、と非合理的な理由で片付けたくもなる。
 
 
特に驚くべきなのは、このアッピア水道の建設に取り掛かったのが、アッピウス・クラウディウスという人物で、アッピア街道の敷設をした人物と同一人物であるということだ。
 
 
道あるいは水道の整備というのは、古代に限らず現代でも、なまなかの期間では終結しないし、長い期間がかかればこそ、反対者もでてくる。そうした二つの事業を同時に動かすというのは、並大抵の精神力ではない。筆者が「アッピウスはインフラを、単なる土木事業ではなくて国政であると考えていたのにちがいない。そうでなければ、国家百年の計どころか、結果的には国家八百年の計になるローマ街道とローマ水道の二つともを立案し実行に移すことなどありえなかったと思うからである」と誉めそやすのも納得である。
 
そうした水道なのだが、このローマ水道が運んでくる水の配水先に占める「公」と「私」の比率が6対4で、この割合はかえられなかったらしく、このあたり「公」「パブリック」というものを重視したローマ人の律儀な性格ででている。
 
 
さて、次のソフトのインフラなのだが、ここででてくるのも、あのカエサルである。
教職と医療に従事する者にローマ市民権を全員に与えたのもカエサルかららしくて、いやはや、ローマ帝国の骨をつくったのは、やはりこの人物だったのね、と改めて思い知らされる。
 
で、へーと思ったのが、もともとローマ帝国時代は、教育は家庭で担うものと考えられていて、はじめは全部、私立でカリキュラムとか、そんなものは全く自由だったのが、キリスト教の支配が強化されるのと教育制度の公営化は歩調をともにして進み、教師の資格も、試験を受けた上で決まるようになった。そこで試されるのは、キリスト教への信仰の有無であった、というあたり。
教育というものに、干渉を強めるかどうかは、一神教的ともいえる価値観の単一化とひょっとしたら関連しているのかいな・・・と、まあいろんな論調を思い起こしながら、つぶやいて見るのであった。
 
 
で、ローマのインフラを扱った本書のレビューは、次の筆者の言葉で締めくくろう。
 
 
インフラは、それを維持するという強固な意志と力をもつ国家が機能していないかぎり、いかに良いものをつくっても滅びるしかない。これは、ハードなインフラだけにかぎったことではなく、ソフトなインフラでも同じことなのである。

 
 
「公」というものに関わる全ての人が、心に留めておくべき言葉である。

UbuntuにMetaFlameをインストール

ほとんど使う人はいないだろうが、シンクライアント・ソフトのMetaFlameのインストール方法をメモ
まずCitrixのHPからLinix対応のものをダウンロード。
tar版になっているので、任意の場所に解凍。
解凍したファイルのうち
setupwfc
をクリックするとインストール手続きが始まる。

①まず、「インストール」か「削除」か「セットアップの終了」を選択する画面がでるので
1(インストール)
を選択
②インストールするディレクトリを聞かれるので
y(デフォルト)
を選択
③ライセンス契約への承諾を求められるので
「1 同意する」
を選択
④新しいWebブラウザがどーとかと聞かれるので
y(デフォルト)
を選択
⑤エントリを新しいインストールと置き換えるか

と、ここまででインストールが完了。後はセットオプションの画面に戻るので、「セットアップの終了」を選択する
クライアント証明書による認証がある場合は、証明書を
ICACliant/linux86/keystore/cacerts
にコピー。
FireFox3.0の場合は、ブラウザ画面で、証明書の認証の例外も認めるかどうかを聞かれるので、例外を認めるをクリックするとアクセスできる。

2008年7月29日火曜日

塩野七生「ローマ人の物語 27 すべての道はローマに通ず 上」(新潮文庫)

ローマの五賢帝のうちアントニヌス・ピウスとマルクス・アウレリススの時代を描く巻の間に挟まれるようにして置かれているのが、この「すべての道はローマに通ず」の巻である。
 
ローマ帝国は、マルクス・アウレリウスの死後、その力を衰えさせていくのだが、その要因はマルクス・アウレリウスの時代に既に仕込まれていたといえなくはないので、いわば、ローマ帝国の物語の上り坂と下り坂のちょうど中間、峠のようなポジションで描かれているのが、この「すべての道はローマに通ず」の巻といっていい。
 
で、何が描かれるかといえば、人物ではなくモノ、「インフラ」である。当然、「インフラ」というのは、自然発生してくるものではないので、それをつくる人、つくるように計画した人はあるのだが、主役は「インフラ」である。いや、これも正確ではないな。「インフラ」にシンボライズされた「ローマ人の精神」とでもいうべきだろう。
 
 
この27巻では、そのインフラのうち
 
街道
 
 
といったものがとりあげられていて、インフラのうちでも、まあデカイものだ。
 

巻頭にいくつかの写真がでているが、まあ本当に立派というか、「元祖ローマ帝国製作」と看板がでていそうな代物である。(ローマの水道橋は教科書にも出る定番の建造物だよね)
 
 
で、思うのは、こうした「道」とか「橋」を国家として整備し、メンテし続けたというのが、やはり「ローマ帝国」というものの神髄を現してると思う。さらには、同じ建造物でも、エジプトやマヤ、アステカのピラミッドや中国の万里の長城あるいは、仏教遺跡のようなものではなく、人と人、町と町を「つなぐ」機能をもつ建造物を整備し続けたというのが、ローマ帝国が他の文明あるいは古代国家と違うところであろう。
 
それは、「開かれた」精神、あるいは「広がっていく」心といってもいい。こうした精神の基礎があったからこそ、「パクス・ロマーナ」といわれた世界国家が長期間にわたって存立しえたのであろう。
 
そこは、同じ世界国家であっても、「つなぐ」という設備を考えなかったモンゴル帝国とも、一番異なるところであろうし、筆者も最初の方に書いているが、「防ぐ」施設である「長城」を建設した中国の諸王朝とも異なる。
そして、結果的によかったかどうかわからないが、あまねくローマ市民権を与えたローマと、華と夷を峻別し、中心を明確にしていた中華帝国との違いでもあるのだろう。
 
 
そんな文明論的なことは抜きにしても、このローマの「街道」(この本でもう一つのインフラとしてあがっている「橋」も、街道を川といった障害物を越えて、伸ばす手段であるから「街道」の一環として捉えていいと思っている)のレベルと国土に張り巡らされている度合い、メンテの周到さは、執念みたいなものを感じて、これは、軍団を駐屯する際も、必ず「基地」という形で、様々な施設を含んだ「擬似都市」を作り上げるのが常であった、ローマ人のインフラ・フェチとでも言うべき性向があってのことなのだろう。
 
 
この「すべての道はローマに通ず」の巻は、派手な英雄も登場しないし、戦闘シーンもないので、読み通すのはちょっと骨が折れる(著者も最初の方で断りをいれているがね)が、腰を落ち着けて読めば、スルメのように味の出る巻である。

工人舎 SA5KX08AL 雑感

UMPCがほしくなって、そうは言っても、資金がないので、
Sofmapの中古で「SA5KX08AL」をゲット。
プールポイントとかを使う前のお値段が4万ちょっと、ということで、FeePc901の影響か、程度の割合に比べかなり値段も下がっている。
解像度は800×400で、かなりパフォーマンスは低いのだが、FireFox3.0であれば、画面のズームで縮小表示もできるようになったし、Sleipnierでも「表示」の「文字のサイズ」で小さなフォントを選べるようになっているので、その点はあまり苦にならない。
HDDの容量も80Gあるので、EEEpcのような苦労は必要ないし、YouTubeなんかは、出先ではほとんど見ないので不満はあまりないのだが、たった一つ不満なのは、スティックポインタやタッチパッドのドライバの認識が、時によってというか、2回のうち1回は必ずこけて、どちらかが使えなくなる状態になること。
いろいろググると、Biosの設定をDefaultにしておくといいとか、一度、画面を閉じて開くといいとか、システムの復元で、使えていたところまで戻す、とかあるのだが、どうも私の買ったものは、どうしても
2回に1回はドライバの読み込みでこけるのである。
しょうがないから、小さめのUSBマウスをつけて使っているのだが、誰か抜本的な解決法をしらないだろうか?
と、まあ、不満な点はあれど、欲を言わなければ(パワーのいるものはメイン機で処理し、データの大半は自鯖かNASに格納する、といった使い方を前提として、という意味ですよ)、軽くて安いマシンである。

2008年7月23日水曜日

勝間和代「新・知的生産術ー自分をGoogle化する方法」(ダイヤモンド社)

今、売れっ子の経済評論家である勝間和代さんの知的体力アップを図るノウハウと考え方が満載された本である。
こうしたビジネス本の効用の一つには、著者のパワフルさが読んでいるうちに伝染してくるっていうのがあって、
そうした伝染力が強ければ強いほど、読後は、「よし、俺も」っと元気がでるっていうことがあり、この本もそのパワーを十分秘めております。
「捨てる技術で大切なのは「Not to do list」を「つくること。すなわちやってはいけないことのリストをつくること」といった発想の転換に気づかせてくれたり、インプット力やアウトプット力を高める具体的な技術が、キチキチと提案されていたりとか、(「○○を高める6つの技術」とか「▲▲を見極める5つの方法」とか、なんとなくコンサルタントと話をしてきるような気分になるのは、著者の商売柄かもしれないが)、なんとなく勉強の凄くできる生徒会長から、勉強法を懇切丁寧に教わっているような気持ちになってくる。
なかには、ちょっとデジタル依存なんじゃない、と思ってしまったり(オーディオブックはそういった意味で、まだ、私にはなじみが薄いんだよな)、「本を読むときはスピード最優先で、線引きやまとめ書きといった面倒なことはしない」といった、おいおい、頭の良い人はいいけど、それじゃ俺らは頭に残んないんだよね、と思ってしまうところがないわけではないのだが、総じて、ふむふむ、これは良いですよね、といったアイデアと使えそうなノウハウが満載である。 

著者も「1%の本質を見極める5つの技術」の一つとして「本代をケチらずに良書を読むこと」とおっしゃっておられることでもあり、ここは千円札2枚と割り切って購入して、ワシワシ読んだ方が得だと思う一冊である。

2008年7月22日火曜日

フエダイの刺身

いつもの魚屋さんから「珍しいものが入ったよー」
と連絡があり、届けてもらった。
「フエダイ」という魚である。
刺身にすると、こんな感じになる


これが原型

Web魚図鑑によれば、南日本から香港にかけての黒潮域で獲れる魚らしい。「南」といっても静岡あたりでも獲れているから高知、九州の専売特許というわけでもなさそうだ。
山陰でも獲れるのかどうかは、確認し忘れた。
身は、鯛より締まっていて、コリコリしている割に、脂が多いね。Web魚図鑑の食味評価でも星4つ(非常においしく食べられる魚)になっている。納得である

2008年7月20日日曜日

宋 文州「仕事ができない人は話も長い」(日経BP出版センター)

元ソフトブレーンの創業者で、辛口の経済評論の宋 文州さんのメルマガをまとめた著作。
 
宋さんのコラムはNikkeiBPにも以前連載されていて(「宋文州の傍目八目」)、まだいくつかは読めるので、興味ある人は読んでみるとよい。
著者は名前で推測できるように、中国籍で、日本に留学したのが縁で、日本でビジネスを始められたのだが、その経歴と日本人の思考スタイルにどっぷりと浸かっていない、そのくせ日本人の思考スタイルを、どうかすると普通の日本人より理解している評論は、辛口ながら教務深く読める。
 
本書は、2004年から2006年までのメルマガをまとめたもので、宋氏自身もソフトブレーンの取締役を辞任したりしているのだが、世間ではホリエモンや村上氏などのネットバブルを謳歌した人たちが凋落した時と重なっていて、日本のネットバブルのまっただ中にいた人の証言禄として読んでも面白い。
 
で、いくつか印象に残ったフレーズを引用すると
 
「我々が他人に言われるから努力するケースは、ほとんどない。努力したい時に努力しているだけである。努力したくなるような環境をつくることが、上司や親ができるせいぜいの「努力」である
 
とか
 
他人がまだやったことのない新しいことをやり出すとき、いくら正しいこと、価値のあることであっても、すぐ理解される保証はない。初期段階ではむしろ誤解されたり、白い目で見られてりすることもよくある。開拓精神やベンチャー精神といえば聞こえはいいが、実行する人には大変な信念と勇気と忍耐が必要である。
 
新人のゴミ拾いと大声挨拶はこのためにある。正しいことだが、恥ずかしいし、泥臭い。それを抵抗なく実行してしまうのは、ベンチャー精神であり、引っ込んでしまうのは大手病である。
 
とか
 
いわゆる「統制」がとれている会社や、「戦闘力」あある会社ほど選択肢と柔軟性がない。そんな会社は変化した社会に適応できなくなるとトップが焦ってくる。「変化!変化!」といくら呼びかけても変化できない。社員の多様な選択肢を許し育てない組織の脆さである。
 
などなど。
 
ベンチャー企業の経営者らしく、変化と多様性に信頼を寄せている論調で、閉塞感のある時のビジネス書として読めば元気が出る。
 
最後に、この人の人生へのスタンスを最も現しているな、ともった一文を紹介してレビューの〆としよう。
 

「群れない。こびを売らない。傲慢にもならない。しっかり自己を持つ」

2008年7月19日土曜日

うちわえび

娘がパスポートをとりに、帰省していて、そのついでに御馳走を整える。
ひさびさに「うちわえび」を入手。よく行く魚屋さんが、娘が魚好きなのを知っていて、どういうわけか、「そろそろ帰省してくるんじゃないかと思ってた」ということで仕入れてくれていた。

最近は、あまり大きなものは手に入らないのだが、こぶりな方が味が細やかに感じたりする。
姿形はビラ聖人なので、グロテスクであっても味がよければ良い、という人にお勧めである。
味は、エビを繊細にしたような感じかな。塩ゆでにして、包丁に半分にきって、身をほじくり出して、そのまま食すのが良。


奥田英朗「港町食堂」(新潮文庫)

直木賞作家の奥田英朗氏(といっても、すいません、私、この人の小説呼んだことがありません、ゴメンナサイ。)の日本の港町を訪ねる旅行記。
 
なんだ、よくある日本の田舎の港町旅行記かと最初は思うのだが、この旅行エッセイは、すべてフェリーか何か船を使って寄港するあたりが斬新なところ。
 
訪れる港町は
  土佐清水
  五島列島
  男鹿半島
  釜山(プサン)
  新潟、佐渡
  稚内、礼文島
といったところで、貿易やら観光やら、それなりに盛んなところであるはずなのだが、どういうわけか礼文は真冬に訪れたり、なんとなくうらぶれて印象をもってしまうのは、この作家の持ち味なのだろうか。
 
作家と雑誌社の旅行でありながら、フェリーの個室に泊まらせてもらっているのは最初の時ぐらいで、後は、二等かそれ以下の雑魚寝といった扱いで、そのあたりも、なんとなく貧乏旅行っぽさが漂う。
 
旅行エッセイというと、初めキャピキャピ、最後は説教、といったところに堕してしまうのが、私の最も嫌いなパターンなのだが、大丈夫、この「港町食堂」は、きちんとそれぞれの港町の定番名物料理から、なんということはない喫茶店のカツカレーまで食べて、余計な美食談義はしない。そこで味わえる料理に、うまければ素直に感心し、夕食のあとの〆は、近くのスナックで、そこの若いおネエちゃんと盛り上がるという具合で、なんというか、安心して、サクサクと読めてしまうのである。
 
ということで、一番うまそうで、この旅行エッセイの旨味がでていると思う場面の一節を抜粋(「食い意地のせいなのか? 日本海篇」)
 
 
 イカの刺身、なかなか到着せず。忘れてるんですかね。時間はかからないでしょう、捌くだけだから。
 タロウ君に厨房をのぞかせると女将さんの姿がなかった。ええと、どこへ?
 窓から外の様子をうかがう。女将さんが港からイカを一杯ぶら下げて歩いてきた。あらま、注文も受けてから仕入れに行ったのか。なにやらうれしくなってきた。
 出てきたイカ刺しは甘くて弾力があって、最高の逸品であった。獲れたてとはこんなにおいしいものなのか。ワサビを醤油に溶かし、ちょいと付け、熱々のご飯に載せて、わしわしとかき込む。ほっほっほ。高笑いしたくなるではありませんか。</font>
 
 
どうです。
 

ちょっと、暇で、でも気難しい気分にはなりたくない時にオススメの旅行エッセイであります。

2008年7月12日土曜日

iPhone雑感

iPhoneが売り出されて、どこのTVでもその様子を放映しているのだが、携帯電話というものにイマイチそそられない私として、なんとなく乗り切れない。きっと、しばらくたって、口の端にものらなくなってから、ふいに買ったりするんだろうな、と思う程度である。
このiPhoneの争奪で、ソフトバンクとDocomoが争っていたのは、まだ記憶の隅っこに残っていて、たしか、この争奪戦に負けたのが原因かどうかしらないが、この後にDocomoはブラックベリーの個人用の販売を始めたはず。
Willcomやソフトバンクのスマートフォンだけでなく、これを機会に、DocomoがtreoやNokia、そしてiPhoneの対抗馬ともいわれたPalm Centroあたりを大々的に取り込んで、できたら日本でもPalmのスマートフォンが使えたらよいよねーと、いまだにClieを使っていて、キーボードがあると安心する、PDA残党は思ってしまうのである。
ついでに、kiyonariさんのブログによれば、香港発売のIPhoneはSIMフリーらしいんだが、こんなのが手に入るようになったら、ソフトバンクさん、やばいんじゃないですか・・・

2008年7月10日木曜日

ヨコワの刺身

身はちょっとゆるいのだが、脂もそこそこのっている。
マグロほど脂ぎっていないせいか、思ったよりサクサクと食べられる。脂が少ない分、ご飯よりビールや酒のつまみとして食す方がぴったりくる。
大トロとまでの贅沢はできないが、こうした贅沢はちょくちょくしたいね、と思う小市民である。

2008年7月9日水曜日

「リスクヘッジのために辞める」という価値観

NECのビジネス情報サイト Wisdom の 田中信彦さんのコラム 「新装中国ー巨大市場の底流を読む」の第1回 「中国人はなぜやめるのか」を読んで、最近の会社意識について、いろいろ思ったので雑感を少し。
(サイトURLは https://www.blwisdom.com/vp/china/01/)

コラムの中で、中国人が会社をやめる時の動機が3つあげられているのだが、
中国人には、一つの仕事を長く続けること、同じ組織に長くいることをリスクと捉えて「リスクヘッジのために辞める」という概念があるということにまず驚く。
この考え方の基本には、日本人と中国人の「安定」に対する考え方の違いがあって、日本人は「1対1の関係」(1対1で信頼関係を築くといったことだろう)になることで安定感・安心感を得るに対して、中国人は「1対1」の関係になることによって、選択肢を失ってしまうことに「不安定」を感ずる、といったことらしい。
確かに、日本人の「1対1の安定感」は昨今の、成果主義の見直しや新・家族主義の流れを象徴するものだと思うし、私も日本人として、共感するものが多い。
ただ、もう一つ、中国と日本の歴史的背景の違いに根ざす、「家族」への信頼度の違いがありはしないだろうか。

このコラムでも、一般の中国人が、リスクヘッジとして「副業」を持つことが多く、その内容が、家族や親族との会社経営であったり、夫婦共働きであったりすることをみると、根幹に「家族」というものが据えられているように思う。
一方の日本の「新・家族主義」が「家族」という名前はついているものの、その多くの内容が、会社における社員同士の親睦会や飲み会の開催や、運動会の復活に見られるように、その実態が「会社」の疑似家族化であって、血縁による家族の復権ではないように感ずる。
中国人の生き方の根幹に
「他者に自分の命運を握られない」よう最大の努力を傾けるのが中国人的生き方の真髄である。他者に自分の人生を左右される状態になってはいけない。人生のハンドルは常に自分が握る。そうでなければ安心できない
という意識がある、と、このコラムでもいわれているが、激変の歴史の中で、最後に信頼できるのは血縁の家族だけだった、という中国と、何らかの形で旧来の権威構造が存続できた日本との歴史経験の違いが、こうしたそれぞれの民族の反応の違いを生んでいるのではないだろうか。
それで、なのだが
こうした中国人の行動スタイルは、あながち否定的にとらえるべきなのかな、と思う、今日この頃なのである。
たしかに、こうした世渡りをされては、組織内に経験や知識も集積しないし、集団としての組織だった動きなんてできないよな、と思うし、最近の社会というか、多くの会社で、社員自体が活気を失ってしまっている状態が多くなっている中で、(その原因は、成果主義や個人主義の徹底やIT化による社員同士の分断といったことなんだろうが)その解決策として、教えあいや話し合いを増やすことや、会社内でのフォーマルでないつきあい(運動会といったようなもの)の復活が有効であろうことは分かるのだが、一方で、それが「新・家族主義」という名目のもとで昔ながらの会社への一方的忠誠心を求め、ややもすると応援団長と風紀委員的雰囲気の漂う「旧・会社主義」の復活に陥ってしまわないだろうか、という懸念も抱くのである。
「新・○○」と銘打って、また、どちらかというと息苦しさを感じるところもあった、高度成長期やバブル期の「みんな仲間だ、一緒にいこうぜ。なぜ一緒にこないんだ、仲間じゃないな」といった風潮の単純な復活は好むところではない。
結局のところ
会社が社員の人生全てをフォローできなくなっている現在、会社は会社で能率をあげて生き残るために、新・家族主義をツールに社員の紐帯を強めいくだろうし、社員は社員で、そんな環境の中で、いざという時と自分の精神的な逃げ道として、こうした中国人的な考え方を、スパイス的にもっている、という生き方が最良なのかもしれませんね、と、未だ日本的なサラリーマン環境にいる私としては思うのである。

2008年7月1日火曜日

Clieの本体メモリを節約ーLINKSTART

Clie NX70の本体メモリは、11Mしかないので、たくさんアプリを入れたり、メールで大容量のデータにあたったりすると、とたんに困ることになる。

 MSMountで大概のソフトはMS上に移せるのだが、ClieMailのデータベースとか、移せないものもあるので対応策を検索。 PowerRUNというシェアウェアを使うと対応できそうなのだが、そこはあくまでフリーソフトを探すというポリシーを貫くことする。

 あちこち探しまくるとLINKSTATIONというフリーソフトがあり、これが使えそうだ。

 参考サイトはココ(shino-jiのPalmware日記annex) でダウンロードページはココ(LinkStart for PalmOS)

参考サイトの解説どおり、フリーなのに、ClieMailのデータベースもMSに逃がすことができました。 MSMountと併用するのがお奨め。