2006年9月11日月曜日

宮嶋茂樹「不肖・宮嶋 空爆されたらサヨウナラ」(詳伝社黄金文庫)

体をはって、世界の戦場をかけめぐる、毎度おなじみのカメラマン宮嶋茂樹さんのコソボ紛争の体当り撮影記である。
 
 
と書いたところで「コソボ紛争」ってなんだったかな?と国際情勢にもかなり疎く、宮嶋氏の言葉で言えば「平和ボケ」している管理人は、素朴な疑問を抱いてしまい、ちょっとググってみる。
 
 
WikPediaによると
 
 
紛争は自治州内で90%を占めるアルバニア系住民が独立運動を行なったことにセルビア系住民及び連邦・セルビア政府が反発したことに端を発する。 
 
コソボ自治州ではチトー時代の1974年憲法により大幅な自治権が認められていたが、セルビア当局は1990年7月、自治州政府・議会を廃止、事実上自治権を剥奪した。これを受けて9月には
アルバニア人議員が「コソボ共和国」の独立を宣言する。 
 
しかし「コソボ共和国」は国際社会からも無視され、1995年のボスニア紛争終結の和平会議でもまったく顧みられることはなかった。 
 
一向に進展しない情勢に業を煮やしたアルバニア系住民の中には、ルコバの非暴力主義では埒が明かないと、武力闘争を辞さない強硬派のコソボ解放軍(KLA)を支持する者も多くなった。
 
またアメリカやEUがコソボ解放軍を支援していたとの情報もある。コソボ解放軍は1997年7月頃からセルビア系住民へ対しての殺害や誘拐などのテロ活動を行うようになり、1998年には遂にユーゴ連邦政府は反乱を鎮定するべく連邦軍を送り込み、コソボ解放軍との間で戦闘となった。 
 
 
というあたりが発端らしい。そして
 
 
1999年3月、コソボ問題の和平交渉が行われたが、その最終段階でコソボだけではなくユーゴ全域を実質的に占領するという和平案をアメリカが提出したため、ユーゴ側はこれを拒否した。それを口実にNATO軍は制裁の空爆を行った。 
 
2000年にセルビア軍はコソボから撤退し、一応の終結。以後、コソボは国連の監視下に置かれているが、今度はセルビア系住民に対するアルバニア系住民の迫害が問題となり、セルビア系住民の多くが難民となってコソボを追い出された。 
 
 
ということらしいのだが、それなりに当時は日本でも報道がされていたのだろうが、いつのまにかコソボどころかセルビアなんて国のことどもも、きれいさっぱり消えてしまっているところの、なんというか時代の流れの秦さというか、私たちの移り気なところをつかれてような気がするのだが、まあ、それはさておき、宮嶋カメラマンのコソボ潜入記である。 
 
 
で、読み口は、あいかわらずの軽妙な語り口。
 
なぜかギリシアに舞い戻ってしまった最初の潜入行の様子から、
 
車は借りれてもガソリンがないベオグラード、
 
そして、NATOの空爆で炎上する内務省のシャッターチャンスをを逃してしまったり、
 
千載一遇の撮影チャンスのコソボ・ツアーには、大メディアの後ろだてのないためあやうく落選しかかったり、
 
とか、
 
なんでもあり(なし か?)の状態に直面しながらも、その語り口のおかげか、いやらしい深刻味を感じさせないのは、この人の著作に共通している。
 
 
まあ、紛争の現場、戦争の現場なんてのは、どんなに深刻ぶった語り口で語られても、実体験していない「平和」な我々には、どうしても他所事になってしまうのが通例。こうした軽い語り口で語らないと、語れないような実体験もあるのだろうな、と想像の及ばないところを、敢えて想像してみようと試みるが、なかなか、そううまくいくものでもない。 
 
で、本の終わりは、停戦前にベオグラードをどうにかこうにか脱出して、コソボ解放は安全なところで見守ることになるのだが、その後、コソボがどうなったかというと 
 
 
コソボは形式上は未だにセルビア共和国に帰属しているが、事実上の独立国となっている。
 
しかし、旧ユーゴスラビア連邦の中で、コソボは最も貧しい地域であり、最先進地域でEU加盟も果たしたスロベニアとは8倍もの経済格差がある。
 
国家再生の足かせになるコソボに対し、セルビアが断固として独立を認めなかった理由は、それはコソボは中世セルビア王国の首都が置かれた場所であり、セルビア正教の聖地でもあったことである。1389年セルビア王国はコソボの戦いにおいてオスマントルコ帝国に敗れ、以後長らくコソボをオスマン支配下に置かれたこともある。
 
コソボは民族の栄光と悲劇を象徴する場所でもあった。 

 
 
ということらしく、なにやら経済だけでなく民族の記憶やら民族意識といったものが絡み合っているようで、まだ闇は深そうだ。

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