2006年2月5日日曜日

池波正太郎「むかしの味」 (新潮文庫)

「散歩の途中で何か食べたくなって」に続いて、池波正太郎さんの食べ物談義をとりあげよう。


根っからの旨いもの好きが幸いするのか、この人の食べ物本は嫌味がなくて、しかも、唾を飲み込んでしまいそうなところが多い。この本も、昭和56年1月から2ヵ年にわたって書かれたもので、実は「むかしの味」どころか「むかしむかしの味」といっていいぐらい月日が経っている。

文中で、筆者が

「新富寿し」の章で


私が、この店の鮨が好きなのは、種と飯との具合がちょうどよくて、飯の炊き方が好みに合っているからだ。
つまり、むかしの味がするからだろう。
〔新富寿し〕が、いかに客へ対して良心的であるかということは、鮨を食べて勘定を払ってみれば、たちどころにわかる。いや、わかる人にはわかるといってよい。


っていうあたりや


鮨は何といっても、口へいれたとき、種と飯とが渾然一体となっているのが私は好きだ。
飯の舌ざわりよりも、部厚い種が、まるで魚の羊羹のように口中いっぱいにひろがってしまうような鮨は、私にはどうにもならない


あるいは「〔まつや〕の蕎麦」の章で


多くの人たちは、もりをやっている。
つまるところは、もりがうまいのだろう。
私などは、時分どきをはずして入り、ゆっくりと酒をのみながら、テレビの日本シリーズなどをたのしむ
いまは食べ物屋の経営が非常にむずかしくなった。

・・・

だから〔新富寿し〕といい、この〔まつや〕といい、むかしの味もさることながら、むしろ、「むかしの店・・」の気分を、ありがたく思う。


など、こうした諸々の舌ざわりや店のたたずまいなどが、「むかしの味」「むかしの店」といったものなのだろうが、ちょっと、そうしたあたりの想像が辛くなっている。

こうした「むかし」へのこだわりを含めた、池波正太郎の味というか味覚感は、戦後というか、日本の近代の大きな転換であった太平洋戦争、第2次世界大戦というものの影響抜きには話せないようだ。

例えばそれは

〔まつや〕の蕎麦 のところで

   弁当なしで出勤することが可能になったのは、たしか昭和二十五年頃ではなかったろうか。
   蕎麦が食べられるようになったからである。
   一般的にいって、外食の復興は、蕎麦から始まった。

あるいは、「チキンライスとミート・コロッケなど」の章で

戦前の銀座の匂いは、まさにバターと香水の匂いがしていた。そのモダンな香りに井上も 私も 酔い痴れていたといってよい。

また「中華料理」の章で

私たちと同業の若者たちが召集されると、どうも戦病死が多かった。
ペンと算盤しか持ったことがなかった従兄も、たちまち、軍隊に生気を吸い取られてしまい、
 重病 にかかり、兵役を免除されて東京へ帰ってきたが、これが原因となって戦後間もなく亡くなってしまった。

などに見ることが出来る。戦争あるいは兵役という形で、死ということに正面から向き合わざるをえなかった歴史と、その中での「食べ物」というものを浮き彫りにしているかのようである。
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こうした、「むかしの味」「むかしの店」への憧憬や失われたものへの愛着は別にして、失われた蜜月を知らない私たちにも、旨そうでたまらない一品の紹介。

それは、「ポーツカツレツとハヤシライス」の章。

 都会のカツレツのように体裁をととのえるわけでもなく、ただ豚肉をぶった切って揚げただけにすぎないという、山の湯の宿の武骨なアkツレツ。
 これを・・・半分残しておき、ソースをたっぷりかけ、女中に
「これは、朝になって食べるから、此処へ置いといてくれ」
と、いっておく。
 ・・・朝になると、カツレツの白い脂とソースが溶け合い、まるで煮凝りのようになっている。
これを炬燵へもぐり込んで熱い飯へかけて食べる旨さは、余人はさておき、私にはたまらないものだった。

ってあたり、思わず涎がでそうである。


小難しいことはさておいて、時代を超えて、旨いものは旨いのだ、と思ってしまった一節である。

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