2006年2月19日日曜日

開高 健 「もっと広く 南北両アメリカ大陸縦断記 南米篇」上 (文春文庫)

「もっと遠く」に続いたアメリカ大陸縦断記の南米篇である。
南米篇は、メキシコから始まる。もちろん、南米にメキシコを入れるのは筆者も躊躇しているが、スペイン人の征服によるアステカ帝国の滅亡から現在までの宗教、風俗、史的体験からして北米とは異なるものとして南米篇にいれたものだという。そういえば、今までのオリンピックの開催国で、オリンピック開催後、国威を著しく落としたのはメキシコだけだ、という逸話をどこかで読んだことがある。

そんなメキシコから始まり、コロンビアまでいたるのがこの南米篇の上巻である。

メキシコに入ると、すぐさま「モクテスマの復讐」に襲われる。とはいっても事件ではない。下痢である。コルテスに滅ぼされたアステカ帝国の最後の皇帝  モクテスマ二世が、メキシコにくるあらゆる外国人に、皮膚の色や国籍おかまいなしに、下痢でたたって歩くのだそうだ。アメリカやヨーロッパにやられっぱなしのメキシコのささやかな復讐というわけか。

メキシコで釣った魚は、タイの一種のワティナンゴとハタぐらいでたいしたことはないが、出会う料理は、捨てたものではない。
「ワティナンゴ・ア・ラ・ベラクルサーナ」という料理は、ワティナンゴという魚に軽く衣と油をつけて熱い油で揚げ、それにトマト、タマネギ、ピメンタなどを入れた熱い透明なスープをかけたものなのだが、その味は

魚は赤いけれども肉は白身で、もろく、高雅である。ピメンタは日本のピーマンにそっくりだけれど、とびあがりたくなるくらい辛くて、食べていると、額からタラタラと汗が出てくるほどである。しかし、香ンばしい油、はんなりとした塩味、気品のある白身のまざりぐあいは、まことに逸品であった

というぐらい旨いもののようだ。

メキシコを出てヴェネズエラ、コロンビアに向かうにつれ釣りも少しずつ大物になってくる。

ヴェネズエラで出会うのはヘラブナを巨大化したような(15キロはあるようだ)カチャマという川岸の固い木の実を噛み砕いて食べている魚で、むっちりとした野豚のような白身の肉をもった魚であるし、コロンビアで出会うのは

みごとに成熟した巨体が水しぶきを散らし、全身をぬき、頭をふって跳躍し、どさり、バシャーンッと落ち、ついでニ、三歩走ってもう一回、姿をぬいた。ふたたび、どさり、バシャーンッと落下する。空と、積乱雲と、ジャングルと。湖、すべてに充満する力の精粋を結集し、野性の精華そのものとしてのニ瞬

を見せてくれるパヴォンという魚である。

旅は、ゆっくりと南下していく。豊饒へ、熱情へと向かっていく。

筆者は、その原因とでもいえそうなものを記している。

この大陸はカトリック教に侵されている。あらゆる国がカトリック国である。ヒトの情念には辺境残存法則という法則が作動して、周辺にいけばいくほど中心の本質がいよいよ濃厚に頑強に保持されるという原則がある。ローマのヴァチカン法王庁は伝統のさまざまなタブーにたいして打破はできないまでも少なくとも修正や理解や歩みよりの姿勢を見せているが、私たちが通過しつつある新大陸においては旧教がいよいよ強烈である。

モノにしろ、ヒトにしろ、自然にしろ、旧大陸の熱情が、辺境にはまだ色濃く残っているのかもしれない。

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