しかし、「不味い!」とは、いかにも人を食った書名である。
なぜこんな書名なのかと「あとがき」から引用すると
「不味いもの」は「美味いもの」があってはじめて成立するものなのだから、味覚文化の上からは実はちても大切なことなのである。人はその長い歴史の中で、常にその「不味いもの」を見本として、いかにそれより「美味いもの」をつくり上げるかの繰り返しであった。だからこそ「不味いもの」はいつの世にも残しておくべき「負の食文化」ともいえよう。
といった尤もらしいことから始まるのだが、どうしてこうして、ついつい本音がでてきて、
美味しそうだなあと思って入った食堂、買った食べ物などが、とんでもなく不味いものであった時の悔しさと怒りは、誰だってそう簡単には治まらない。
( 中 略 )
かくいう俺も、ずいぶんと遣り切れない悔しさを長年積み重ねてこれまで来たものである。
そこで俺は、いつかはこの鬱憤を晴らしてやろうと機を狙い、文章でそれを遂げたのが本書である。
といった不敵な本が、本書である。
とはいっても、この人の「不味いもの」は、いわゆるグルメ本によくある、どこそこの産じゃないとか、昔はよかった、あそこはよかった的な本ではない。第一、この先生、発酵学の権威らしく、臭いのきつい(普通の人なら、うっとなりそうなものだろうなきっと)食品から虫まで、かなり、その間口が広い人である。
(「世界怪食紀行」などを読むと、およそとんでもないものも旨い、旨いと食べているのである)
その人が「不味い」というのだから、その不味いものは、調理に手が抜かれているものから、おおそ素材から不味いもの、哲学という味付けなしには食べようとは思わないもの、といった読みなり「不味そ~~~」と声を上げたくなりそうなものがでてくる。
例えば
かなり寂れた食堂のカツ丼から途中で種目変更したような「ソース味の親子丼」
ホテルで飾り物程度に置かれているお茶のティーバッグ
カラスの肉のろうそく焼き
しけったピーナッツやビールの体をなしていない焦げ臭かったり、ホップが全く効いていない「地ビール」
「つゆ」ではなく冷たい水をつゆ代わりに食べる「水そば」
などなどである。
しかし、しかし、である。小泉先生は、そんな「不味い」ものにも果敢に挑戦するのである。しかも、悪戦苦闘しながら、どうも全部たいらげているらしいのである。
食文化は、こうした鉄どころかジュラルミンの胃袋を持つ偉大な先人たちによって築かれてきたのだなー、と妙な感慨さえ覚えてしまう。
まあ、御一読ください。「美食本」ではないですが、単純な「不味い本」でもないですよ。
これぐらい、不味いものがどんどこでてくると、むしろ爽快感さえ覚えてしまった本でした。
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