2006年3月5日日曜日

古今亭 志ん生 「なめくじ艦隊」

もともとは旧幕の槍の指南晩の家で三千石の知行をとっていた家で、父親も警察官をしていた家に生まれたのだが、道楽が過ぎて落語家(「咄家」というほうがぴったりくるか)になってしまった昭和の名人といわれた古今亭志ん生の半生記の自伝である。
 
本書の由来は、志ん生が、とんでもなく貧乏だったころ、本所の業平町の貧乏長屋(なんと家賃がタダの長屋だ)に住んでいたのだが、無料だけあって、ジメジメと湿気が多い。尼が降ると、たちまちあたり一面泥の海になってしまうようなところで、ナマクジが、夜となく昼となく大量に這い回っている。
そうしたナメクジの多い長屋の風景を、徳川夢声が、日本海軍の大艦隊になぞらえて「なめくじ長屋」と称したのを拝借したもの。
 
 
道楽者で酒が好き。おまけに咄家といういろんなエピソードにあふれた世界に生きてきただけあって語られるエピソードも破天荒なものが多い。
 
 
いくつか引用すると
 
 ライスカレーを食ったために給金を下げられた前座がいた。というのも、その頃(大正のころか?)は、よっぽど金持ちか偉い人でないかぎり、西洋料理なんて食えるものではないと諦めていた。「ライスカレーなんて大変なもの」だったから、前座の分際で食うなんて、とんでもない、ということで給金を下げられたらしい。
(当時、前座の給金が15銭ぐらいで、ライスカレの値段が8銭ぐらいしたようだから、今の時代でいうと8万から10万円ぐらいの料理か)
 
といった時代を感じさせる話とか
 
 旅のドサ回りの途中で、お金がないまま宿屋に泊まり、翌朝金がないのがわかったところ、宿屋荒らしと間違えられて留置場行き。そこで地元のヤクザの大親分と仲良くなって、その大親分の差し入れをご馳走になりながら、噺を毎日聞かせていた
 
とか
 
 戦時中、大辻司郎の紹介で、ビールを料理屋でこっそり飲み、帰りの土産に、大きな土瓶にビールを入れてもらったはいいけれど、途中で空襲警報。
「爆弾が落ちて死んだら。これ(土瓶に入ったビール)がもったいない」と地面に座って飲み始めたはいいが、すっかり酔ってしまい、そのまま寝入ってしまった。翌日、土瓶を下げて家に帰ったが、
 
「はげしい大空襲の下で飲んだ時のビールの味なんてものは、忘れられるものじゃやありませんナ」
 
 
といった話を、ちょっと伝法な江戸っ子らしい語り口そのままに読んでいると、まるで高座から志ん生の噺を聞いているような心持がしてくる。
 
 
また落語会というか、噺家の世界のこぼれ話のようなものも、また面白い。
 
例えば「噺家の階級の噺」
 
噺家になると、まず最初は「見習い」。着物だとかはかまのたたみ方。お茶の出し方というようなことをならって噺家の雰囲気てえものを知る。それから「前座」「二つ目」となっていき、二つ目でも古くなって、どこへ出してもお客さんをまんぞくさせるようになってはじめて「真打ち」になる。二つ目のうちは、どんなに年をくっても「兄さん」と呼ばれ「師匠」とはけして呼ばれない。
 
とか
 
三味線が入って高座に上がるのは、関東大震災以後で、それまでは太鼓(「かたしゃぎり」といったらしい)だけで、スッと高座に上がった
 
とか
 
真打になると車(人力車)にのらないといけない。寄席の脇には、みんなの乗ってきた車がズラーッと並んでいて、高座をつとめると、自分の車の待っているところに行って、腕組みをしてツーッと乗る、といった格好の良いところをみせるのだが、実は、真打成り立ての頃は、車屋に払う金にも事欠くのが実態
 
 
などなどの噺が続く。
 
とはいっても、馬鹿馬鹿しい話ばかりではない。
そこは厳しい修行もし、貧乏暮らしも長く、戦中・戦後の大動乱を生き抜いてきただけあって
 
 ほんとうに芸を一身にぶちこんでやれば、眼のある人はきっと見てくれます。そういうことが一つのきっかけとなって、しだいしだいにあたしの芸というものが人々からみとめられ、地位もどうにかなってきたんですよ。
 だから、人間てえものは、無駄なときばかり骨を折ったってだめですナ。何かそういうチャンスがきたときに、それをガッチリとつかまえて奮闘することですよ。けれども、ただ奮闘するといっても、はなに自分がそれだけのものを仕入れていかねえことにゃダメなんで、ネタのない手品は使えないわけですからね。ただ気分だけじゃどうにもならぬ。
 
 
 皮肉な世の中のウラをしゃべろうというのには、どうしても、あらゆることを経験しなければダメなんですね。・・・
 噺家として世の中の人が十分認めるてえのは、ある程度年齢がこないとダメだというのは、つまりそこなんじゃないんですかナ。
 
 
 あんまり早くから売り出すてえと、きっと早くくたびれちまうんですナ。みんな若い時分には威勢がよくて、はなばなしいが、年とってくるとじみになって、ガタンと落ちてくるもんですからね。
 年とってから人気があって、どうにかつとめたというのは、故人になった小勝つぁんぐらいなもんですよ。あんまりいませんね。たいていはいつとはなしに、ローソクの火みたいに消えてしまうんですナ。
 
といった話は、心にトンとくる。
 
 
そして
最後にもう一つ引用して、このレビューを終わろう。
 
 むかしの噺てえものは欲でこさえたものじゃなく、こういうおつな噺があるってんで自然にできあがったものなのに、いまの噺ってえものは、何でもいいから客を笑わせるつもりで、でっち上げるもんだから、鼻持ちならんようなものも出てくる。
 つまりチャチなくすぐりが多くなって、自然のおもしろみやおかしみじゃなくて、とってつけたようなおかしみになってくる。

 
ブログ書きとして自戒すべき言葉である。

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