この本の最初、「はじめに」の項で、筆者の下川裕治は、こんな風な呟きを記している。
五年ほど前からだろうか。僕は仕事で出向くたびの日々のなかに、ぽっかりと空いた一日をつくることを試みることにした。僕の仕事はカメラマンと同行することが多い。彼らには悪いが、旅の最後の一日は自分の旅にあてようとした。・・・ようやく手に入れた秘密の一日ー。そんなときはまず、バス停か市内電車の駅に向かう。いままで乗ったことのない路線を選び、知らない町まで行ってみる。あてもなくひとつの角を曲がり、あの先にはなにがあるだろう・・・と進んでいく。僕は旅先ではよく歩くほうだが、二、三時間もするとさすがに疲れる。休みがてらにそば屋に入り、隣でおじさんが食べている麺を指さしてみる。夕暮れ時なら一杯のビールだろうか。もう少し時間がとれれば、一泊二日の旅に出ることにしている。先日もバンコクの仕事が終わり、翌日の飛行機でラオスのビエンチャンに出かけた。明日はバンコクに戻り、その翌日には東京に戻っているのだが、それまでの時間、アジアに身を任せることができれば、僕は少しだけアジアの空気を体に吹き込ませることができた。そんな旅を何回か続けているうちに、僕自身への旅は、日本で働く人々にとっては、「アジアの週末旅」になることに気がついた。
それは、アジアへの旅が今までのように自由でなくなって、いろんな拘束(国家的な意味ではなく、社会的な、年齢的な制約や拘束)をもつ中で、できる限り自由を求める筆者の呟きを現しているようで、ちょっと時間の流れを感じてしまう。そういえば、以前の下川さんの著作は、もっといい加減なところがあったよなー、と感慨にしばしふける。
とはいいながら、そこはプロの旅人。旅への思いは半端ではないから、時代が経過したならしたなりに、「アジア」を描き出してくれる。
収録は
一章目が「バンコクから足をのばす東南アジア週末旅」
・バスで2時間の距離を二日がかりで走る寛容列車旅(バンコク・ウォンウェンヤイからメークロンへ)
・カンボジアの車と悪路で蘇るバックパッカーの旅心(カンボジア・パイリン)
・人と人との間に突き刺さるものがない町(ラオス・ルアンバパン)
・物乞いの圧力にさらされてこそわかる仏教徒の「謙譲」(バングラデシュ・コックスバザール)
・中国国民党の老兵たちが待ち続けた出撃命令(タイ・メーサロン)
・バスに揺られて七時間。コーヒーの花の抗体をつくりにいく(ベトナム・パントメート)
二章目が「お隣アジアへの週末旅」
・気まぐれ無賃無賃乗船で訪ねた島は、夜になると港町が出現する(韓国・ピグム島)
・懐かし中国夜行列車で訪ねる国境で出会う北朝鮮(中国・丹東)
・幾重にもねじれた台湾の密輸島(台湾・金門島)
・年に一回のテレサ・テンの墓参りを去年は実現できなかった(台湾・金山)
・沖縄宿と街歩きで深みにはまって(日本・沖縄)
(番外編)
・巨木の森で寡黙に浸るアメリカ式キャンプの仄暗い快感(アメリカ・ロサンゼルス)
である。
で、語られるアジア、あるいは週末旅といったら
駅のホームの上に自分の家を作ったり、運行本数の少ないのをいいことに線路の上に次々とパラソルを開き、野菜や魚を並べ露天市場を始めたりするタイの田舎町の風景であり、
ピックアップトラックの荷台で国境を目指すが、途中で車のシャフトが折れて断念せざるをえない、カンボジアの旅であり、
コンピュータにフライト時刻はでてくるがその空港のある都市まで行かないと予約はできず、おまけに欠航は当り前で、本当のフライトスケジュールは前日にならないと決まらない国内線の話であったり
中国本土から追われながらも、まだ台湾の国民党政府から出撃の命令を待っている分派がタイの山中に町をつくっていたり、
どこから見てもアジアらしいアジアばかりなのである。
第二章は、近くの国への週末旅。韓国、中国、台湾そして北朝鮮である。
タイやカンボジアなどに比べ、距離も短く、時間もたっぷりとれる近場の旅が物語られる。
それはアジアの歌姫であるとともに日本人の情感を「もっともうまく歌いあげていたテレサ・テンの墓参りであり、無邪気ともいえる北朝鮮の娘が働く、国境近くの中国の酒場であり、テーブルがどんどん物置になってしまい、住居の方まで食堂が広がってきている沖縄の食堂である。
そして、日本の近くの国とはいっても、ここにはやはり、アジア的な猥雑さが顔を覗かせている。
そうした「アジア」の香りというか匂いに、どことなく安心して、ちょっと肌に粘り着くような空気の感触を漂わせるであろう旅に憧れてしまうのは、私だけだろうか。
また、アジアへの旅をしたくなってきたなー。
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