全体として、肩肘はった書きぶりをする人ではないので、すらすらと読めるのがうれしい。例えば、自分の母親が亡くなったあと、両親の家を片付ける場面で
この休み、親の家で私は相当、ものを捨てた。親は世代的に「もったいない」精神がしみついているのか、とりあえずとっておく癖がある。箱とか紙袋とか。
貰い物も、すぐには使わないとみると、元通り紙に包んでしまい込む。すると、中がなんだかわからなくなり、「ある」ことそのものを忘れてしまい、単なる場所ふさぎと化すのだ。
というあたり、同年代に属するせいか妙な連帯意識を覚えてしまうし、
今年一番に繁忙期である証拠に手帳のページが数週間にわたって「真っ白」。(つまり、外へ出歩いたり、人と会っている暇などなく、だたひたすら、家の中で原稿書きをしなければならないので)エッセイストの市ごとは、スケジュールがいっぱいのときよりも、家にいる日こそがいちばん忙しい
とか
会社勤めの人より一日の実働時間は短いだろうが、何かこう、だらだらとい忙しい。
とか
書評でとりあげるのは、刊行されてからだいたい3ヶ月以内のものという制約がある。あんまり前のだと、読者がせっかく記事を読んで本屋に行っても、ないことが多いからだ
や
雑誌の特集は、4月は「梅雨の湿気対策」だったし、6月は「ひんやり涼麺」だったし、齢を取るのが2ヶ月ずつ加速しそう
などといったところは、現職のエッセイストが楽屋裏を垣間見せてくれている面白さがただよう。
あまり構えずに、暇の折々につまみ食いするように読むと、心をなごませてくれるエッセイである。
最後の12月の章で
押し詰まって二十八日、まだ原稿を書いている。
二十九日、まだ原稿を書いている。
でも、書くものがあるのは嬉しいこと。来年、再来年の今頃も、こうでありますように。
と本当にエッセイを書くのが好きなのだな、と思わせる件があるが、これをもじってこのコラムの終わりとしよう。
「でも、読むものがあるのは嬉しいこと。来年、再来年の今頃も、こうでありますように。」
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