2005年11月27日日曜日

塩野米松 「中国の手業師」(新潮OH文庫)

中国の職人たちのインタビューで構成された、革命以前から、文化大革命をへて、現在へと続く伝統の手工芸の記録。
 
収録は
 
陶磁器(景徳鎮)、急須(宜興)、櫛(常州)、切り絵(河南村)、凧(維坊)鳥篭(北京・南人村)、胡弓(北京・瑠璃廠)
 
といった品々。
 
インタビューを受ける職人たちは、いずれも昔の徒弟奉公の時代から、そうした手工業をはじめ今まで、その技をつないできた人たちの話である。
 
一様に、徒弟奉公の時代は、師匠に殴られはしたが、きちんと技術を盗みながら教えられてきたことを懐かしみ、今の時代は、弟子入りしてくる子供に強いことも言えない時代で伝承もままならないのを嘆く姿が共通している。
 
どうも、伝統芸能、技能の伝承といったことでは日本も中国も同じらしい。
 

昔は、12歳とか13歳ぐらいの若いときに弟子入りして、心も体もまだ柔らかかった。いまは学校を卒業してからくるから利口になっているし、口は達者になっている。教える環境も厳しくない、といった言葉が、伝統技能にとって厳しい状況を物語っている。
 
修行中の生活は厳しかったと述懐する職人がほとんどだが、「師傳のところではおなかいっぱい食べられました。一年ぐらい働けば、みんな肥っちゃって、力もすごくついてきやす。・・・いなかではそんなには食べたことがありませんでしたから。」ということがこ弟子入りが続いた理由を物語っているようだ。「衣食」足ったら、伝統が廃れちゃったわけだ。
 
しかし、こうした時代の変化にも増して、伝統技能を滅ぼすもととなったのは文化大革命のようだ。
 
政治が一番優先で支配的だったので、つくるものでさえもがすべて政治に合わせて指示されたり、お茶の茶碗とかご飯茶碗に花模様のあるものさえ使えなかったとか、人々の暮らしを思想にあわせると、小さなもの、美しいものはこぼれおちていくのだろう。
 
例えば、宜興の急須づくりでは、「卓球外交が取り上げられると卓球外交の彫刻を(急須に)つくったり、毛沢東が人民も兵隊となろうという呼びかけをした時には、民兵の像をつくったり紅衛兵をつくったり」ということだったらしい。ほとんど、観光地の安っぽい土産物状態だ。
 
政治や思想が人々の暮らしのすみずみまで入り込んで支配権をもつと、あまり良いことはないということが、ここでも証明されている。
 
そして、さびしいことに、ほとんどの職人が弟子をもっていなかったり、とるつもりがなかったり、退職後はこうした仕事には携わらないといっている。(息子たちに技を残すといっているのは切り絵の人ぐらいだ)。中国政府は、こうした伝統を守ろうとしているらしいが、一度、衰退の風が吹き始めると、政府が旗を振ろうがどうしようが、流れは動いていくということか。

0 件のコメント:

コメントを投稿