2005年11月1日火曜日

小林紀晴 「アジアン・ジャパニーズ 1」

3年半勤めた会社を辞め、フィルムを数十本抱えて、アジアへあてのない旅行にでかけた筆者が、アジアで出会った日本のバックパッカーたちの記録と、彼らに再び日本かアジアで再会した時の記録。

本の表紙の、街角で振り返っている女性、また、通りの向こうへ走り去っていきそうな女性の姿が印象的な本である。

普通の旅本なら、旅行先で出会った人のことを書いても、日本で再会するときの話は書いていない。再会することがほとんどないことも事実だろうが、アジアの旅先のことは、日本とか隔絶した別世界のこととして、旅先の稀ごととして心の中で扱われているのが原因ではないだろうか。この本の筆者は、きっちりと日本で再会したことも記録している。それが、この本に普通の旅本でない、リアリティを与えているように思える。

しかも、アジアで出会う人たちも種々雑多である。息子がいながら(と、その人は主張する)日本を捨ててしまったような人(20センチの家財道具)、旅に出ることが日常になるとそれも一つのありふれた生活になることに気づきながら、なお旅をする青年(かっこよくない旅)、何かを追い求めるかのように前へ前へと進む旅(消えてしまったパスポート)もあれば、探し物があるかのようにひとところに立ち止まる旅(ガンガーとフクロウ)もある。

人それぞれに、旅もそれぞれなのだ。

そして、旅がそれぞれであるように、旅の後も、人それぞれである。

旅で出会った人と結婚し日本に落ち着く人(東京の曼荼羅)、空間的な旅は終わっても時間的な旅、自分にあった職業を求める旅は終わらない人(終わらない旅)、この世でない所に自ら旅立った友人(キャンバスの軌跡)

しかし、旅の途中と旅のその後の話を読んで、二つに種類に分かれることに気がつく。旅に再び出る人と出ない人、それは空間的な問題ではなく、捜し求めているものが、実は自分の中や近くにあったか、そうでないかの違いではないだろうか。
「変わりたいと思っている自分も、変われないでいる自分も、これから変わっていくかもしれない自分もすべて自分なんだと思った。それが本当の自分だと」と思う人(天使と、女神と、彼)と「先のことを決めるのって、とても難しいことだと思う。だからわからない。それに決めたからって、その通りにいくとも限らないし」という人(終点のブッダ)の違いなのかもそれない。

どちらにしても、旅は終わっていない。

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