2005年11月20日日曜日

中津文彦 「消えた義経」(PHP文庫)

源義経は平泉で死なず、北へ向かったという北行伝説を推理する歴史ミステリー。

プロローグは、津軽の十三湊(とさみなと)で鎌倉の諜者が、北の大陸から大量に渡ってくる船に驚愕している。噂では御曹司(源 義経)が靺鞨(まっかつ)の騎馬軍団をつれてくる船だということだが、果たして・・・という

というところから、小説は、平家滅亡後、頼朝と義経の仲が悪化し、義経が都から姿を消した時点からスタートする。話は、鎌倉幕府から義経の捜索を命ぜられた和田義盛配下の武士の目から語られる。

義経の逃亡と死については、いわれてみると謎ばかりである。

追討の院宣が下されていながら、なぜ、義経は西国から奥州まで(さほどの事件もなく、妻と子供づれで)逃亡することができたのか。そして、一時は、義経の居所をつかんだようなのに、なぜ頼朝は、しゃにむに義経を探し出し、討伐しようとしなかったのか。

頼朝に代表される東国の鎌倉政権に従うことをよしとしない後白河法皇をはじめとする朝廷、西国の武士、比叡山をはじめとする寺社、それに対して、守護・地頭の派遣、配置を通じて、日本全国を東国政権の支配下におこうとする頼朝たちの虚々実々の駆引きの中で、泳がされているような義経の姿が描かれる。

そして、平泉でも同様なことがある。

なぜ、あれほど義経の滞在を認めなかった藤原氏が突然、義経の存在を認め、しかも戦の際は義経の下知に従うことになっていながら、当主自らが義経を攻め滅ぼしたのか。また義経が死んだため名目がなくなったはずの奥州追討を院宣の届くのをまたず、なぜ頼朝は強行したのか

こうした不自然な動きの底には、義経を戴いて戦端が開かれれば、鎌倉を揺るがしかねない奇策が潜んでいたのではないか、と問いかけるのがこのミステリーである。

歴史ミステリーは、結論を皆が知っているという制約を受けるのはやむをえないのだが、それにもまして、なんとなく全体として淡白な印象をうけるのは、「義経」がほとんど肉体をもった姿で登場しないからだろうか。

義経も、都落ちした時点から、鎌倉幕府のアンチテーゼとしての「義経」というシンボルとして必要とされたに過ぎず、肉体としての実在は求められなかったということか。

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