2011年5月22日日曜日

今、「時代小説」を読む魅力

最近、時代小説が、プチ・マイブームのようになっていて、高田 郁さんとか、藤原緋沙子さんや、佐伯泰英さんのシリーズ物をポチポチと読んでいる。
とりわけ好んで読んでいるのは、江戸の市井を描くという類のもので、お家騒動とか、天下を揺るがす陰謀とかに全く関係のない、庶民の日々の暮らしや、ちょっとした謎解きものを好んで読んでいるところである。

で、こうした時代小説の魅力というか、なぜこんな忙しい時にそんなものを読んでいるのか、と問われると、それは、「日常生活」がきちんと「日常生活」のままであるという安心感、安定感とすばらしさを求めてのことではないかと思える。これは、世相に影響されているところもあって、リーマンショックに始まり、最近の東日本大地震など、自らの立地点を揺るがす痛ましい出来事が相次ぐと、朝のシジミ売りの声に始まり、夜なき蕎麦の売り声で終わっていく一日のありがたさを思わず求めてしまうのだろう。(もちろん世相ばかりではなくて、最近、ちょっと仕事の方面でのうねりというか、追い立てられるような忙しさが落ち着いてしまい、物足りなさと喪失感があることも影響しているのだが)
で、休日の午後ともなれば(午前中は、ちょっとこうした時代小説の気分ではないので)、何冊か抱えて読みふけり、なんということはない、町娘や旗本の次男坊などのあれこれを読んでは、よかったなー、と夕暮れの中でぼんやりと夕焼けを見ているような満足感を味わっているこの頃である。

こうした満足感は、同じ時代小説といっても、戦国の戦記ものや幕末ものではちょっと得られないもので、しかも、同じ江戸時代でも、寛永とか、享保といったなんとなく慌ただしい動きを感じさせる時代であるとこうはいかない。やはりこれは、元禄や文化文政の、どことなくぽやんとした明るさを連想する時代を舞台にしたものが最良である。

なにかしら、茫漠とした不満足感を抱えているようであれば、ちょっと立ち止まって時代小説の世界に浸ってみることもいいものである。

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