2009年6月25日木曜日

堤 未果「ルポ 貧困大国アメリカ」(岩波新書)

サブプライムローンの破綻後、いわゆる新自由主義に対する批判やアメリカ社会の現実のような本が、かなり出てきているが、本書もその一つであることは間違いない。

ただ、本書は、いわゆるルポルタージュという形がとられることによって、「実は新自由主義は間違ってました」「間違いは実は私は気がついていたんですがね」といった風見鶏的な論調とは、かろうじて一線を画していることができている。

ただ、本書が刊行されたのが2008年1月で、初出はしらないが、もし同時期とすれば、サブプライムローンの破綻する2007年から2008年の時期に附合することにもなり、「おいおいもっと早く言ってもいいだろ」と後出しジャンケン的なものを感じるのは否定できない。

と悪口を書いてしまったが、ルポとしては、かなり上出来ののものと思う。アメリカの貧困をきちっとリポートしながら、けして、グローバル資本主義がなくなればOKとか、大きな政府にすれば万事解決、悪いのは「大企業」だったのよ、というような、ある種、楽天的な論調に陥ることなく、アメリカの貧困の底の深さ、解決の難しさを記述していて、ルポとしての好感がもてる仕上がりになっている。

構成は

第1章 貧困が生み出す肥満国民

第2章 民営化による国内難民と自由化による経済難民

第3章 一度の病気で貧困層に転落する人々

第4章 出口をふさがれる若者たち

となっていて、なぜ貧困層に肥満が多いのか、や、アメリカのあまりにも貧相な、貧困層の医療の実体、さらには、そうした貧困層にいながら希望に燃える若者たちに軍隊というものがどんな形で食い込んでいるか、などなど、一筋縄ではいかない、「アメリカの貧困」が明らかにされていく。


しかし、こうしたルポを読むたび思うのは、私たちが、かって憧れていた「アメリカの中流階級」あるいは「アメリカの豊かな暮らし」というのは、本当はいつまであっただろう。貧しいアジアと豊かなアメリカという図式が、以前は確実なものとしてあり、アメリカが一種の希望の地であった時が、確実にあったように思うのだが、それはいつ失われたのだろう、そして、どこを目指していったらいいんだろう、ということだ。

すでに「国営化」による非効率と利権の姿を、ベルリンの壁の向こう側に見た私たちにとって、「民営化」が実は「食い合い」というモンスターが衣をまとっていたものだったとわかっても、既に帰るところがない状態なのである。


で、これはちょっと乱暴な話なのだが、ひょっとすると「アメリカの豊かさ」は「アジア・アフリカの貧しさ」と量としては同じで、アジアが豊かになった分、アメリカが貧しくなったのではないのか、などと、「人生の運と不運の量は同じ」と信じている私なぞは思ってしまうのである。

そして、もしそうなら、どこかが豊かになることが、どこかの貧しさを生むのであれば、どこかで折り合っていくことが必要になるのであって、ひょっとすると、構造改革の嵐の中で批判されていた。「一億総中流」というのが、実は、目指すべき姿だったのかもしれないね、と「青い鳥」よろしく呟いてしまう。


何も救いにはならないが、せめて次の世代への希望をつなぐための一つの手段めいたことを引用して、この、行き場のない稿を終わることにする。マンハッタンの帰還兵センターのスタッフの言葉だ。


「若者たちが誇りをもって、社会の役にたっているという充実感を感じながら自己承認を得て堂々と生きられる、それが働くことの意味であり、「教育」とはそのために国が与えられる最高の宝ではないでしょうか?将来に希望をもてる若者を育ててゆくことで、国は初めて豊かになっていくのです。」


国が、そこそこ豊かであること、人々がはればれと生きていけること、のためには、難しい金融理論や経済理論は、ひょっとしたら邪魔者なのかもしれない・・・・

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