2009年6月5日金曜日

塩野七生「ローマから日本が見える」

塩野七生氏のエッセイ。ほとんどの人が、一度は手に取るか、一部を読んだことがあるであろう「ローマ人の物語」から、ちょっとこぼれたエピソードや論述などがまとまっている。
古代ローマ史の年表的位置関係でいえば、ローマの建国からアウグストゥスの初代皇帝への就任あたりまでで、エピソード的には、カルタゴとの戦争とカエサルやその周辺の人々にまつわるものが印象に残る。

本編の「ローマ人の物語」はすでに完結していて、今は、古代ローマ帝国後の地中海世界の話に最近の筆者の著作は動いているのだが、残念ながら、私は五賢帝後の軍人皇帝時代のはじめあたりまでしか読んでいないので、全体を俯瞰したものいいは注意しなければいけないのだが、ローマ帝国にとって、上り調子で、まだ爛熟に達していない時代が、カルタゴとのフェニキア戦争やカエサルとその近辺の時代だと思うので、読んでいても、


例えば、「改革」ということについても、今までの勝者が一夜明けたら落魄していたといわんばかりの市場主義批判が頻出する現代とひき比べながら

「改革は単に思い切りがよければいいのかと言えば、けっしてそうではない。
 なぜならば、それぞれの国家や組織にはそれぞれの伝統があり、これを無視した改革を行ってもうまくいくはずがないからです。
 自分の手持ちカードが何であるかをじっと見据え、それらの中で現在でも通用するものと、もはや通用しなくなったものを分類する。そして、今でも通用するカードを組み合わせて、最大の効果を狙う。これがまさに再構築という意味での真のリストラだと私は考えます。
ローマ人たちは、その点に関しても達人でした。」

といったあたりや

「ともすれば改革とは、古きを否定し、新しきを打ち立てることだと思われがちですが、けっしてそうではない。
 成功した改革とは、自分たちの現在の姿を見つめ直し、その中で有効なものを取り出していき、それが最大限の効果を上げるよう再構築していく作業なのではないか。ローマの歴史を見ていると、そう思わざるをえないのです。」

といったあたり、思わず「嗚呼」とつぶやかざるをえないし、

「人材難」ということに関連して

「どれだけ人材がいても、それを活用するメカニズムが機能しなければ、結局のところは人材がいないのと変わらないのです。
 国家に限らずあらゆる組織が衰退するのは、人材が払底したからではありません。人材はいつの世にもいるし、どの組織にもいるのです。ただ、衰退期に入ると、人材を活用するメカニズムが狂ってくるのです」

といった記述には、「うむ」と納得をさせられる。

「古代ローマ人」というすでに滅んでしまったといっていい民族(今のイタリアは、ローマ人の末裔ではあっても、直系のようには、私には思えないのだ)に託して、今を批判的に語るのは、ちょっと狡猾いんじゃないの、という思いもないことはないのだが、でてくる「ローマ人」のキャストがカエサルにしろ、スキピオにしろ、はたまたローマの敵役のハンニバルにしても、筆者の筆致がさえわたっていて、とにかく格好が良い。そのせいかうーむと納得して頷かざるをえなくなるのは、やはり筆者の術中に、まんまとはまり込んでいる証左なのだろう。

いったいに、「古代ローマ 帝国」あるいは「古代ローマ人」が、極東の日本に、ここまで膾炙したのは筆者の力といっていいだろうし、また、「古代ローマの歴史」というものを単なる歴史の話としてではなく、血わき肉踊るものにしたのも、筆者の功績といってよい。最近、戦国もののゲームに端を発して戦国武将人気が若い女性たちの間で高まっているらしく、カエサルを主人公にしたゲームや小説がでれば結構ヒットするかもしれないのだが、カエサルが登場する最近の小説は、ジョン・マドックス・ロバーツの「古代ローマの殺人」あたりしか、今のところ思い浮かばないのは残念。


最後に、本書からイタリアの高校の教科書にでているローマ人らしいリーダーの姿を引用して、この稿を終わろう。

「指導者に求められる資質は、次の5つである。
知力。説得力。肉体上の耐久力。自己制御の能力。持続する意志。
カエサルだけが、このすべてをもっていた。

 筆者が、こうした基準に照らして、リーダーとして高得点をつけているのは、カエサル、スキピオ、アウグストゥスあたりなのだが、昨今日本で、政治家をはじめとしたリーダーたちでこれに当てはまる人物はどれぐらいいるだろうか?


できれば、「ローマ人の物語」を読んでから、あるいは読み進めながら、箸休め的に読んだほうがいいものではある。

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