いけちゃんは
ずっとまえから
そばにいる
いけちゃんは
なんとなく そばにいる
から始まる、丸くて、ふわふわの「いけちゃん」と「ぼく」の日々の暮らしと生活と、ぼくの成長と別れを描いた絵本、といっていいのかな?
このあたり大筋は言い得ていると思うが、いまいち、この絵本の全体を通した感覚を表現できていないようでもどかしい。
西原さん特有の、露悪的なギャグを含んだお話、例えば、ぼくが友人にバナナの皮やナフタリンを食わす話などや、喧嘩やいじめ、父親との死別のエピソードが、いつもそばにいる「いけちゃん」とのふれあいが、この人特有のパステル調ではあるが、原色に近い、なんとなく、南国のアジアっぽい色使いとともに語られていくのだが、ワハワハと読みながら、時折うむ・・・とかうならされて、なんとなくもの悲しくなってしまうのは、いつもの西原理恵子調絶好調である。
例えば、父親を亡くした悲しみは、海で100回おぼれるほどの感じ、「100うみ」だと「ぼく」と語りながら、でも
せかい中で人よりはやく
大人にならないといけない
子供っているんだよ
キミも その中の
ひとりなんだよ。
と語っていくあたり、知らず知らず、西原ワールドに入り込んでしまって、恥ずかしながら目が潤んでいるる自分に気づかされてしまう。
そして、「いけちゃん」との別れのシーン。ネタばれは、御法度として多くは語らないが、「ああ、そーだったの」、「なーんだ」、と呟きながらも、
さよなら
わたしたち
とても短い恋をしたの
で終わるラストは、不肖私めも、鼻の奥がツンとなってしまったのだが、詳細は、まあ読んでのお楽しみである。
映画では「ぼく」の名は「よしお」という名前になっているが、この絵本では「ぼく」の名前は語られていないように思う。
そして、語られるエピソードも一人のもののようであって、多くの、様々な男の子のもののようでもある。
作者は、すべての「よしお」くんの、いや、すべての男の子の、それぞれの「いけちゃん」の話を届けたかったのかもしれないな、と勝手に結論づけてしまうのであった。
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