2006年1月15日日曜日

吉田ルイ子「ハーレムの熱い日々」(講談社文庫)

ハーレムに象徴される、アメリカにおける黒人問題に代表される人種差別について書かれた、もう「古典」といっていいほどの本だろう。恥ずかしながら、この本のあまりの有名さに怖気をなしていたのか、今まで読んだことがなかった。人種問題ということからある種の説教臭さ、プロパガンダ臭さを連想してのことだったように思う。


ところが、リサイクルショップで偶然手にして、立ち読みをしたら・・・

どうして、どうして、単純な思想本ではなく、ハーレムに暮らす人々を含めた一時期のアメリカのすばらしいルポではないですか。

本書で綴られているのは、筆者が大学卒業後、白人のアメリカ人と結婚して渡米する1962年から1971年までの記録である。時代的にはベトナム戦争まっさかりで、ケネディ大統領が暗殺されたり、黒人の公民権運動がピークを迎えるが指導者のマルコムXやキング牧師がノーベル平和賞受賞後数年して暗殺されたりしている、(管理人は、幼児期から小学校にかけての茫漠とした頃なので時代的な雰囲気を語れないのだが)かなり世界史的にも騒然としていたであろう頃である。

しかも、冷戦構造がまだ健在というか、バリバリに力を持っていて、ブラックパンサーのバイブルは「毛沢東語録」であるし、アメリカのリベラルも力のあった頃なので、今の「アメリカ一人勝ち時代」とは意識も時代の雰囲気も違う。

こうした時代背景を受けて黒人差別をとりあげて本なので、当然、それなりの思想性を持っていることは否定できない。

しかし、この本が、いわゆるノンフィクション、ルポの「古典」として今まで読み継がれてきているのは、単純に黒人側を擁護、弁明するだけではなく、「白は善、黒は悪」という意識を黒人自らが植え付けらてしまっていたことや黒人問題は黒人と白人の闘いのほかに黒人と黒人の闘いを含んでいることをきちんと描いていること、そして何よりも、ハーレムの暮らしを筆者が楽しんでいること、ハーレムで出会う人々のことを良いも悪いも含めて暖かく描いていることのように思う。

それは、例えば、

ハーレムへ再び帰ってきて、数学が好きで優等生だったジミー、白人の女の子と学校に入ると遊べなくなって「ボクがニグロだからでしょ」としょげていたジミーが、麻薬を始め、感化院に送られたと知り、

「何か本を送ってあげようと思った。ここ(ハーレム)よりかえって静かに勉強できるかもしれない。
黒人運動の指導者の中にも、過去のある時期に、ポン引きや、ヤクの売人、中毒患者だった者だっているのだ。刑務所のなかで、立派な本を書いた人もいるではないか」

といったくだりに象徴されているといってよい。

この本は、文章だけでなく、ハーレムの「ピクチュア・ウーマン」として撮られた写真と一緒にあわせて読み問いていくべき本であろう。そして読み解いていくとき、単に黒人開放運動の本としてではなく、黒人を含んだ一時期のアメリカの姿(醜い姿も含めてを浮きが浮き彫りにされていく本である。

思想本としてではなく、一つの時代を切り取ったノンフィクションとしてお奨めである。

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