国境の町といってもすべて日本。
与那国(台湾)
舞鶴(ロシア)
小笠原(アメリカ)
サハリン(ロシア)
関釜フェリー(韓国)
を旅する。
日本の国境の場合、陸づたいに他国へ入るという状況は第2次大戦で敗れてからはないから、すべて国境というか、異国は、こちら側から海越しに見るか、あるいは、あちらからやってくるものばかりである。
そこには近くにいる隣人としての異国はなく、なにかフィルター越しに見たり、想像したりするしかない異国が存在するのが通例となる。
しかし、この本で取り上げられている国境の町は、ほとんどが以前は国境がなかった、あるいは国境のラインが違う形で引かれていた町である。
たとえば与那国と台湾は、国境がない状況がしばらくあり、戦後もしばらくはないも同然の状況が存在したし、小笠原はアメリカの領土であった状況が戦後しばらくあった(おまけに、この本で初めて知ったのだが、小笠原に初めて定住したのはアメリカ人だったらしい)。また、舞鶴にしても最後の引き上げ港だったせいでロシアとは意識的には陸続きというかたった一つのルートであった時代が長いし、関釜フェリーにいたっては国境の感覚さえ曖昧である。
そうした国境のラインが違っていた、あるいは曖昧な地点に住む人々の視点は時に国というものの存在を曖昧にしていくような気する。
関釜フェリーの章の最後にそれを象徴するような一節がある。
「今日の関釜連絡船に、人々の日常を裂く涙はない。
生活を乗せたまま、境を越えて行き来する。」
国境が平和な時代が今である。
しかし、以前の国境のために祖国に帰れない人のあるのも今である。
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