2007年6月26日火曜日

インターネットとナショナリティ

梅田望夫さんのブログの「海外に住んでも母国語中心に生きること」の中の
「ウェブ進化とグローバリゼーションの結果、海外に住んでいても「情報についてはネット」「食材などのリアルな物についてはグローバル物流」のこの十年の異常なまでの発展によって、「海外に住む」ことの敷居がおそろしく低くなっていることを感じた。海外にいても、望めば一日のうちのかなりの時間を母国語で過ごしながら生きていくことが容易になったのだ。これは日本に住むアメリカ人、インドに住むフランス人・・・皆、同じではないかと思う。」
という一節を読んで、ちょっと考え込む。
私自身は、長期の海外滞在経験は残念ながらなく、せいぜい1週間から10日間程度の海外出張しかないので、なんとも心許ないのだが、初めて海外出張をした10数年前に比べ、母国語に囲まれて過ごす状況が増えてきているような実感はある。
海外出張の折に、1台の携帯電話を数人で回し利用していた時代から、パソコンさえ持っていけば、多くの国で数千円の支払いで、日本語環境と日本在住の人と日本語同士の会話が手に入る時代に、Webはあっという間につれてきてくれていて、この現象は、このブログのコメント欄でいくつか述べられているように、ビジネスあるいは海外に生活することとして、日本語環境に取り囲まれて暮らすことの当否ではなく、「現象」としてまず捉えるべきだろうと思う。
で、こうした現象が日常茶飯になるということは、グローバル化の意味すら変えてしまうということで、外国語を学ぶ、習得するということを主眼としていたものが、どう変わっていくのか興味深くもある。
さらに一頃はやった、構造主義的あるいは言語論的にいえば、日本語環境のままでほとんど生活するということは、日本語という枠(文脈)の中での思考形態あるいは思考の癖というものから抜け出せないということで、どこに住もうと「日本語」あるいは「日本スタイル」というナショナリティのもとで生活するという、グローバル化の対極の話でもあり、グローバル化あるいは国際化というものを、言葉の違う他者理解、又は他者の暮らす文化・思考形態への理解・許容ということで捉えれば、グローバル化というものは、他者の言葉あるいは言語への理解力のレベルで左右されるといってもよく、日本語に常時取り囲まれている状態が、外国にいても継続されるということが、グローバル化(あるいは、そうありたいという意欲)にも限界が出てくるんだろうなー、と思う。
まあ、ひらたく言えば、同じテレビを見ている同士では、流行も、考えることも、思い出も一緒なことが多いといったことかもしれなくて、それはそれなりに、外来語を使って暮らすストレスが面倒な人にとっては、なかなかに楽チンなことではあるのだが、本来オープン系であるインターネットが、ナショナリティを強化する方向に進むってのも、なんか皮肉な話でもある。
でも、こういった話って、フランス人は、たとえ英語ができてもフランス語しか喋らない、とか、アメリカのテキサス州の人は世界中で英語が通じると思っているっていうような話と、根底としては同じなのかな・・・

0 件のコメント:

コメントを投稿