2014年10月5日日曜日

常見藤代「女ノマド、一人砂漠に生きる」(集英社新書)

2012年の初版なので、当時流行していた「ノマド本」と間違われることも多かったであろう本書。
内容は、エジプトの砂漠に住む女性(かなりの高齢だが)のところへ、日本の会社を辞め、フォトジャーナリスト志望の若い女性が、砂漠の生活を何度かともにする、そうした何年かの記録である。

訪問は数年にわたり、はじめは4泊5日から、そして20日と砂漠の生活を送る時間も増えていく。そこで、砂漠あるいは遊牧生活というものが、我々農耕民あるいは定着人と全く異なるメンタルかというとそうでもなくて、砂漠ではあっても、そこに携帯、車といった現代文明はかっちりと根をおろしているし、また、それに伴い、人の意識も変わってくる。また、イスラム世界の一夫多婦制がもたらす、女性の人間関係の軋轢など、洋の東西を問わず、人間(ひと)の世でおきるものは、どこでもおきるのである。

さらに、

彼女の持ち物についても同じだった。最初の頃は、サイーダはラクダに積みきれるだけの荷物で暮らしていると思っていた、しかし、実は、砂漠の中に荷物置き場を数カ所持っており、すぐに必要のない荷物を保管していた。そこにはドラム缶が数個あり、色とりどりのガラビーヤが入っていた、それと一緒にマニキュアや手鏡数個、スカーフ数枚、指輪3個・・・なども。(P244)

のように、そもそも身近な物以外は持たない、というノマドあるいは遊牧民への、定着民の勝手な幻想も、そこここで壊されるのも面白い。

一方で例えば

鍋に小麦粉と水、塩ひとつまみを入れ、ゆっくりとこねる。こね終わる少し前に、山のように盛り上げた枯れ木に火をつけておく
枯れ木が炭になったところで、それらを脇にどけ、」熱くなった地面に平たくしたパン生地を置く。それに炭をのせて片面を焼く。時々棒で表面を触って、焼き具合を確かめる
片面が焼けた頃を見計らって、生地を裏返し、もう片面も焼く
表面についた廃を布でパンパンと勢いよくはたく。ところどころにできた焦げ目を小石で削り落とせばできあがり(P34)

という「ゴルス」という炭と砂で焼くパンや結婚における

遊牧民同士の結婚では、男が新生活に必要な物すべてを用意する。しかし、相手が遊牧民ではない場合、新郎新婦それぞれが分担しあうのが普通(P155)

という風習や女性が人前に出ることが戒律で極度に制限されているがゆえの

結婚した女性の異性との接点は、夫婦間に限りなく限定されていく。そして夫婦関係は緊密になり。それが相手への強い執着につながる(P190)

という性向には、砂漠特有のものやイスラムならではのものを感じさせるし、

遊牧生活は、天候など周囲の環境に大きく左右される。家畜を増やしたくとも、雨が降ってく差が生えなければ、どうすることもできない。そんな彼らの置かれた状況が、運を天にまかせる。すなわち人間以外のもっと大きな、神のような存在を信じる姿勢につながっているのではないか(P80)

には、植物が放っておいても繁茂する、「湿気の多い」島国のメンタリティとは異なる「一神教」の世界を垣間みるような気がする。

ただ、そうはあっても、変わらない、共通するものはある。
世界の隅々まで機械化と断片化とネットワーク化が進んできたことのあらわれなのだろうか、砂漠の民もやはり「自由への渇望」は強いらしく、居住地で働く20代の男性の「昔の遊牧生活は体力的にキツくて収入も少なかったけど、自由に働けるのがよかった」や「昔は仕事は今より大変だったけど、みんな助け合った。今はみんあ自分のことしか考えちゃいな。人のつながりは弱くなってしまった」といった話や「今は1つの場所にたくさんの人が集まっているから、問題が起こる。ずっと昔から、私たちは離れて暮らしてきた。でも心は近かった。今は近くに暮らしてても心は遠い」は、ここ極東の地でも同じようなことが囁かれているのではないか。

昔の姿を懐かしむ意識、しかし、定住を含めた現代文明の流れはとめようもなく、心があちこちできしんでくる、そういった思いを感じさせる「砂漠の滞在記」である。

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