2014年4月6日日曜日

「釣り吉三平」を読んで思う「失われた古里」

講談社マンガ文庫版の「釣り吉三平」を衝動買いし、数日間、それにかかりきりになっていたのだが、よみすすむにつれ、我々の「ふるさと的原風景」はなんとも遠くにいってしまったのだな、と思った次第。

このマンガの舞台は、おそらくは筆者の故郷である東北(秋田?)の山間部で、時代的には昭和30年代から40年代にかけて、と思っているのだが、そのマンガに中で微細に描かれる自然の濃密さは、すでに我々が想像しようとしても想像できないぐらいの濃さを示していて、どことなく非現実的である。
そして、彼を取り巻く人間模様。一平じいちゃんや百合っぺ、彼女との父母、そして三平の子分である◎◎、いずれも底なしに良い人なのだが、どことなく昔話や昔語りにでてくる登場人物に似ていてなんとも実在感が今となっては希薄に感ずるのである。

おそらくは十数年前までは捜そうとおもえば、まだいくらかは残っていた自然であり人間関係ではあったのではあろうが、ネットとモバイルに占領されてしまった今では、断片化する一方の関係性のなかでもはや見つけることのできない、古(いにしえ)の夢となっている。
そして、そうした関係性を懐かしむ我々のような旧世代がいる間は、なにかしらノスタルジーをもって語られるのだるが、我々の後の世代にとっては、およそ懐かしむ対象でもなく、文献的な記録の対象となっていくしかないのだろう。
せめても、そうした記憶の残っているで世代が、こうしたものを読み継ぎ、過去にあった「美しきもの」として記録に残すのが出来ることのほとんどなのかもしれない。

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