2012年2月28日火曜日

なぜ、古い「旅行記」を読んで、レビューするのか

いわゆる「旅行記」が好きである。しかも、新しいモノ、古いモノ問わずである。
もちろん、ここでいう「旅行記」は、マルコ・ポーロといった歴史書としてすでに評価されているものではなくて、ここ10年から20年ぐらいの旅行記をさすのだが、時間が経過すると、旅の情報誌としては使い物にならなくなるのだが、読み物としては別の価値が出てくると思っていて、新しい旅行記はもちろん流浪への思いをかきたててくれて楽しいのだが、古い旅行記も一種のノンフィクションを読むような味があってまた良いのである。

というのも、素人が書いた旅行記、滞在記も、歴史書とはいえないまでも、10年・20年の時間の経過の中で、歴史のテキストとして転換する時があると思っている。数日、数週間の滞在やツアー旅行であっても、確実にその時の街の様子、現地の人の暮らし、日本人の旅の様子を確実に切り取っているわけで、しかも、災害とか、事故とか政変とか今までのものがすべてひっくりかえるような出来事が起きる前であれば、確実に失われた歴史の一コマを記録したものといっていい。

例えば、司馬遼太郎氏の「街道をゆく」は昭和46年からはじまった日本、すでに我々の感覚では失われた「良き日本」から現在に至るまで、あるいは日本人の目を通した諸外国を記録した上質のノンフィクションであるとともに現代史の一史書であるといっていい。

ただ、残念なのは、こうした旅行記というものが、著名な作家や学者、政治家のものは別として、失われがちであるということだ。とりわけ、縮みがちな世相の時は、「旅」というもののもつ贅沢さが嫌われるのか、素人のものはおろか旅行作家といわれる人たちの著書も絶版になったりして、手に入らなくなりがちなところ。(旧ソビエト時代の特派員の生活を記録した「大蔵雄之助『ソヴィエト見聞録』」は、失われた社会主義国の生活の記録であるが、すでに絶版になっているせいか、amazonでも出品者から買うしかない。まあ、中古でも買えるだけいいとしなければならないのかもしれないが)

こうしたものをアーカイブ的に残していくようなことができれば、未来において、その時の暮らしや人々の表情を、政変や国家の衰退があっても、ある程度遺していくことができるのではないか。いわゆる「旅モノ」のブックレビューを書きながら、ふと、こんな不遜なことを思うのである。

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