2008年7月30日水曜日

塩野七生「ローマ人の物語 28 すべての道はローマに通ず 下」(新潮文庫)

ローマ帝国のインフラを描いた巻の下巻が本書。
 
とりあげられるのは
 
ハードなインフラとして、水道
 
ソフトなインフラとして、医療、教育
 
である。
 
で、最初は「水道」である
 
ローマ帝国の代表である「アッピア水道」というのは、本書によれば、全長16.617キロ、うち地下が16.528キロで、ローマの東に連なる山地からローマ市内まで、延々と引いたもので、この距離を、当時、水道を引こうというのは、よほどの理念というか執念がないとできそうもない。おまけにローマというのは水資源はかなり豊富だったらしいから、同じように水資源の豊富な日本の住む管理人としては、わざわざなんでそこまでやるの、とツッコミをいれたくなるような代物である。
 
この「アッピア水道」以外にも「ユリア水道」やら「アルシエティーナ水道」やら「クラウディア水道」やら何本も水道を建設しているから、こいつはもう「道」や「橋」と一緒で、とにかく「繋ぎたい」という民族的な衝動なんだろうか、と非合理的な理由で片付けたくもなる。
 
 
特に驚くべきなのは、このアッピア水道の建設に取り掛かったのが、アッピウス・クラウディウスという人物で、アッピア街道の敷設をした人物と同一人物であるということだ。
 
 
道あるいは水道の整備というのは、古代に限らず現代でも、なまなかの期間では終結しないし、長い期間がかかればこそ、反対者もでてくる。そうした二つの事業を同時に動かすというのは、並大抵の精神力ではない。筆者が「アッピウスはインフラを、単なる土木事業ではなくて国政であると考えていたのにちがいない。そうでなければ、国家百年の計どころか、結果的には国家八百年の計になるローマ街道とローマ水道の二つともを立案し実行に移すことなどありえなかったと思うからである」と誉めそやすのも納得である。
 
そうした水道なのだが、このローマ水道が運んでくる水の配水先に占める「公」と「私」の比率が6対4で、この割合はかえられなかったらしく、このあたり「公」「パブリック」というものを重視したローマ人の律儀な性格ででている。
 
 
さて、次のソフトのインフラなのだが、ここででてくるのも、あのカエサルである。
教職と医療に従事する者にローマ市民権を全員に与えたのもカエサルかららしくて、いやはや、ローマ帝国の骨をつくったのは、やはりこの人物だったのね、と改めて思い知らされる。
 
で、へーと思ったのが、もともとローマ帝国時代は、教育は家庭で担うものと考えられていて、はじめは全部、私立でカリキュラムとか、そんなものは全く自由だったのが、キリスト教の支配が強化されるのと教育制度の公営化は歩調をともにして進み、教師の資格も、試験を受けた上で決まるようになった。そこで試されるのは、キリスト教への信仰の有無であった、というあたり。
教育というものに、干渉を強めるかどうかは、一神教的ともいえる価値観の単一化とひょっとしたら関連しているのかいな・・・と、まあいろんな論調を思い起こしながら、つぶやいて見るのであった。
 
 
で、ローマのインフラを扱った本書のレビューは、次の筆者の言葉で締めくくろう。
 
 
インフラは、それを維持するという強固な意志と力をもつ国家が機能していないかぎり、いかに良いものをつくっても滅びるしかない。これは、ハードなインフラだけにかぎったことではなく、ソフトなインフラでも同じことなのである。

 
 
「公」というものに関わる全ての人が、心に留めておくべき言葉である。

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