2007年1月3日水曜日

塩野七生「ローマ人の物語24 賢帝の世紀 上」(新潮文庫)

さてさて、神格化どころではなく、暗殺されて記録抹殺刑になったドミティアヌスの後を受けたネルヴァ帝から帝位を受け継いで、「賢帝」の代表格でもあるトライアヌス帝を取り上げた一巻である。
 
ドミティアヌス帝ってのがどんなことをしたかってのは、記録抹殺刑に処せられたおかげで、はっきりと記されたものは残っていないようなのだが、どうも、この皇帝、馬鹿でも暴君でもなくって、それなりの切れ者だったらしいし、軍隊にも人気があったらしい。(元老院にはとんでもなく不人気で、それが暗殺の一因ともいわれているようだけど)
 
(しかし、この「記録抹殺刑」っていうのはすごいよね。その皇帝の記録や業績、肖像を全部なくしてしまうものらしい。歴史的にいなかったことにするからね・・・てなもので、国家的に「シカト」行為をするんだからなー。)
 
 
で、その後をついだ。年齢のいった人柄だけが取り柄みたいなネルヴァ帝に、ローマ本国ではなく属州生まれで軍隊経験も長く、下積みの苦労もよく知っている、ってなあたりで、トライアヌスは後継指名されたのかなってな感じである。ドミティアヌスが、育ちも才能もあって、おまけに自身満々の若僧ってな雰囲気をプンプンさせていたあたりが元老院が嫌った主因だろうから、その逆をいくだけで、少なくとも嫌われはしないよね、といった人選である。
 
トライアヌス自身も、皇帝になって初めてローマ入りを騎馬でなく徒歩でやるような地味目でもあるし、皇后も地味めだったらしいから、無理をしたってなわけでもなさそうなあたりが幸いしたっていうところか。
 

 
ところが、こうした下積み経験が長くて、見ため地味な人が、やることも地味かというと、そんなことはないっていうのは、よくある話で、派手見せを気にしない分、実質的にやることはデカイってのが、どうもトライアヌス帝の場合もあてはまるようだ。
 
ダキア(今のルーマニアあたりらしい)を完全に平定して属州化して東方の愁いをなくしたり、財政の立て直しをしたり、トライアヌスのフォールムといわれる大回廊やトライアヌス橋の建設や、ローマ本国の幹線道路であったアッピア街道の複線化と、なんか働き者の農家親父さんが、黙って朝も夜もたゆまず働くように、「着々」といった感じで事を仕上げていくのである。そして、死を迎えるのも、反乱を起こした「パルティア」の平定のための遠征中だったというのも、何かしらこの人を象徴しているようだ。
 
こうしたあたりは作者も非常に気にかかっているようで、この皇帝の章の最後に「あなたはなぜ、ああもがんばったのですか」とトライアヌスの肖像に語りかけ、「属州出身者としてはじめてのローマ皇帝だからと思って、人並以上にがんばったのですね」といった言で結んでいる。
 
このトライアヌス帝の時代を表すと「頑張りやさん」が「頑張りやさん」として成果を出せた時代だったということだろう。そしてそれは、非常に健全な時代でもあったということのように思えるのである。

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