2008年11月30日日曜日

瀬戸山 玄「丹精で繁盛」(ちくま新書)

「丹精」という最近では、あまり聞かれなくなってしまった言葉に惹かれて、本書を開いた。
分類的にいえば、「モノづくり」の本である。しかも、単純に「工」に分類される「モノづくり」ではなく、日本人の精神の中に脈々と息づいている、「職人」的な「モノづくり」に携わる人たちの物語である。

本書の章立てによって紹介すると

「第1章 脱上式の引き金」では、地元のいわゆる雑魚を干物にしている(縄文干しという名らしい)干物業者

「第2章 消費者との距離」では、山間地で米作りと林業を営む農林家

「第3章 変化に立ち向かう気骨」は、造船業から鉄材をつくった斬新な建築施工を行う鉄材加工メーカー

「第4章 祝祭を運びこむ職人力」では、飛騨に本拠を置きながら、東京の流行の最先端のビルの内装を扱う左官集団

「第5章 物づくりの勇気」は、イタリアで評価されている、沈滞した老舗から蘇った岐阜の家具製造業者

がそれぞれ扱われている。

いずれも、個性あふれるモノづくりの担い手なのだが、共通しているのは、「丁寧さ」ということ。


「丁寧」というのは、その仕事ぶりや、相手をする消費者に対するものだけでなく、扱う「モノ」に対しても「丁寧」であるということで、例えば、

第1章の干物づくりでは、塩分を少なめにするために、魚の頭と内臓をとって、しかも天日で干さずに陰干しにし、業界の常識では、「バカでねいか」といわれても、「頭つきの干物は、塩分を相当強くしないと、焼いているうちに腹から臓物がでてきてしまうんだ」と頑固にやり方を守ったり、

第3章の鉄材加工メーカーの社長は「勉強はすごくできる20代や30代の若くて頭のよい設計士が、自分で汗した経験もほとんどないまま、どうのこうのいう。私に言わせれば、鉄五キロがどんな重さ、十キロならこんな重さといった実感も分からない設計士が多すぎる」

と主張を曲げない。

しかし、そこに流れるのは


少数はの物づくりに息づく「丹精」とはつまり、大勢に流されない勇気である


であり、


丹精がもつ暗黙のきまりや採算度外視ぶりが、いまどきの露骨な市場原理主義の経済にそぐわないので、もしや忘れられかけているのではあるまいか
 これにかわってやたら乱発されるようになるのが、「こだわり」という奇妙な流行語だ。本来、小さな事柄に執着して融通がきかないことをさす。そのせいか、こだわりという語感には「すごいだろう」という子どもじみた自己満足の匂いや、まるで水増し請求書を勝手に押し付けられたような、厚かましさがいつもなとわりつく。
 こだわりは狭く、丹精は広い。だから前者は金銭で顔色が移ろい、後者はすんなりと心に響く


という精神なのであろう。

こうした「丹精」の心が、金融崩壊の中で行き所を失っている「物作り」の一筋の光明になるのかもしれない。


最後に、「丹精」がその礎をなると信じて、本書から一節を引いて〆としよう。


一生懸命やっていると偶然が重なり、物事はどんどんよい方向へ進むみたいです。

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