2008年11月29日土曜日

リーナス・トーパルズ「それが僕には楽しかったから」(小学館)

Linuxの創始者、リーナス・トーパルズの半生記。彼が、PCにどう親しむようになって、どうやってUnixに出会い(この本ではミニックスとなっていて、どうやら、Unixの変形判に出会ったのが最初らしいね)、これをLinuxにつくりかえ、そしてアメリカに渡り、オープンソースの領袖となり、といった、今もなお現在進行形で進んでいるトーパルズの人生でもあり、Linuxの歩みでもある、間違いなく、情報工学の重要な歴史の流れが綴られている。

構成は

第1部 オタクの誕生
第2部 オペレーティング・システムの誕生
第3部 舞踏会の王

となっていて、第1部では、幼少期から大学時代までの間が、第2部ではLinuxの誕生、第3部では、アメリカのシリコンバレーに移住と、オープンソース運動が語られている。

しかし、リーナス・トーパルズの半生記を読みながら、つくづく思うのは、Linuxの創世が、こうした人物の手でよかったよな、ということである。FedoraやDebian、Ubuntu(和製ではVineというのもあるね)などなどの流れに別れてしまっているとはいえ、マイクロソフトのWindowsへ対抗しうる、ただ一つのOSが、仮に、ビル・ゲイツばりのビジネスにも長けた人物であったら、PCの普及も、もっと混迷をきたしていただろうし、フリーなオープンソースといった概念も生まれてこなかっただろう。
(もっとも、WindowsがすべてのPCのOSを支配している、というマイクロソフト長年の夢が叶っていたかもしれないが)

このオープンソースの「フリー」という概念は、非常に魅力的である。
当然、「無料」ということや「誰でも使える」という考えも魅力的なのだが、もうひとつの、ソースコードの公開の義務付けと、商用利用でなければ、誰でも改変ができるという概念は、「情報公開」と「参加の自由」というべきもので、これがPCのOSやアプリケーションに及ぼした影響は計りしれないものがある。
そのおかげで、数々のフリーソフトの恩恵に浴しているし、Googleの誕生も、オープンソースという考えが世になければ、数十年は遅れていたのではなかろうか。

ちょっと、話がとりとめがなくなってきたので、こうしたOSをつくる人間っていうのは、どんな人間なのか、いくつか引用しよう。

リーナス・トーパルズがLinuxを開発したときの暮らしぶりは


 ぼくは素晴らしい満足感を味わった。それは、その夏、コンピュータ意外、何もしなかったことを考えあわせると、とりわけ意義深いものに思われた。
 大げさなことを言ってるわけじゃない。フィンランドの四月から八月といえば、一年で一番いい季節なのだ。人々は多島海でセーリングしたり、ビーチで日光浴したり、夏の別荘でサウナを楽しんだりする。ところが、ぼくときたら、いまが夜なのか昼なのか、ウィークエンドなのかウィークデイか、まるでわかってなかった。れいの分厚い黒のカーテンが、ほとんど沈むことのない太陽から、つまり、外界からぼくを遮っていたのだ。ある日ーある夜かもーぼくはベッドから転がり出て、六十センチと離れていないコンピュータに取りついた。

ってな具合であるし、

12〜14歳の頃は、というと


 コンピュータにまさる楽しみはなかった。家でコンピュータに向かっていると、徹夜をしても平気だった。男の子はみんな毛布の下で<プレイボーイ>を読んで夜更かしをする。けれど、ぼくは<プレイボーイ>を読むかわりに寝たフリをして、ママが行ってしまうとベッドから跳び起きてコンピュータの前に座ったものだ。まだチャットがはやる以前のことだよ。
「リーナス、ご飯よ!」
 そう呼ばれても、部屋から出ないこともある。すると、母は友人のジャーナリストに、この子は維持費のかからない子でね、コンピュータと一緒に暗いクローゼットに入れておいて、時々ドライパスタを放り込んでやればそれで幸せなの、と話し出す。まあ、当たらずとも遠からずだ。

ってな具合だ。

うーむ、「オタク」色いっぱいですな。

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