2007年5月27日日曜日

私の中の「セイゾウ」偏重

NBOnlineの5月17日の宋文州さんの傍目八目のコラム「長男「セイゾウ」がそのお下がりを弟たちに着せる 」にしばらく考えさせられた。
「この「セイゾウ」的な雇用慣習が人々の雇用心理まで支配し、社会の人的資産の流動性を阻害し、新しい企業の誕生と発展の妨げになる」
といったあたりや、
「企業家精神の後退は企業家の問題ではなく、雇用形態に代表されているような長期にわたって「セイゾウ」という名の長男を優先した結果」
といったところ。
「このセイゾウ的発想が創造的なソフトウエア開発を阻害し、日本のソフトウエア産業を世界のそれから遅らせた遠因」
といった辺は、かなり激越な表現かとも思うのだが、自分の中の「セイゾウ」偏重は確かにあり、それは、安定とか磐石とかいった概念とも結びついていて、これは私だけの感覚というわけではないだろうと思う。
そう思う基は、地方政府の雇用対策や企業立地対策も、やはり「製造」を中心に進められているようなあたりであるし、最近の日豪のFTAをめぐる貿易論争における工業と農業の対立の議論で主張される「工業の足を引っ張る農業」論でもある。
私たちのような40歳代というか、高度成長時代に基礎教育を受けた世代というのは、「工業」や「製造業」が国の発展の根幹といった教育を受けてきたようなもので、われわれが、それなりに社会の中で発言権をもってきた時代の流れは、すなわち、人工物への信頼感と都市へ移動、定着をしていく流れとも符合していっている気がするし、それは一方で、第1次産業から離れていく軌跡でもあるし、田舎や地方が疲弊していく歴史でもあるような気がしている。
こうした思考のパターンは、私たちのような世代だけかと思っていたのだが、宋さんのコラムを読むと、どうもそうではなく、若い世代にもあるものらしく、宋さんが若人に「製造業の大切さ」を説かれた話も引用されている。
こうしてみると、「セイゾウ」偏重というのは、ひょっとしたら、現代日本人共通の性癖なのかもしれず、それが気になったせいなのか、野村進氏の「千年、働いてきましたー老舗企業大国ニッポン」を衝動買いしてしまった(衝動買いというほど高価な本ではないのだがね)。
この本を読みながら、「製造」というものへの考え方とか、あるいは定着と流動ということについて、あれこれ迷想にふけろうかな、と思っているところである。

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