2018年1月29日月曜日

とうとうやってきた「Pebble」の終わり

GIZMODEによると、FitbitがPebbleのサポートを2018年6月をもって終了することを発表したそう。


まあ、「Fitbit Iconic」がリリースされたあたりから、近い将来に「終わり」のアナウンスが・・とは思っていたものの、いざその場面になると、一抹の寂しさを感じる。


個人的には、Fitbitによる買収後は、スマートブレスレットを買ったこともあって、LINE、メールや電話の着信のお知らせはそちらに任せて、アナログの時計に回帰していたので、Pebbleは休日に装着するぐらいの状況で、実害はないといえばないのだが、なんといっても一世を風靡した、しかもKickStaterのデジタルものが、息を引き取るのは寂しい限りである。


特にPebbleはe-ink利用ということもあって、Apple Watchなどの他のスマートウォッチとは一線を画した「尖った」ところが気に入っていただけになんとも残念で、すでにかなりの「死に体」にはなっていたのだが、完全にアウトとなると、なんともいえないですな。


このあたりは、例えば、SONYのClieシリーズと同じような感じがあって、尖った才能を売り物にして人気を博していたものが、後発から蚕食されて退場していくという、「滅びの哀しさ」を如実に表わしているよな、と大げさに感じてしまうのである。


また一つ、引き出しの奥にしまい込まれるガジェットが増えてしまったのですね〜 

2018年1月28日日曜日

”Amazon Go”によってキュレーション能力のない社員は淘汰される?

 もう少し”Amazon Go”で世の中がどう変わるかを妄想してみよう。

”Amazon Go”では、いわゆるレジ機能はほぼ人間を互換することになるので、単純に考えれば、「店員さん」 の職場はかなり影響を受けることになり、場合によっては、この職業が無くなるんでは、といった話が早晩出てくるんであろうが、当方としては、AI+Amazon Goが「店員」の職を駆逐するということでなく、「店員さん」の二極分化を招く、というところであろう。

で、「二極」とは、扱っている商品についての「キュレーション」ができる人とできない人である。そして、残念ながら、「キュレーション」のできない、いわゆるレジ打ちだけの人の職場は徐々に無くなっていく。

そして、この範囲は、今は「コンビニ」という限られた場面なのだが、徐々にほとんどの「物を売る」現場に及んでいく。将来的には、そこで扱っている商品のキュレーションをAIを駆使しながら客に対して行う、ごく少数の「スーパー店員」と、自動運転の配送車やドローンで配達される商品を陳列したりするごく単純な役割しかない人々といった「二極化」が、当方の予測する、販売現場の「将来図」である。

ただ、商品の供給や陳列といったところは、これまたロボットに置き換えられていって・・・、といった感じでなんとも寒々とした風景が浮かんでくる。

こういうAiの導入による職場変化は、おそらく急激に進んでくるであろう。政府や自治体が声高に言う「働き方改革」は生産性の向上や時間外勤務の縮減といった旧来の価値観の延長線上ではなくて、こうした「環境」の大変化の前に、働く人の能力を転換するトレーニングとして何を提供し、「職業が消失する」環境をどうコーディネートするか、といったことにあるような気がするのだが、どうであろうか

”Amazon Go”の持つ「買い物難民救済」の可能性

 日経新聞の「100人並んでも待ち10分、AmazonのAIコンビニ開業」によれば


【シアトル=佐藤浩実】米アマゾン・ドット・コムは22日、米シアトルでレジのないコンビニエンスストア「アマゾン・ゴー」を一般向けに開業した。画像認識技術などを駆使した最先端のコンビニをいち早く体験しようと、昼どきには周辺のオフィスで働く人らでにぎわった。ただレジで滞らないため、100人並んでも待ち時間は10~15分ほど。訪れた人たちからは「忙しい人に最適」「クールだ」といった声が上がった。


 アマゾン・ゴーはスマートフォン(スマホ)の専用アプリに表示されるQRコードをゲートにかざして入場すれば、ほしい物を棚から取って店の外に持ち出すだけで自動的に会計が済む仕組み。店の天井にはカメラが確認できただけで130台以上は設置されており、誰が何を取ったかを追跡し続けることで実現した。 


ということで、Amazonの実験的店舗が始まった。


完全に無人かと思っていたら、商品供給のスタッフはいるようだから、どちらかというとセルフのガソリンスタンド式っぽい感じである。


ただ、AIで時間と人手のかかるレジ決済を簡略化したというのは画期的なのだが、こうした取組が出る時につきものの「採算性」や「犯罪危険性」とかの懸念が案の定出ているのだが、当方として、中山間地とか高齢化した団地などの買い物難民への救済策として使えないかと思った次第。


というのも、そうした地域での、食料品や日用品の移動販売車や地域住民の運営店は人件費というか、人手の問題が一番のネックであることが多い様子。というのも、移動販売では、現地までの移動距離と滞在時間に必ず人がつかないといけないし、地域住民の店は仕入れのための人手が運転手の確保難(高齢者が多いので事故が若い人より心配なのだ)ということがある。


そこで、こうした無人レジサービスがあちこちで可能となれば、そこへの商品供給を担当する人間と、店内での商品供給をする人手を完全に分離することができる。つまりは、店への商品供給さえすれば、店内運営は地域住民(概ね高齢者だ)のボランティアでも可能であろう。商品供給はAIによる決済システムがあれば、欠品になりそうなものの情報共有や、あるいは予測まで可能になるのでは、と思う次第であるのだが、事業化はならんものでありましょうか。

2018年1月23日火曜日

自動運転は、地域と地域の境界をなくしてしまうのかもしれない。

 

Twitteで、箕面2.0氏の「自動運転になって異動という概念すらなくなり人は都市から都市へと頻繁に行き来するようになる」という落合陽一氏の本の引用をみつけ、「うむ」とうならされた。

今、地域と地域の間を隔てているのは、「距離」であることは間違いない。しかも、それは空間的な距離というよりも、移動して他の地域に行くには、自分で運転するか、交通機関で行くという、「手間」の要る移動手段しかないせいでもある。

これが「自動運転」によって自分が甄嬛を使わずに自分の家の環境に半ば囲まれたままで移動できるとなると、地域間の移動には、例えば自分の部屋と化すであろう「クルマ」の中で過ごす時間が増えるという現象が起こるだけである。どうかすると、今のワンボックスカーぐらいの大きさであれば、自室とほぼ変わらない生活空空間を構築することも可能だから、気分的には「自室にいたまま」で移動する、といった感覚に近くなるんではなかろうか。

そうした時、今は移動の困難さゆえに、どこかに定住するという形をとらざるを得ない我々の居住生活が、半ば、遊牧民化していくであろうし、テレワークのような働き方がもっと進めば、どこかに定着する必要すらなくなるし、仮にどこかに定着するにしても、それは「長い仮住まい」のような意識となっていくのではないだろうか。

そうした時に、「地域」の在り方、あるいは公的サービスの在り方というのはどうなるか、まだうまく想像できていないのだが、通過すること、あるいは仮住まいを対象とした税体制のもとに、水道・下水といったサービスは、使うたびごとの料金制のようになってしまうのかもしれない。

いずれにせよ、自動運転は移動手段の変更にとまらず、体制そのものを変化させるきっかけになるような気がしますね。

2018年1月18日木曜日

移住定住には「雇用」と「愛郷心」あるいは「地域の魅力」のどれが有効か

 今日は、仕事の関係で、地方公共団体の首長さんたちの移住定住についての取組について話を聞く機会を得た。

 
オーソドクスなところでは「働き場所、企業の紹介と言う昔ながらの話」もあり、「出ていく者、若い人の都会志向は止められない。むしろ、都会に出ても、仕事とか都会が自分に合わないと思っている人をどうサポートして。故郷の良さを伝えて、帰住につなげるかだ。」といった話など、多種多様。
 
先日レポートした「地域再生の失敗学」あたりからは、だから田舎の公共団体は、とお叱りがきそうなのだが、「地域の魅力」を増すことが基本であることは分かりつつも、「均質化」が多くの自治体で進んでしまっているのは事実で、「雇用の確保は意味がない」とまで言い切るのは、正直切ない。
 
さらに、「均質化」の先に、それぞれの生まれ故郷なりの馴染みというか、心地よさが田舎の場合存在しているのは間違いなくて、そこが「愛郷心」というか生まれ育ったところへの愛着を産んでいるのは間違いないと思う。ただ、その「愛着」というものが、残念ながら微かなものになってしまっていることも事実で、それ所以に若者が帰ってこない理由に「雇用」を上げてしまう気持ちもわかるのである。
 
ただ、人が来る所、人が来たがる所に「雇用」が生まれていく事も事実。地域の魅力が薄れて帰りたい故郷でなくなったことを、「雇用がない」という言葉で誤魔化しているというのも事実であろう。
つまるところ、腰を据えて、「濃い」地域の魅力を創り上げ、それを「薄い関係」の慣れている若者向けにいかに薄味にアレンジできるか、ってなことが大事かもしれんですね。
 

2018年1月8日月曜日

100歳まで生きる社会での、働く年齢と、働く分野はどう考えるべきか。

 NewsPicksで「2018年、我々はどう働くか」というシリーズが始まっていて、「Life Shift」の著者のリンダ・グラットン氏がインタビュー記事を寄せている。

 
AIによって奪われる仕事や、その地理的範囲といったことにも言及してあるのだが、ここはごく身近に、我々は、いつまで働くことになるのか、といったことが今の関心事。
 
というのは、ごく個人的なことで、今年、正確には来年度末で定年を迎えることになるから。
 
で、氏によると
 
「結論から言うと、私たちは、これからすべての人が「75歳」という年齢まで働くことを認識すべきだと考えています
 
 
寿命が伸びても。引退年齢が変わらなければ、老後の生活は破綻してしまいます。そこで。3ステージの人生にとってかわるのが、「マルチステージの人生」です。
 
マルチステージの人生とはその名の通り、生涯に2つや3つの仕事を持つなど、数々のステージを持つ人生です。
この人生が普通になれば、私たちは人生で多くの「移行」を経験するようになります
 
とのこと。
 
で、これに幾人かの人がコメントを寄せているわけだが、50歳代の日本M&Aセンター常務の大山氏が、「最悪の選択は定年延長、または撤廃で、会社や社会の上層部を老人が占めることによる進歩への阻害」の危険性を指摘し、「経済的にも、社会的にも高齢者が同じフィーフィールドで働くべきでないこと」を主張しておられるのだが、最近、中小企業の経営者の方と話をする機会が多くなっている当方としては、ちょっと割り引いて考えたい所。
 
というのも、60歳から70歳までの、かなり元気なご老体が多いからである。さらに60歳を過ぎてから、新しいビジネス分野に乗り出している方も見受けるので、そう一律に考えなくてもよいと思うのである。
 
もちろん、若い人と職場を争ったり、若い人を押しのけるのは控えないといけないだろうし、がむしゃらに大量に働くことはムリなのだが、若者と良い意味での競争をしながら現役生活をおくれる社会と言うのが、これから日本の社会が目指すべきではないかと思う次第である。
 
個人的には、分野によって得手不得手はあろうが、例えば、80歳代のプログラマーとして活躍中の「若宮正子」さんを見習って、若者を押しのけないが、若者とほぼおなじ分野で競い合うってのが理想のような気がしますが。

2018年1月4日木曜日

IoTの時代に「人間の判断」はどうなっていくのか

 

本日(2018.01.04)の日経新聞では

「1989年からの視線」に「書店にはいかないー流行より「私だけ」追究」でブロックチェーン事業のCIOの方が、書店に行かずSNSやFeedlyなどで情報を収集し本を買うことを取り上げ、「「インターネット」の進展も加わり、流行を追うのではなく、自分にあったものを自分のやり方で捜す傾向が強まった。」として、ロバート・キャンベルさんの言葉を引用して「違和感を持つものに触れ、異なる考えの人を理解する力をつけてほしい」と論評してあった。

また、

「ポスト平成の未来学」ではポストススマホとして、「ヒアラブル」に着目しつつも、「ポストスマホ時代に問われるのは一人ひとりの主体性だ。AIの守備範囲が広がるほど僕らは自ら考え、挑戦することを怠るのではないか」

と論評してあって、ここだけ読むと、日経の記者さんたちは、どうもAIの系統にはあまり良い印象を持っていない様子。

まあ、イーロン・マスクやビル・ゲイツなど、ITや先端技術に深く関係する人も懸念の意を示しているんだけど、ちょっとネガティブが過ぎるかな、という感じがする。というのも、私達が本にしろ何にしろ何かを選択するときに、自らの知識と考えだけで選択することはないわけで、それが知人と友人とか今まで読んだ本とかの世界から、不特定多数の意見を採取する機会と人間以外の機械知のようなものからのアドバイスをとることができるようになったのは間違いない。

その時に、どこにアドバイスをうける力点を置くかは、当然のようにかなり選択肢の幅が広がったことには間違いなくて、判断の正しさの当たりハズレは問うべきではあるが、アドバイスをとる相手方が生身の人間かどうかはんさほど問うべきではないので、と思う次第である。

IoTの対象は2030年にはIT関連機器全体の80%になる、とも言われていて、我々を取り巻くものがインターネットを介して、マシンや不特定多数の人々につながっていく時代は、そこに来ていると思うのだが、その時に、私達が物事判断する方法が、以前と同じ形で成立するはずもないように思えるのである。

むしろ、あふれるほどの情報が、五感全てを取り巻く中で、「人間」とはどうするのかを考えていくべきで、そこから逃げてもいかんと思うんであるが、如何か。