2011年3月31日木曜日

Amazonのクラウド上の音楽保存、ストリーミングサービスが案の定、大騒ぎの様子

アメリカのお話ではあるのだが、Tech Crunch Japanの"amazonがAppleやGoogleより先に音楽保存/ストリーミングサービスを開始"によると
 
Amazonは"音楽ロッカー"分野に進出するだけでなく、それをGoogleやAppleよりも先にやってしまった。今夜(米国時間3/28)立ち上げた"Cloud Drive"と"Cloud Player"がそれだ。
 
(中略)
 
以下に、詳細を少し:
 
Amazon MP3で購入したアルバムは無料でCloud Driveに置ける?なかなか良いサービスだ。
Amazon MP3でアルバムを買ったら、無料容量が1年間20GBになる?これもいかしてる。
通常料金では、20GBが1年で20ドル、50GBは50ドル、100GBは100ドル、等々だ。最大の1TBは、1000ドル。
音楽以外のものも置ける。Amazonは、1TBなら70時間ぶんのHDビデオを置ける、と言っている。
写真や文書をアップロードしてもよい。
(以下、略)
 
ということで、案の定、音楽レーベルやらが著作権なりの関係でちょっとした騒ぎになりそうなのだが、またまたamazonが仕掛けてきましたか、ってな感じ。
 
残念ながらKindleによる電子書籍は、日本語と日本の著作権の関係でまったくといっていいほど不発の状態になっているのだが、音楽、特に洋物については言語の問題はクリアできるだろうから、アメリカでなんとか軌道にのれば、日本でもなし崩し的に広まっちゃうのではなかろうか。
Kindleにしても、アメリカのamazonのアカウントを取って買ってる人もいるぐらいだから、音楽についてもアメリカのamazonnアカウントでどーたらこーたら、ってな感じで、建前はどうあれ実質として普及していくような気がしてならない。
 
で、さて、日本のレーベルはどう対応していくんでしょうかねー。
 

高橋克徳ほか「不機嫌な職場」(講談社現代新書)

成果主義あるいは、市場主義の浸透によって、何が変わったかというと、個人的な実感としては、職場の人間関係が一番かな、と思わざるをえない。


 私なぞが勤め始めた1980年代は、今に比べるとかなり牧歌的な時代といえなくもなくて、勤務管理もかなりいい加減であったし、なにかしら、のんびりとした風情が残っていた。具体的な例を挙げれば、週休2日制は、まだ大企業にしか導入されてなくて、大半の会社は土曜日は「半ドン」という形で、勤務時間は午前中までだったので、昼からは同期で集まって麻雀をしたりとか、遊ぶ仲間が集まらないので、
やることがなくて残業したり、といった具合であったし、職場の泊まりがけの忘年会やレクリエーション、運動会もまだまだ健在であった。
  それがいつの間にか、妙に人間関係の薄い、どこなく尖った職場になってきている。そして、こうした職場の在り様を、さほど抵抗なく、皆が受け止めてしまっているという状況のような気がする。

 本書は、そうした出口のない「職場の問題」に対して、なんとか解決のアプローチを探ってみようとしている。

 こうした状況がなぜに生まれたのかというのは、本書でも示されているように、1990年代後半から、様々な側面で進められた「効率化の圧力と成果主義」の動きが、「仕事の定義」の明確化を進め、それは、個々の職場のサラリーマンの専門性を深化させる。そしてそれが、日本の組織の生産性を高めるともに、「調整」「束ねる」といった力を弱める、組織力を弱める、といった方向へと誘導した、というのは恐らく正しいのだろう。
 ただ、それをかなりの力で加速したのは、当時の職場を覆っていた一種の「閉塞感」であったように思う。こうした閉塞感の打破が、当時、アメリカ風で、ぴかぴか輝いていた、専門職化とIT化に包まれ、べたべたした人間関係から離れた労働、というものに人々が傾斜していったせいもあるような気がしているのである。

そうした意味で、つい最近まで運動会をしていたという話があるグーグルの就労環境は、グローバルのエンジニアの集団という特異性の欠陥を補うための戦略的なものかもしれないが、乾いた職場環境だけではない、という意味で注目してもいいだろう。とりわけ、グーグルが採用の時に重視するものは、

①スキル
②コワークできるか(ほかのグーグルの人と一緒に働けるか)
③セルフスターターかどうか(自分で動ける人か)

というあたりは、何かを象徴しているようで興味深い。

本書は、このほかにサーバーエージェントの取り組みやヨリタ歯科クリニックの取り組みが紹介されていて、職場の人間関係の改善や、職場管理を担当しているセクションの方たちには、処方箋も含めて、非常に興味深いだろうし、その手法として本書が提案する「共通目標・価値観の「共有化」や「インォーマル活動の再評価」、「感謝と認知のフィードバック」など職場をリペアするための具体的な教則本として読んでもいいだろう。

で、ここで、天の邪鬼的な辺境駐在員は呟くのである。べたべたな人間関係を嫌ったと思ったら、乾きすぎだと言う。なんとも終わりのない話しではあるのだなー、と。

ゲッツ板谷 「ベトナム怪人紀行」(角川文庫)

=この記事は「辺境駐在員のブックレビュー」に掲載(2005.10.8)したものです=


日本の怪人、ゲッツとカモちゃんが、今回はベトナムに挑む。今回の旅の不幸な道連れは

ベトナムで日本のテレビ番組のコーディネートをしている鈴木君。

「タイ紀行」と違い、最初は、耳掃除の心地よさやらフォーやラウ・マム(寄せ鍋)をはじめとするベトナム料理のうまさから始まる。なんか雰囲気違うと思うことしきり。「タイ紀行」ではケンカしてる場面が多かったのだがなー。最後は、絶滅が危惧される手乗り鹿を食する話・・・(やっぱり、ここに落ち着くか)。

料理の話が出てくるのは最後まで一貫している。あちこちでの特色ある料理(中には「犬料理」も含まれるのだが)が紹介され、美味そうに描かれている。


お決まりのオカマの人も登場する。タイといいベトナムといい東南アジアでは、大概の本でオカマが登場するのは何故だろう。今回はやけに純粋で可憐なオカマ少年が登場。
この本のオカマ少年もどことなく寂しげである。

と、しんみりしていたかと思うと、突然、○欲まっさかりみたいなことになるのが、この本のよいところ。ベトナム中部で、一人旅をしている独身日本女性に会った途端、変貌していまうわけだ。まあ、最後は、何もなく別れてしまうのが定番なのだが、妙に、このあたりは文体がはずんでいるのがおかしい。

後は、カブトムシ捕獲で一攫千金を狙う話や「犬料理」の話など。「犬」のハムのは、味は悪くないのだが、「犬」の姿を思い浮かべた途端吐き気がこみ上げたというくだりには、愛玩物としてしか認識できない私たちの限界を思う。

今回は、やはりベトナムということで、ベトナム戦争の負の遺産からは自由になれない。随所にベトナム戦争の枯葉剤の影響がでている子供たちや、負けた側の南ベトナムの兵士の話がでてくる。
さらには、太平洋戦争の時に置き去りにされた日本人だと主張するベトナム人。ところが、途中で、カンボジアのポリ・ポト軍を攻めたフン・セン軍に参加した兵士の話から様相が異なってくる。被侵略者であったベトナムが、解放者という名の侵略者へ変わった話など。随所に、元兵士へのインタビューもあり、要所要所を引き締めている。

全体として、「タイ怪人紀行」に比べ、少し重い。それはベトナム戦争こともあるのだろうが、タイとベトナムの違いも影響しているのかもしれない。

2011年3月30日水曜日

EvernoteのWeb版が変わった

LifeHacking.jpの大幅に高速化して新機能満載の Evernote 新ウェブ版を試してみようを見て、早速、EvernoteのWeb版にアクセスしてみた。
 
自宅のメインPCではデスクトップ版のEvernoteを使っているのだが、職場やモバイル(ネットブックだ。初期型なので、当然スペックは低い)は、セキュリティの関係やPCの容量の関係でWeb版を使っている。さらに寝室のPCは古いノートブックでおまけにUbuntuという環境なので、Web版にならざるをえないのだ。
 
で、使った感想は、というと
 
まず、デザインがクールになったのが良。これがMac用のデザインなのかなー、とWindows使いの私としては想像するしかないのだが、非常にノートがないようも含め一覧しやすくなった。
さらに、理速度も上がっているような気がする。
 
このほかに新機能としては
 
ノートブック・スタックへの対応
編集中のオートセーブ機能
共有機能のノート単位、Facebookを通した共有の機能の追加
 
といったことが追加になっているらしい。
 
まだまだ使い込んでいないなー、というのが自分のEvernoteの利用レベルなのだが、仕事や生活の必須アイテムになりつつあるのは間違いない。
 

2011年3月29日火曜日

「学校」というものの原初的な姿

GIGAZINEの「先生やめないで!」、教師の一時解雇を止めるため3年間ためたお小遣いを全額寄付した小5女子
 
予算削減のために数千人の教師に一時解雇通知が送られたことを知り、自分を教えてくれている先生たちが辞めないで済むようにと、自分がコツコツ3年間ためてきたお小遣いをすべて寄付した小学5年生の女の子が現れました。
彼女の全財産では、残念なことに教職員のポスト1人分すら確保することもできない額だったのですが、彼女の誠意に心動かされた学生や保護者たちが募金を集め、2万ドルもの資金を集めることができたそうです
 
というのは、アメリカのカリフォルニアの話。
 
ひょっとすると、これが「教育」あるいは「学校」というものの原初的な姿、出発点なのかもしれない。
 
「何かを教えてもらうお礼に、自分食べ物を節約して届ける」ってなことが学校の始まりのような気がしていて、こうした直接的な結びつき、直裁的なつながりが、これからの教育を再生させる上で大事なことかもしれない。
 
でも、こうやって支援してもらえる先生ってのは、先生冥利に尽きますよね。

2011年3月28日月曜日

「アンドロイド普及ツールになりかけている「iPod touch」 」という皮肉な話

NIKKEY Trendy のアンドロイド普及ツールになりかけている「iPod touch」によると
 

スティーブ・ジョブズが「補助輪」と呼んだのは、iPod touchが、「次のiPhoneユーザーとなる顧客層を生み出してくれる」という意味だった。スマートフォンの購入を検討している携帯ユーザーや、まだ金銭的にスマートフォンを所有する余裕がないティーンエイジャーが最初にiPod touchを購入することで、スマートフォンを疑似体験できるというわけだ。
 
  (略)
 
 つまり、これまでは、iPod touchを購入した5000万人の人々が、のちにスマートフォンを購入するという美しい仕組みが成立していたのだ。
しかしこの仕組みは皮肉な形へと変容しようとしている。iPod touchでスマートフォンの楽しさを啓蒙された人々の前に、「アンドロイド携帯」というもう1つの選択肢が登場した。その結果、補助輪を外したユーザーが向かう先が、当初の思惑とは異なってしまった。
 
 
 ということらしいのだが、「iPod touch から iPhoneに切り替えた人」ってのに、見事に当てはまる私としては少々複雑な話.。
 
 
 切り替えた当時は、Androidといった選択肢はほぼなくて(willcomのWindows-mobile(Windows Phoneじゃないよ)という選択肢はあったが・・・)、まともに使えて、しかも維持費も手頃というスマートフォンはiPhoneしかなかった。
その意味で、評判はいろいろあるがSoftBankの功績は大きいと思う。 
 
ただ、iPod touchでスマートフォンの楽しさを云々というのは、少々疑問のような気がする。
 
 今のAndroid人気は、Docomoやauでスマートフォンに乗り換えたくても、今のキャリアを変えるきっかけや、いつも使い慣れている携帯メールの環境を変えたくないという消極的スマートフォン派が増えているからで、iPod touchユーザーが流れ込んでいるってのはかなー、という気がする。
 
 Pod touchを使っていた経験からいうと、iOSの敷居の低さ洗練度やApp storeの便利さに到達するまでには、まだまだAndroidは努力しないといけないような気がする。とりわけ、度重なるバージョンアップと互換性の問題は、長期間の利用者を考えるとなんとかしなければいけない課題だろう。
 
 
 フィーチャーフォンからの乗り換えが一巡したあたりが、本当のiPhone(iOS)とAndoridのシェアの戦いのような気がしているのだが・・・

2011年3月26日土曜日

城 繁幸 「3年で辞めた若者はどこへいったのか」(ちくま新書)

「自分としては、若い世代に対し、昭和的価値感に従わず生きる人たちの仕事や人生観を紹介することで、若者が平成的価値観をはぐくむ手助けとしたい。 


といった、「はじめに」の言葉で始まる本書。

 本書の言う「昭和的価値感に従わず生きる人たち」とは

 ・大手流通企業から外資系生保に転職、年収が2倍になった彼
 ・大手新聞社の文化部記者という生き方
 ・企業でなく、IT企業に就職したという意識を持つ男
といった形で競争社会につきあっている若者や

 ・赤門から仏門へ、東大卒業後、出家した彼の人生
 ・フリーター雑誌が模索する、新しい生き方

 といった、競争社会に背を向ける生き方であり、ざらっとみると、いわゆる古い働き方から平成的な働き方やライフスタイルを提案する書のように見える。
しかし、「読み違い」の恐れを承知しながら、あえて言うと、本書の肝は、むしろ、そうした様々な人々の生活のスタイルのインタビュー記事の間に挟まれる「コラム」にあるのではないだろうか。


もともと、本書の最初の姿はWebちくまに「アウトサイダーズ 平成的生き方のススメ」という形で連載されてものらしいので、最初のスタイルは、インタビュー記事が中心であるのだろうが、「企業に求められる多様性とは」「21世紀の大学システム」「格差のなくし方」といったコラムが挿入されることで、違った様相を示してきている気がする。

 そして、それは、いわゆる「正規職員と非正規職員の格差」や、「中高年労働者と若年労働者の配分の不均衡」への問題提起でもあり、筆者のいう「再配分の必要性」と「旧来の労働スタイルの破壊と再構築」「真性の意味での職務給の確立」といったことがその解答であるのだろう。

しかし、雑誌連載が2007年、そして本書が出たのが2008年。

その後、我々は「秋葉原通り魔事件」を経験し、リーマンショックを経験し、政権交代も経験した。


 残念ながら、本書の「はじめに」の最後の部分の


「彼らはどのような壁に直面し、何を目指してレールを降りたのか。そして今後、企業や社会が目指すべき改革とはどのようなものか」

に対する答えはまだ混迷に中にあるといわざるをえない。