ロイターのサイトでこんな記事を見つけた。
アジアの大半、不況でもぜいたく重視
というタイトルで
アジア16カ国・地域の3万3000人を対象とした同調査によると、86%は金銭面での不安を感じており、80%は将来のために貯金をすると答えた。同時に、回答者の82%は現代社会のストレスに打ち勝つためには、ぜいたくをすることが1番だと考えており、リラックスの方法には、家族と過ごす時間、短期間の休暇、スパのトリートメント、ちょっとしたぜいたく品の購入などが挙げられた。
また、76%は将来を楽観視しており、40%は来年は家計が改善すると考えていた。
といった内容で、なんかアジアは、まだまだ楽天的で、元気だな~、と妙な安心感を覚えた。
南国のすこーんとした青空が連想されて、なーに、アメリカがどうなろうと、お天道様と米の飯はついてまわるさ、なんてことを大声で言いたくなってしまう。
こうしたアジアの楽観というのは、まあ守るべきものが少ない、あるいは、これから何かをつくればいいんだ、という若い発想というか、刈っても、すぐ生えてくる熱帯のジャングルの草木の獰猛さといったもので、そんなに高尚なものではないのだろうが、こうした不景気の時は、ちんまりと収まりかえって、静かにしているよりも、猥雑ではあるが、賑やかで、何か良いことがありそうな気がするのは確かだ。
仮に良いことがなくても、仏頂面をして不幸なことがおきるよりはましというものだろう。
さて、アジアの能天気さに見習って、何かプチぜいたくでも考えてみますかな。
日本の人口最少県である鳥取県に住まう、リタイア生活の途上人の田舎の日常のあれこれ。「辺境」には地理的、意識的の二つの側面があり、 あくまで『”中心”ではない』と宣言中。このサイトは、本編「辺境駐在員の備忘録」の過去ログ+私的な記録+補遺なのであしからず
2009年6月30日火曜日
中谷 巌 「資本主義はなぜ自壊したのか」(集英社)
ご存じのように中谷 巌氏は、小泉内閣の「経済戦略会議」の議長代理をはじめ、数多くの政府委員を務め、構造改革の旗手として大活躍していた人。
その人が、構造改革を推進してきたことを自己批判し、「転向」を表明したのが、本書である。
構成は
序章 さらば「グローバル資本主義」
第一章 なぜ、私は「転向」したのか
第二章 グローバル資本主義はなぜ格差をつくるのか
第三章 「悪魔の碾き臼」としての市場社会
第四章 宗教国家、理念国家としてのアメリカ
第五章 「一神教思想」はんぜ自然を破壊するのか
第六章 今こそ、日本の「安心、安全」を世界に
第七章 「日本」再生への提言
終章 今こそ「モンスター」に鎖を
となっていて、著者がなぜ「市場原理主義」に惹かれていったか、を若い頃の留学経験などを語りながら延べ、「アメリカ」という国家の特異性、実は「市場原理主義」も特異な存在であることと、その欠陥というよりは害悪が、まず語られていく。
途中、キューバやブータンといっ貧しくはあるが国民が満足して暮らしている国家の話などが語られ、第六章あたりからは、市場原理主義との決別や、日本なりの取るべき道の提言がされていく。
内容的には、難解すぎる経済用語などは少ないので、経済学っぽい本としては取っつき易い方だろう。専門家あたりには、目新しいものがないといった批判もあるが、なに、私のような素人には、それぐらいがちょうどいいってなもんである。
また、最近、諸悪の根源のように言われ始めている「市場原理主義」の批判ないし欠陥を勉強する本としては、私のような素人にうってつけの本といっていい。
ただ、ただ、である。
こいつは、極度に個人的な見解として考えていただきたいのだが、これは「禁断の書」あるいは「禁じ手が使ってある本」なのではないだろうか。
市場原理主義の功罪は全世界的な話なのでおいておくとしても、小泉内閣の「構造改革」が日本の社会へもたらした影響というのは、かなりすさまじいものがあった、と私は考えている。それは、陽の面もあるが、もう取り返しのつかない「影」「陰」の面も確実に存在する。そうした政策の、かなりの中枢であった人が、この時点で反省している感じはあるが、「間違っていました」「転向です」というのは、ちょっとないんじゃないの、という感覚が先に立つのである。
さらには、本書の始めの方にあるように、アメリカ留学当時は、そうした新自由主義思想がぴかぴかに輝いていたから、良いモノと思いこんで仕方がなかったばりのあたりを読むと、「嗚呼、騙された我が悪いんだろうね・・・」と自嘲的に呟かざるをえなくなってくるのである。
「世の中は革命、反革命、反々革命、反々々革命の連続だ・・・、何も変わりはしない」といったなげやりな言葉を口にして、この稿を終わろう。正直な感想をいえば、仕事柄、構造改革には、地方政府のこととはいえ、少々関わった身としては、いろんな思いが交錯して、この本を読むのは、ちょっと疲れるんですわ・・・。
その人が、構造改革を推進してきたことを自己批判し、「転向」を表明したのが、本書である。
構成は
序章 さらば「グローバル資本主義」
第一章 なぜ、私は「転向」したのか
第二章 グローバル資本主義はなぜ格差をつくるのか
第三章 「悪魔の碾き臼」としての市場社会
第四章 宗教国家、理念国家としてのアメリカ
第五章 「一神教思想」はんぜ自然を破壊するのか
第六章 今こそ、日本の「安心、安全」を世界に
第七章 「日本」再生への提言
終章 今こそ「モンスター」に鎖を
となっていて、著者がなぜ「市場原理主義」に惹かれていったか、を若い頃の留学経験などを語りながら延べ、「アメリカ」という国家の特異性、実は「市場原理主義」も特異な存在であることと、その欠陥というよりは害悪が、まず語られていく。
途中、キューバやブータンといっ貧しくはあるが国民が満足して暮らしている国家の話などが語られ、第六章あたりからは、市場原理主義との決別や、日本なりの取るべき道の提言がされていく。
内容的には、難解すぎる経済用語などは少ないので、経済学っぽい本としては取っつき易い方だろう。専門家あたりには、目新しいものがないといった批判もあるが、なに、私のような素人には、それぐらいがちょうどいいってなもんである。
また、最近、諸悪の根源のように言われ始めている「市場原理主義」の批判ないし欠陥を勉強する本としては、私のような素人にうってつけの本といっていい。
ただ、ただ、である。
こいつは、極度に個人的な見解として考えていただきたいのだが、これは「禁断の書」あるいは「禁じ手が使ってある本」なのではないだろうか。
市場原理主義の功罪は全世界的な話なのでおいておくとしても、小泉内閣の「構造改革」が日本の社会へもたらした影響というのは、かなりすさまじいものがあった、と私は考えている。それは、陽の面もあるが、もう取り返しのつかない「影」「陰」の面も確実に存在する。そうした政策の、かなりの中枢であった人が、この時点で反省している感じはあるが、「間違っていました」「転向です」というのは、ちょっとないんじゃないの、という感覚が先に立つのである。
さらには、本書の始めの方にあるように、アメリカ留学当時は、そうした新自由主義思想がぴかぴかに輝いていたから、良いモノと思いこんで仕方がなかったばりのあたりを読むと、「嗚呼、騙された我が悪いんだろうね・・・」と自嘲的に呟かざるをえなくなってくるのである。
「世の中は革命、反革命、反々革命、反々々革命の連続だ・・・、何も変わりはしない」といったなげやりな言葉を口にして、この稿を終わろう。正直な感想をいえば、仕事柄、構造改革には、地方政府のこととはいえ、少々関わった身としては、いろんな思いが交錯して、この本を読むのは、ちょっと疲れるんですわ・・・。
2009年6月29日月曜日
鰯の刺身
新鮮な鰯は、やはり刺身がいいと思うのは、年取った証拠かもしれない。
三枚におろして、ちょっと大きめに切って、氷の上に載せておくと、いい冷え頃になるのと、臭みも消えるように思う。
好みで、わけぎか青ねぎの刻んだのを散らしてもよい。初夏の風物であるなー。
三枚におろして、ちょっと大きめに切って、氷の上に載せておくと、いい冷え頃になるのと、臭みも消えるように思う。
好みで、わけぎか青ねぎの刻んだのを散らしてもよい。初夏の風物であるなー。
2009年6月28日日曜日
「いけちゃんとぼく」あれこれ
「いけちゃんとぼく」が映画化され、あちこちで評判になっていることもあって、ブックレビューの方でも原作をとりあげたのだが、そのついでにあちこちのサイトを巡っていると、あちこちに西原理恵子さんの、面白いインタビューがあって興味深かった。
もちろん、いけちゃんのきっかけは、息子さんが(おそらくイジメられた時に)ランドセルに書いた落書きがヒント、とか「好きな人がいた人、今好きな人がいる人に観に行ってほしいです。“好き”がたくさん詰まった映画になっているので」とか、それなりのものもいっぱいあるんだが、
例えば
「もともと5万部刷ったうちの2万部しか売れなくて、3万部もお蔵入りになっていたけど、テレビで取り上げられるとあっという間に売れた。ぱっとしないまま終わるはずの絵本だったけど、テレビ様のおかげで売れた(笑)」
とか
「私のファンが老眼になり始めたので、リハビリ感覚で絵本より何かおっきいことをやろうという話になった」
といった西原さんらしいインタビューが散見されて面白い。
そういえば、この「いけちゃんとぼく」が出た頃は、元旦那さんの鴨志田さんも、まだ元気だったはずで、この本に出てくる父親と息子の別れに、なぜかしら重ねあわせてしまうのだが、そんなことも乗り越えて、きっと、これからもパワフルな作品が仕上がっていくんだろうなー、とまあじゃん放浪記あたりからのファンである私としては思うのである。
なには、ともあれ、映画がはやりますように・・・
もちろん、いけちゃんのきっかけは、息子さんが(おそらくイジメられた時に)ランドセルに書いた落書きがヒント、とか「好きな人がいた人、今好きな人がいる人に観に行ってほしいです。“好き”がたくさん詰まった映画になっているので」とか、それなりのものもいっぱいあるんだが、
例えば
「もともと5万部刷ったうちの2万部しか売れなくて、3万部もお蔵入りになっていたけど、テレビで取り上げられるとあっという間に売れた。ぱっとしないまま終わるはずの絵本だったけど、テレビ様のおかげで売れた(笑)」
とか
「私のファンが老眼になり始めたので、リハビリ感覚で絵本より何かおっきいことをやろうという話になった」
といった西原さんらしいインタビューが散見されて面白い。
そういえば、この「いけちゃんとぼく」が出た頃は、元旦那さんの鴨志田さんも、まだ元気だったはずで、この本に出てくる父親と息子の別れに、なぜかしら重ねあわせてしまうのだが、そんなことも乗り越えて、きっと、これからもパワフルな作品が仕上がっていくんだろうなー、とまあじゃん放浪記あたりからのファンである私としては思うのである。
なには、ともあれ、映画がはやりますように・・・
西原理恵子「ぼくんち」(小学館)
「いけちゃんとぼく」をとりあげたら、なんとなく西原理恵子さんのものをとりあげたくなったので、続けてレビューをすることにする。
で、そうなると「ぼくんち」である。
というのは、全編を通じて流れるハチャハチャさともの悲しさ、そしてラストの泣かせどころといい、「いけちゃんとぼく」にひけをとらない出来だと思うのだが、どういうわけか、大々的に取り上げられているのを最近見ない。やはり、西原さんのいう「下品さ」が影響しているのか?けして、そんな下品ではないぞ、とこの作品を援護したくなったという訳である。
始まりは、「山と海しかないしずかな町」に住む男の子「二太」のところに、三年前に家出していた母親が帰ってくる。なんと「おねえちゃん」と一緒にだ。「おねえちゃん」の名前は「かのこ」といって、ここにくる前は「ピンサロ」で働いていて・・・・、といったところから。まあ、なんとも乱暴な出だしではあるが、西原さんの漫画らしいといえばいえなくもない。
そして、再び母親が家出して、二太は、(たぶん)この血のつながらない「おねえちゃん」と暮らし始めるのだが・・・
といった感じで進んでいくのだが、町の人間というのも、貧乏で、のんだくれで、隙を見せればトロいやつから何かをかすめとろうとするし、隙がなくても、なんとか自分の身は守ろうとする、「なんとも、は~~・・・」、という感じで、こすっからくて、なんとも切ない暮らしが展開していくのである。
町のワルの「こういち」くんや、シャブ中でアルコール中毒の父親をもちながら、とっても強く生きている「さおりちゃん」や、わけがわからんようになっている中華料理屋のおやじとしっかり者のおかみさんやら、小さな、山と海にへばりつくような町で、せせこましく、しかし、それぞれに目いっぱい生きている、悪いこともたくさんして、善いこともそれなりにして生きている姿が、二太、一太、そして「おねえちゃん」のかのことともに、エンドレスに続くかのように、語られていく。それは、ワハワハと笑いを誘いながら、そのくせ、ちょっぴり涙を誘う物語の連続である。
しかし、物語には、始まりもあれば終わりもある。そして、大抵の場合、始まりはゆっくりと始まっても、終わりは、ガラガラっと終わっていくのが、多くの物語の常である。
一太は都会へ出、「おねえちゃん」は母親の借金を返し終わる頃、二太の将来を思い・・・
というところで、この「ぼくんち」の最後の泣かせどころをネタばれ承知であえてレビュー。
と、いうのも少しネタばれしたところで、いや、むしろ少々ネタばれした方が、このシーンを読むがために、この本を手に取る人が出てくると思うがためだ。
絵を出すとネタばれがすぎるのでセリフだけを引用すると、
一つは、物語の終焉の一つ前。
かのこ と 二太 は町の山に、タイムカプセルを探しに行くが見つからない。
そこで、かのこは、二太に親戚にもらわれることを告げ、
それからねえちゃんは
うしろを向いてずっと地面をほじくり返していた。
ハナ水がどばどば出ているのが見えた
日がくれて
宝物はみつからなかった
ねえちゃんは
小さな声で
ねえちゃんはここにいるから、
ねえちゃんはタイムカプセルやから、
いつか、一太と二太でむかえにきてな
と言って
またハナ水を
どばどば出した
そして
二太が親戚のおじいさんに引き取られて、漁船で、この町を離れていくシーンが、また泣かせどころというか、絶品である。
(船べりから、だんだん離れていく二太の目線で)
恐竜の入り江がすぎると
いよいよぼくの町が見えなくなる。
(じいちゃんのセリフ)
二太、
寒いき
中、入っちょき
(二太、振り返って)
じいちゃん、
ぼく
知ってんで。
こうゆう時は
笑うんや。
どうです。泣けてくるでしょ。私なんぞは、はじめ白黒のバージョンのものしかもっていなかったのだが、このシーンをカラーで見たいために「ぼくんち 3」を買ったのでありますよ。
「いけちゃんとぼく」が「泣ける本 NO.1」であるなら、この「ぼくんち」は「もっと泣ける本」であり「元気の出る本」であること間違いなしの一冊である。
しかし、ビンボーで、せこくて、トロい人を登場人物にして泣かせる物語を描かせると、西原理恵子さんってのは名手なんだよな~。
で、そうなると「ぼくんち」である。
というのは、全編を通じて流れるハチャハチャさともの悲しさ、そしてラストの泣かせどころといい、「いけちゃんとぼく」にひけをとらない出来だと思うのだが、どういうわけか、大々的に取り上げられているのを最近見ない。やはり、西原さんのいう「下品さ」が影響しているのか?けして、そんな下品ではないぞ、とこの作品を援護したくなったという訳である。
始まりは、「山と海しかないしずかな町」に住む男の子「二太」のところに、三年前に家出していた母親が帰ってくる。なんと「おねえちゃん」と一緒にだ。「おねえちゃん」の名前は「かのこ」といって、ここにくる前は「ピンサロ」で働いていて・・・・、といったところから。まあ、なんとも乱暴な出だしではあるが、西原さんの漫画らしいといえばいえなくもない。
そして、再び母親が家出して、二太は、(たぶん)この血のつながらない「おねえちゃん」と暮らし始めるのだが・・・
といった感じで進んでいくのだが、町の人間というのも、貧乏で、のんだくれで、隙を見せればトロいやつから何かをかすめとろうとするし、隙がなくても、なんとか自分の身は守ろうとする、「なんとも、は~~・・・」、という感じで、こすっからくて、なんとも切ない暮らしが展開していくのである。
町のワルの「こういち」くんや、シャブ中でアルコール中毒の父親をもちながら、とっても強く生きている「さおりちゃん」や、わけがわからんようになっている中華料理屋のおやじとしっかり者のおかみさんやら、小さな、山と海にへばりつくような町で、せせこましく、しかし、それぞれに目いっぱい生きている、悪いこともたくさんして、善いこともそれなりにして生きている姿が、二太、一太、そして「おねえちゃん」のかのことともに、エンドレスに続くかのように、語られていく。それは、ワハワハと笑いを誘いながら、そのくせ、ちょっぴり涙を誘う物語の連続である。
しかし、物語には、始まりもあれば終わりもある。そして、大抵の場合、始まりはゆっくりと始まっても、終わりは、ガラガラっと終わっていくのが、多くの物語の常である。
一太は都会へ出、「おねえちゃん」は母親の借金を返し終わる頃、二太の将来を思い・・・
というところで、この「ぼくんち」の最後の泣かせどころをネタばれ承知であえてレビュー。
と、いうのも少しネタばれしたところで、いや、むしろ少々ネタばれした方が、このシーンを読むがために、この本を手に取る人が出てくると思うがためだ。
絵を出すとネタばれがすぎるのでセリフだけを引用すると、
一つは、物語の終焉の一つ前。
かのこ と 二太 は町の山に、タイムカプセルを探しに行くが見つからない。
そこで、かのこは、二太に親戚にもらわれることを告げ、
それからねえちゃんは
うしろを向いてずっと地面をほじくり返していた。
ハナ水がどばどば出ているのが見えた
日がくれて
宝物はみつからなかった
ねえちゃんは
小さな声で
ねえちゃんはここにいるから、
ねえちゃんはタイムカプセルやから、
いつか、一太と二太でむかえにきてな
と言って
またハナ水を
どばどば出した
そして
二太が親戚のおじいさんに引き取られて、漁船で、この町を離れていくシーンが、また泣かせどころというか、絶品である。
(船べりから、だんだん離れていく二太の目線で)
恐竜の入り江がすぎると
いよいよぼくの町が見えなくなる。
(じいちゃんのセリフ)
二太、
寒いき
中、入っちょき
(二太、振り返って)
じいちゃん、
ぼく
知ってんで。
こうゆう時は
笑うんや。
どうです。泣けてくるでしょ。私なんぞは、はじめ白黒のバージョンのものしかもっていなかったのだが、このシーンをカラーで見たいために「ぼくんち 3」を買ったのでありますよ。
「いけちゃんとぼく」が「泣ける本 NO.1」であるなら、この「ぼくんち」は「もっと泣ける本」であり「元気の出る本」であること間違いなしの一冊である。
しかし、ビンボーで、せこくて、トロい人を登場人物にして泣かせる物語を描かせると、西原理恵子さんってのは名手なんだよな~。
2009年6月27日土曜日
西原理恵子「いけちゃんとぼく」(角川書店)
西原理恵子さんの初めての絵本。
いけちゃんは
ずっとまえから
そばにいる
いけちゃんは
なんとなく そばにいる
から始まる、丸くて、ふわふわの「いけちゃん」と「ぼく」の日々の暮らしと生活と、ぼくの成長と別れを描いた絵本、といっていいのかな?
このあたり大筋は言い得ていると思うが、いまいち、この絵本の全体を通した感覚を表現できていないようでもどかしい。
西原さん特有の、露悪的なギャグを含んだお話、例えば、ぼくが友人にバナナの皮やナフタリンを食わす話などや、喧嘩やいじめ、父親との死別のエピソードが、いつもそばにいる「いけちゃん」とのふれあいが、この人特有のパステル調ではあるが、原色に近い、なんとなく、南国のアジアっぽい色使いとともに語られていくのだが、ワハワハと読みながら、時折うむ・・・とかうならされて、なんとなくもの悲しくなってしまうのは、いつもの西原理恵子調絶好調である。
例えば、父親を亡くした悲しみは、海で100回おぼれるほどの感じ、「100うみ」だと「ぼく」と語りながら、でも
せかい中で人よりはやく
大人にならないといけない
子供っているんだよ
キミも その中の
ひとりなんだよ。
と語っていくあたり、知らず知らず、西原ワールドに入り込んでしまって、恥ずかしながら目が潤んでいるる自分に気づかされてしまう。
そして、「いけちゃん」との別れのシーン。ネタばれは、御法度として多くは語らないが、「ああ、そーだったの」、「なーんだ」、と呟きながらも、
さよなら
わたしたち
とても短い恋をしたの
で終わるラストは、不肖私めも、鼻の奥がツンとなってしまったのだが、詳細は、まあ読んでのお楽しみである。
映画では「ぼく」の名は「よしお」という名前になっているが、この絵本では「ぼく」の名前は語られていないように思う。
そして、語られるエピソードも一人のもののようであって、多くの、様々な男の子のもののようでもある。
作者は、すべての「よしお」くんの、いや、すべての男の子の、それぞれの「いけちゃん」の話を届けたかったのかもしれないな、と勝手に結論づけてしまうのであった。
いけちゃんは
ずっとまえから
そばにいる
いけちゃんは
なんとなく そばにいる
から始まる、丸くて、ふわふわの「いけちゃん」と「ぼく」の日々の暮らしと生活と、ぼくの成長と別れを描いた絵本、といっていいのかな?
このあたり大筋は言い得ていると思うが、いまいち、この絵本の全体を通した感覚を表現できていないようでもどかしい。
西原さん特有の、露悪的なギャグを含んだお話、例えば、ぼくが友人にバナナの皮やナフタリンを食わす話などや、喧嘩やいじめ、父親との死別のエピソードが、いつもそばにいる「いけちゃん」とのふれあいが、この人特有のパステル調ではあるが、原色に近い、なんとなく、南国のアジアっぽい色使いとともに語られていくのだが、ワハワハと読みながら、時折うむ・・・とかうならされて、なんとなくもの悲しくなってしまうのは、いつもの西原理恵子調絶好調である。
例えば、父親を亡くした悲しみは、海で100回おぼれるほどの感じ、「100うみ」だと「ぼく」と語りながら、でも
せかい中で人よりはやく
大人にならないといけない
子供っているんだよ
キミも その中の
ひとりなんだよ。
と語っていくあたり、知らず知らず、西原ワールドに入り込んでしまって、恥ずかしながら目が潤んでいるる自分に気づかされてしまう。
そして、「いけちゃん」との別れのシーン。ネタばれは、御法度として多くは語らないが、「ああ、そーだったの」、「なーんだ」、と呟きながらも、
さよなら
わたしたち
とても短い恋をしたの
で終わるラストは、不肖私めも、鼻の奥がツンとなってしまったのだが、詳細は、まあ読んでのお楽しみである。
映画では「ぼく」の名は「よしお」という名前になっているが、この絵本では「ぼく」の名前は語られていないように思う。
そして、語られるエピソードも一人のもののようであって、多くの、様々な男の子のもののようでもある。
作者は、すべての「よしお」くんの、いや、すべての男の子の、それぞれの「いけちゃん」の話を届けたかったのかもしれないな、と勝手に結論づけてしまうのであった。
2009年6月26日金曜日
ubuntuで青空文庫
最近、青空文庫の岡本綺堂にこっていて、半七捕物帖や怪談、昔語りなどを読んでいる。
たいていは、EeePCかアドエスで読むのだが、今は寝室PCとなったIBM ThinkPad A20のubuntuマシンで読んでみようとあれこれ探してみた。
なのだが、どうも、簡単にインストールできそうなものがない。
いわくXJP2をコンパイルしてどうこう、といったものばかりで、力のある時は挑戦してみるのだが、ちょっと仕事が立て込んでいて、コンパイルにつきものの、失敗→再挑戦→再失敗→諦め→再々度挑戦→再々度失敗→再々々度挑戦→ふいに、原因はわからず成功、といったことに取り組む気力がない。
ということで、JAVAベースで動く青空文庫ビューワを導入
インストールはSoSoのここのページからダウンロード。
ダウンロードしたら適当な(アクセス制限のかかっていないところ)において、ダウンロードしたaozora.jnlpをクリック。
すると、ビューワが立ち上がるので、左のペインから読みたいものをクリックすればOK
JAVAが必要なのだが、たしかUbuntuにはプリインストールされているので、あらためて導入はいらないはず。
難といえばIBM ThinkPad A20には、ちょっと重いこと。このソフトはOSを問わなくてWindows XPでも使える。EeePc901ではストレスもあまりなく使えたので、マシンスペックが相応にあれば、かなり使えるのではなかろうか。
たいていは、EeePCかアドエスで読むのだが、今は寝室PCとなったIBM ThinkPad A20のubuntuマシンで読んでみようとあれこれ探してみた。
なのだが、どうも、簡単にインストールできそうなものがない。
いわくXJP2をコンパイルしてどうこう、といったものばかりで、力のある時は挑戦してみるのだが、ちょっと仕事が立て込んでいて、コンパイルにつきものの、失敗→再挑戦→再失敗→諦め→再々度挑戦→再々度失敗→再々々度挑戦→ふいに、原因はわからず成功、といったことに取り組む気力がない。
ということで、JAVAベースで動く青空文庫ビューワを導入
インストールはSoSoのここのページからダウンロード。
ダウンロードしたら適当な(アクセス制限のかかっていないところ)において、ダウンロードしたaozora.jnlpをクリック。
すると、ビューワが立ち上がるので、左のペインから読みたいものをクリックすればOK
JAVAが必要なのだが、たしかUbuntuにはプリインストールされているので、あらためて導入はいらないはず。
難といえばIBM ThinkPad A20には、ちょっと重いこと。このソフトはOSを問わなくてWindows XPでも使える。EeePc901ではストレスもあまりなく使えたので、マシンスペックが相応にあれば、かなり使えるのではなかろうか。
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